最もたいせつなこと

コリント第一15:1-5

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15:1 兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。
15:2 また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。
15:3 私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
15:4 また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、
15:5 また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。

 教会には、信仰の内容を表わす特別な「用語」があります。「証し」や「贖い」というのは、教会外ではあまり使われませんが、「三位一体」や「福音」という言葉は、一般でも良く使われます。「政府と企業と学会が三位一体となって癌に効く薬の開発に力を入れる」などと言います。そして癌に効く薬ができたなら、それは「癌患者への福音」となるのです。「福音」は、英語では "gospel" で、これは "good spell"(「良い言葉」)から来ています。「福音」はグッド・ニュース、良い知らせです。

 世の中にはさまざまな良い知らせがあるでしょうが、聖書が伝える「良い知らせ」は最高の「良い知らせ」です。なぜなら、それはあらゆる問題の原因である罪からの救いと永遠の幸いを私たちに約束するものだからです。

 今朝の箇所、コリント第一15:1-5は聖書の伝える「福音」とは何かということを短い言葉で要約しています。ここから、第一に、福音の内容について、第二に、福音の価値ついて、第三に、福音の要求について学んでみたいと思います。

 一、福音の内容

 最初に、「福音の内容」について学びましょう。福音とは何でしょうか。今朝の箇所で使徒パウロは「キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、…」と言っています(3-4節)。福音のエッセンスを語るのに、パウロは「キリストは…」と切り出します。福音とは、戒めでも、教訓でも、物語でもない、それはイエス・キリストが、どのようなお方で、私たちのために何をしてくださったかということです。福音の内容は、じつに、キリストご自身です。

 マルコはその福音書を「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」(マルコ1:1)という言葉で始めています。この「イエス・キリストの福音」という言葉には、「イエス・キリストが語られた福音」という意味ばかりでなく、「イエス・キリストを語る福音」、「イエス・キリストがその内容である福音」という意味があります。パウロも、その手紙の中で「キリストの福音」という言葉を8回使っています(ローマ15:19、コリント第一9:12、コリント第二2:12、コリント第二9:13、コリント第二10:14、ガラテヤ1:7、ピリピ1:27、テサロニケ第一3:2)。「主イエスの福音」(テサロニケ第二1:8)や「御子の福音」(ローマ1:9)というのも入れると全部で10回になります。パウロもまた、福音とは神の子イエス・キリストについての良い知らせだと言っているのです。

 イエス・キリストについて語るのに、キリストが世のはじめから父と御霊とともにおられたこと、人となって世に来られたこと、数々の奇蹟を行い、人々を教えられたことなど、語るべきことは山ほどあります。しかし、パウロは、ここ、コリント第一15章では、そうしたことをすべて省いて、「キリストは、死なれた、葬られた、よみがえられた」と言っています。キリストの福音をグッドフライデーからイースターにかけての三日間に起こった出来事の中に要約しているのです。これは、十字架と復活だけがすべてで、他のことは知らなくて良いということではありません。パウロは「私の福音に言うとおり、ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい」(テモテ第二2:8)と言って、誕生から復活までのイエスのご生涯を思い見ることを勧めています。しかし、イエスのご生涯の中心は、やはり、グッドフライデーからイースターへの最後の三日間にありました。それまでの三十数年は、この三日間のための準備だったと言って良いでしょう。

 いいえ、そればかりでなく、イエス・キリストが世においでになる前の長い歴史もまた、十字架と復活のための準備でした。3-4節に「キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと」とありました。「聖書の示すとおり」、「聖書に従って」と二度も繰りかえされていますが、これは旧約聖書のすべてが、イエス・キリストの十字架と復活を預言している、イエス・キリストの十字架と復活が聖書のすべてを成就し、完成しているということを言っているのです。イザヤ53章はキリストが来られる何百年も前に書かれたものですが、イエスの十字架を、その細部に至るまで、みごとに預言しています。福音書はイザヤ書を引用して、「こうして、聖書が成就した」と言っています。十字架と復活はじつに全聖書の主題なのです。

 ですから、たとえ、イエス・キリストがどのようなお方で、何をなさり、どんなことを教えられたかを知ってはいても、もし、十字架と復活を知らなければ、それは福音を知っていることにはならないのです。イエス・キリストが優れた人物であることを認め、イエスに見習おうとしたり、その教えを自分たちの生活に役立てようとしていても、イエス・キリストの十字架と復活を受け入れない人たちもいます。いつの時代にも、十字架と復活のない「キリスト教」がありましたし、それを本気では信じていない「クリスチャン」がいました。しかし、そこには人を救う福音はありません。「キリストは、死なれ、葬られ、よみがえられた。」これからグッドフライデーからイースターにかけての「聖なる三日間」を過ごす、この時、この福音を心に刻みたいと思います。

 二、福音の価値

 第二に、パウロは、「福音の価値」について、それは「最もたいせつなこと」だと言ってます。「最も大切なこと」という言葉には、文字通りには「第一のもの」という意味があります。主イエスは「神の国とその義とを第一に求めなさい」と言われましたが、この「第一に」も「最も大切なこと」も同じ言葉から来ています。福音、とりわけ、イエス・キリストの十字架の死と復活は、他のどんなことにもまさって大切なもの、あらゆることがらの中で第一にされなければならないものだと聖書は教えています。

 なぜでしょうか。それは、福音が罪の赦しときよめを告げ知らせる唯一の良い知らせだからです。キリストの死は、不幸な偶然が重なったアクシデントでも、信念を貫き通したための殉教、英雄的な死でもありません。それは、罪びとである私たちのための身代わりの死でした。コリント第一15:3は十字架の死について、それが「私たちの罪のため」だったということをはっきりと書き、それを強調しています。

 確かに、この世には様々な罪があります。しかし、ここで言う「私たちの罪」というのは、「人類の罪」や「世界の罪」といった一般的なものを指してはいません。この「私たち」というのは、キリストを信じる人々のことです。自分の罪を知り、その罪のために主イエスがあの十字架の苦しみを受け、死んでいかれたことを知っている人々です。パウロは、この「私たち」の中に自分を含めて、そう言ったのです。パウロは、いつでも、自分が罪びとのかしらであることを自覚していましたから、ここでは「キリストは、私と私と同じ罪びと仲間のために死なれた」と言いたかったのだろうと思います。

 パウロはキリストに出会うまでは、自分は正しい人間であることを信じて疑いませんでした。「イエスはキリストではない」と信じて、教会を迫害していました。しかし、キリストに出会って、それが全く間違ったことであることに気付きました。人間の知識、判断、信念というものが、いかに小さいもの、間違ったもの、もろいものであるかを悟ったのです。そして、そうしたものの上に築いてきた自分の「正しさ」もまた、まったく頼りにならないものであることが分かりました。パウロは、人が「正しい」とされるのは、キリストの十字架と復活によることを知ったのです。主イエスが、私たちが受けるべき罪の報いを十字架の上で引き受けることによって、私たちのために罪の赦しを勝ち取り、復活によって私たちにご自分の義を与えてくださる、このことを信じる者が救われるのです。

 パウロは、この福音を体験したとき、それまで、自分が積み重ねてきたのが、まるで値打ちのないものになってしまったと言っています。ピリピ3:7-8にこうあります。「しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。」罪とは、誰が見ても「悪い」と分かる殺人や盗みなどの犯罪、不真面目でふしだらな生き方といったものだけではありません。パウロのように宗教的、道徳的に非の打ち所のない生活をしてきた人にも、神の真理に逆らって生きるという罪があるのです。「良い」と見えることも、それが「第一」のものにとってかわるとき、罪となるのです。

 自分の罪が分からない人には、キリストの十字架と復活の素晴らしさは分かりません。自分の罪を知る人だけが、「キリストは<私たちの罪のために>死なれた」という福音を、何にもまさる第一のものとして愛することができるのです。聖書が言うようにすべての人は罪を犯していますが、その罪の中でも最大の罪は「自分には罪はない。自分は正しい」と主張する罪でしょう。そういう人は神に近づくことはできません。しかし、自分の罪を知る人は、赦しときよめを求めて神に近づきます。罪は人を神から遠ざけるものですが、自分の罪を知り、悔い改めることは、人を神に近づけるのです。キリストが「私たちの罪のために」死んでくださった、この尊い愛を伝える福音の素晴らしさを心から讃えたいと思います。

 三、福音の要求

 第三に、「福音の要求」について考えてみましょう。「福音の要求」と言っても、福音は私たちにできそうにもない難しいことを要求するようなものではありません。もし、そうなら、それは「グッド・ニュース」ではなくなってしまいます。「恵みの福音」(使徒20:24)という言葉があるように、福音は私たちに神の恵みを伝えるものです。私たちがしなければならないことよりも、キリストが私たちのためにしてくださったことを語るものです。

 けれども、キリストがしてくださったことを「受け入れる」という私たちの役割は残っています。1-2節に「兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです」とあるように、福音は私たちにそれを「受け入れ」、「信じ」、そこに「立ち」、それを「保つ」ことを求めています。「よく考えもしないで信じたのでないなら」という言葉がありますが、これは、信仰は「考える」ということを排除しないばかりか、「考える」ことを必要としていることを教えています。信仰を持つというのは、「キリスト教がよさそうだからそれに入る」、「教会で楽しいことがいろいろあるし、そこで自分を生かせそうだから、その仲間になる」などということと同じではありません。イエス・キリストの十字架が自分にとってどういう意味があるのか、その復活が何を意味するのかを考え、受け入れ、それが自分の罪のため、また、その罪からの救いのためであったことを確信することが、福音を信じる信仰なのです。

 また、福音は信じ、受け入れるだけでなく、それを伝えることを求めています。3節のはじめに「私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです」とあるように、パウロは自分がキリストと他の使徒たちから受けた福音を、コリントの人々に伝えました。主の晩餐についても、同じように、「私は主から受けたことを、あなたがたに伝えたのです」(コリント第一11:23)と言っています。また、自分の弟子テモテに「多くの証人の前で私から聞いたことを、他の人にも教える力のある忠実な人たちにゆだねなさい」(テモテ第二2:2)と教えました。つまり、パウロはキリストから受けたことをテモテに伝え、テモテがさらに次の人に伝えたのです。こうした言葉はキリストから使徒たちへ、使徒たちからその弟子たちへ、その弟子たちからまたその弟子へと福音が受け継がれていくことの大切さを教えています。「受けて、与える。」福音は正しい信仰で「受ける」ことと、受けたものを次の人に「渡す」ことの両方が必要なのです。

 ちょうど、リレーの競技で、バトンが最初の走者から次の走者へ、次の走者からまた次の走者へと受け継がれていくようにです。リレー競技では、バトンを引き渡すポイントから前後10メートル以内にバトンを手渡さなければなりません。その前でも、その後でも失格になります。正しくバトンを手渡さなければ、そこで競技は終わってしまいます。福音の場合も同じです。私たちが福音を自分の内側だけに留めていて他の人に伝えなければ、人々は救われないのです。また、私たちが福音を正しく受け取ることがなければ、それを次の世代に正しく伝えることができません。皆さんは「キリストが私たちの罪のために死なれ、葬られ、よみがえられたこと」という福音を正しく受けとっていますか。もし、まだなら、あなたを救うこの福音を信じ、受け入れてください。あなたが、すでにそれを受け取っているなら、あなたはそれを誰に手渡すつもりでしょうか。福音は「グッド・ニュース」です。「ニュース」は伝えられてこそ意味があります。福音が何であるか、それがどんなに価値あるものかがわかれば、きっと、伝えたくてしょうがなくなるでしょう。福音を学び、福音に生かされ、福音を伝えていく、お互いでありたいと思います。

 (祈り)

 父なる神さま、福音は主イエスから使徒たちに、使徒たちからその後の教会へと伝えられ、今、それは私たちに委ねられています。どうぞ、私たちにこの福音を正しく受け取り、それを次の世代に間違いなく手渡すことができるよう導いてください。主イエスの十字架と復活の福音を心から信じ、愛し、それを良く理解できるよう、助けてください。私たちの罪のために死に、よみがえられたイエス・キリストのお名前で祈ります。

3/24/2013