復活の事実

コリント第一15:12-20

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15:12 ところで、キリストは死者の中から復活された、と宣べ伝えられているのなら、どうして、あなたがたの中に、死者の復活はない、と言っている人がいるのですか。
15:13 もし、死者の復活がないのなら、キリストも復活されなかったでしょう。
15:14 そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。
15:15 それどころか、私たちは神について偽証をした者ということになります。なぜなら、もしもかりに、死者の復活はないとしたら、神はキリストをよみがえらせなかったはずですが、私たちは神がキリストをよみがえらせた、と言って神に逆らう証言をしたからです。
15:16 もし、死者がよみがえらないのなら、キリストもよみがえらなかったでしょう。
15:17 そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。
15:18 そうだったら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのです。
15:19 もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。
15:20 しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。

 一、歴史の事実

 コリント第一15:3-5に「私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです」とあります。このように、イエス・キリストの十字架と復活が福音の中心です。それは歴史の事実です。1776年にアメリカの独立宣言があり、1789年、ジョージ・ワシントンが初代大統領になったこと、1861年に南北戦争が起こり、1862年、リンカーン大統領によって奴隷解放宣言がなされました。それと同じように、十字架と復活は歴史の事実です。ワシントンやリンカーンがしたことが、世界を変え、アメリカを変えたように、イエス・キリストの十字架と復活は、その後の世界と歴史を変え、信じる者のこころと生活を変えてきたのです。

 キリストの復活は、聖書をはじめとして、さまざまな歴史の証言によって支えられていますが、復活を信じない人、いや、信じたくない人は、復活について、いわゆる「合理的」な説明を試みようとしてきました。女の弟子たちは、イエスが葬られた墓を間違え、ほんとうはイエスの墓ではなく、別の墓に行ったのだという説明から、それは後代に作られた神話だという説までさまざまあります。それらすべてをとりあげることはできませんので、今朝は、幻影説と神話説のふたつだけを見ておきましょう。

 「幻影説」というのは、復活は幻影だったと言う説明です。弟子たちはイエスを慕うあまり、幻を見たというのです。しかし、幻影にしては、それを見た人が多すぎます。ひとりやふたりが同時に見たというのでなく、12人の弟子が同時にイエスに出会っています。コリント第一15:6には「その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました」とあります。これを幻影と考えるのはとてもできないことです。

 ふつう幻影は特定の条件のもとで起こります。ところが、弟子たちがイエスに出会ったのは、あるときは家の中で、あるときはエルサレムからエマオの村に向かう道で、あるときはガリラヤの湖でと、まるで違った場所で、違った条件のもとで、弟子たちはイエスに出会っています。また、幻影というものは徐々に姿を消していくものなのに、弟子たちがイエスを見たのは復活から40日の間だけです。なぜ、40日目に幻影がぷっつりと消えたのでしょうか。キリストの復活とその後の現われを幻影によって説明することはできません。

 それに、弟子たちは、幻影を鵜呑みにするような人たちではありませんでした。トマスは、他の弟子たちが「私たちは主を見た」と言ったとき、「私は、その手に釘の後を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません」(ヨハネ20:25)と言い張りました。トマスばかりでなく、他の弟子たちも、女の弟子たちからキリストの復活のことを聞いたとき、すぐには信じなかったのです。このことは、イエスを見たのが決して幻影ではないことを示しています。頑固な弟子たちが、キリストの復活の証人に変えられたのは、復活が事実であったからです。

 「神話説」は、「イエスはあまりにも素晴らしい人だったから、あのむごたらしい十字架で死んだままにしておくのはもったいない。あの受難の物語のあとに復活の物語をくっつけて、めでたく復活したことにしよう」というわけで、復活の神話が生まれたと説明します。しかし、これはまったく成り立たない推測です。神話というものは、ある出来事が起こってから何百年もたって徐々に作られていくものです。ところが、キリストの復活は、復活から50日目のペンテコステの日から宣べ伝えられているのです。ペテロは、ペンテコステの日に「あなたがたは、神の定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこの方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました。しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです」(使徒2:23-24)と説教しています。その後、神殿で生まれつき足のきかない人をいやしたときも、「あなたがは…このきよい、正しい方を拒んで、人殺しの男を赦免するように要求し、いのちの君を殺しました。しかし、神はこのイエスを死者の中からよみがえらせました。私たちはそのことの証人です。そして、このイエスの御名が、その御名を信じる信仰のゆえに、あなたがたがいま見ており知っているこの人を強くしたのです。イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの目の前で完全なからだにしたのです」(使徒3:13-16)と語っています。

 使徒4:2-3には「この人たち(祭司たち、宮の守衛長、またサドカイ人たち)は、ペテロとヨハネが民を教え、イエスのことを例にあげて死者の復活を宣べ伝えているのに、困り果て、彼らに手をかけて捕えた」とあり、4:33には「使徒たちは、主イエスの復活を非常に力強くあかしし、大きな恵みがそのすべての者の上にあった」とあります。キリストの復活は、教会の始めからのメッセージであり、何十年かかけて教会の教えとして取り入れられたものでも、何百年もかけて作られた神話でもないのです。

 幻影説も、神話説も、「空っぽの墓」を説明することはできません。どの宗教でも、教祖の墓には多くの人がお参りに行きますが、クリスチャンには、お参りにいく墓がないのです。キリストの墓はいまも空っぽのままです。復活を認めたくない人たちは弟子たちがイエスのからだを盗んだと言いますが、それは不可能です。イエスの墓は封印され、ローマ兵によって厳重に見張られていました。弟子たちであれ、だれであれ、墓から遺体を盗むことや、別の墓に移すことはできませんでした。それに、あのときの弟子たちは、ユダヤの指導者たちに見つかりはしないかと恐れ、逃げ隠れしており、そんなことをしようとする気力もありませんでした。もし、弟子たちがイエスの遺体を持っていながら、「イエスは復活した」などと言ったとしたら、それは狂気の沙汰です。キリストの復活が事実でなければ、乱れた世の中にあって正しく、きよく生き、迫害も、殉教もいとわなかった弟子たちの信仰や勇気を説明することはできません。

 もし、どこかにイエスの遺体があるのなら、なぜユダヤの指導者は、それを血眼になって探さなかったのでしょう。彼らがキリストの復活を宣べ伝えるのに手を焼いていたのなら、イエスの遺体を見つけてきて、それを差し出せば良かったのに、なぜそれをしなかったのでしょうか。それは、ユダヤの指導者たちもまた、イエスの墓が空っぽであるという事実を認めていたからです。ペテロをはじめ、使徒たちがキリストの復活を証ししたのは、ガリラヤでもサマリヤでもありません。イエスの墓があるエルサレムです。使徒たちの話を聞いた人は、復活がほんとうかどうかを確かめるため、ちょっと走って行って、その墓を見に行くことができたのです。

 このように、使徒たちはキリストの復活の目撃者として、証拠にもとづいて、キリストの復活を語りました。使徒たちは自分たちが目で見て確かめたうえで復活を信じ、他の誰もが認めることができた事実に基づいて、復活を証ししたのです。

 二、歴史の信仰

 初代教会が、キリストの復活を信じ、宣べ伝えていたことは、誰もが認めることです。では、この復活の信仰はどこから来たのでしょうか。思い違いからでも、幻影からでも、神話からでもありません。キリストが復活されたという事実からです。もし、キリストが復活されなかったら、初代教会が持っていた復活の信仰を説明することはできません。そればかりか、キリストを信じる信仰は根拠のないものになり、キリスト教のすべてが無意味なものとなってしまいます。今朝の箇所では、「キリストが復活されなかったのら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです」(14節)と言っています。そして、キリストは復活したと教えた使徒たちは、それによって人を騙しただけでなく、神に対して偽証したことにさえなる(15節)と言っています。

 神道や仏教の信仰では、信じていることがらが事実であるかどうかはあまり問われません。神道の神話が歴史の事実でないことは誰もが知っていますが、それは問題にはならないのです。古事記や日本書紀にある神話は人間と人間を取り巻く世界の中に神々が宿っているということを教えるためのものであって、それが歴史的な事実でないからといって目くじらを立てる必要はないのです。日の光を受けて自然の恵みに感謝し、人の親切を「有難い」と思うことができれば、それで良いので、自然や社会と調和しながら生きていけば、宗教の目的は達成できるからです。

 京都の神社をとりまとめている京都神社庁のホームページに、こんな説明がありました。

宗教学者で秩父神社宮司の薗田稔氏(京都大学名誉教授)は、神道は「自然の中に神を見た信仰」だと言っておられます。なるほど簡明な説明です。江戸初期の伊勢の神主・出口延佳は「何となくただありがたき心」それが神の道だと。また、平安末期の歌人で有名な西行は伊勢の神宮にお参りして、なにごとのおはしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる(どなたさまがいらっしゃるのかよくはわかりませんが、おそれ多くてありがたくて、ただただ涙があふれ出て止まりません)と詠んでいます。誰も何も言わなくても、ただありがたく、かたじけなく「思わず手を合わせてしまう」それが神道だということでしょう。要するに、神道を薗田宮司の言葉にもう一言添えて説明すれば、「神道は自然の中に神々を感じた信仰」です。
すこし、長い引用になってしまいましたが、神道は「神々を感じる」宗教、「感覚の宗教」であると、神社庁みずからがそう言っているのです。

 神道が「感覚の宗教」なら、仏教は「悟りの宗教」と言ってよいでしょう。本来の仏教は、何かを信じる、頼る、あがめるということはありません。信仰の対象を持たないのです。環境や社会に影響されない、自分の内面の世界を切り開きいていく宗教です。

 イエス・キリストを信じる信仰にも、神を感じ取ることや、神の言葉を学び、それを悟るということがあります。しかし、イエス・キリストを信じる信仰は、「感覚の信仰」でも、「悟りの信仰」でもなく、それは「歴史の信仰」です。「歴史の信仰」というのは、神が、イエス・キリストによって、人間の歴史の中に入って来られ、その歴史の中で救いのみわざを成し遂げてくださったことを信じるという意味です。ですから、キリストの復活がなければ、その信仰は、何の根拠もないものになり、いくらキリストを信じても、何の救いもないということになります。コリント第一15:17-19に「そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。そうだったら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのです。もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です」とある通りです。

 キリストの復活はキリストが神の御子であり、私たちの救い主であることの証拠です。イエス・キリストは「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう」(ヨハネ2:19)と仰って、ご自分の復活を予告されました。イエスを訴えた者たちも、「この人は、『わたしは神の神殿をこわして、それを三日のうちに建て直せる。』と言いました。」(マタイ26:61)と言っています。もし、イエスが復活されなかったなら、イエスがどんなに素晴らしい教えを語ったとしても、自分を神と等しくした尊大で、冒涜的な人物であったということになります。じつにイエスは、その罪で十字架に渡されたのです。復活がなければ、イエスを十字架に渡したユダヤの指導者たちは正しかったのです。復活がなければ、イエス・キリストの十字架が、私たちに罪の赦しを与えることをどうやって確信することができるでしょうか。「あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいる」というのは決して大げさな言葉ではありません。

 「キリストが復活したかどうかはどうでもよいではないか。そう信じることができる人は信じたらいいし、たとえ、復活を信じられなくても、キリスト教には愛の教えがあるから、それを守り行えばよいではないか」と言う人もいるでしょう。しかし、それは「倫理の宗教」であって、福音の信仰ではありません。私たちの救いは、イエス・キリストがグッドフライデーからイースターの三日間にしてくださったことにかかっているのです。聖書は、この救いを「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです」(ローマ4:25)という言葉で要約しています。この救いを受けるためには、キリストが私の罪のために死なれ、私を救うために復活されたことを信じる必要があるのです。ローマ10:9に「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです」とある通りです。イエス・キリストが私の罪のために十字架で死なれ、私を救うために復活してくださったと信じる者に救いがやってきます。それは感じ取る救いでも、悟りによって到達する救いでもありません。神が人類の歴史の中に、打ち立ててくださった客観的な救いです。

 聖書は宣言しています。「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」(コリント第一15:20)イエス・キリストを信じる者は、断じて「すべての人の中で一番あわれな者」ではありません。キリストの復活によって一番幸いな人となるのです。キリストの十字架と復活を信じる者は罪の赦しを受け、平安と希望に生きることができます。十字架のキリストともに過去に死に、復活のキリストとともに未来に向かって、力強く生きることができるのです。キリストは、私のため、またあなたのため、命の道を開いてくださいました。この道を歩きはじめ、歩き続けようではありませんか。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたは、イエス・キリストの十字架と復活によって、私たちのための救いを成し遂げてくださいました。ひとりでも多くの人が、この事実を認め、受け入れ、救いを受けることができますように。また、私たちの信仰が、歴史の事実の上に堅く立ち、それを伝える福音に聞き従うものとなりますように。よみがえられ、常に私たちとともに歩んでくださるイエス・キリストのお名前によって祈ります。

4/7/2013