13:8 愛は決して絶えることがありません。預言ならすたれます。異言ならやみます。知識ならすたれます。
13:9 私たちが知るのは一部分、預言するのも一部分であり、
13:10 完全なものが現れたら、部分的なものはすたれるのです。
13:11 私は、幼子であったときには、幼子として話し、幼子として思い、幼子として考えましたが、大人になったとき、幼子のことはやめました。
ガラテヤ人への手紙には9つの「御霊の実」があげられています。最初の3つ、「愛、喜び、平安」は神との関係における実、次の3つ、「寛容、親切、善意」は他の人との関係における実、そして、最後の3つ、「誠実、柔和、自制」は、私たち自身に関する実です。今日は、最後の3つ、「誠実、柔和、自制」について学びます。
一、誠実
「誠実」は、ギリシャ語で「ピスティス」です。新約聖書では「信仰」と訳されています。しかし、「ピスティス」のもともとは、神が人に対して真実であり、誠実であることを意味するものです。
聖書はいたるところで、神の真実を褒め称えています。「主は岩。主のみわざは完全。まことに主の道はみな正しい。主は真実な神で偽りがなく、正しい方、直ぐな方である。」(申命記32:4)「主よ あなたの恵みは天にあり/あなたの真実は雲にまで及びます。」(詩篇36:5)
神は言われました。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに真実の愛を尽くし続けた。」(エレミヤ31:3)この言葉は、神に背を向け、離れていく人々に対するものです。神は、たとえ、人が不真実、不誠実であっても、ご自分の真実や誠実を貫き通されました。
このような神の真実を知るとき、人は、神に対して真実でありたい、誠実でありたいと願わずにはおれなくなります。それが人から神への「ピスティス」、「信仰」です。ヨシュアは、イスラエルの人々に「今、あなたがたは主を恐れ、誠実と真実をもって主に仕え、あなたがたの先祖たちが、あの大河の向こうやエジプトで仕えた神々を取り除き、主に仕えなさい」と命じています(ヨシュア記24:14)。また、詩篇51:6には「確かに あなたは心のうちの真実を喜ばれます。/どうか私の心の奥に 知恵を教えてください」との祈りもあります。神はこう言われました。「わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない。全焼のささげ物よりむしろ、神を知ることである。」これは、ホセア6:6の言葉ですが、イエスは何度も、この言葉を引用しておられるので、まるで新約聖書の言葉、イエスの言葉であるかのように思われています。律法さえ守っていれば、それで良いとしていた人々に、イエスは、他のどんなことよりも「真実の愛」を求められたのです。
信仰とは、神の真実を信じることであり、神の真実に対して自らも真実をもって答えることです。ヘブル11:11はそのことをよく言い表しています。「アブラハムは、すでにその年を過ぎた身であり、サラ自身も不妊の女であったのに、信仰によって、子をもうける力を得ました。彼が、約束してくださった方を真実な方と考えたからです。」アブラハムは子どもを持つことをあきらめていましたが、神は彼に、サラとの間に子どもを与えると約束されました。アブラハムはその神の真実を信じました。ここには、信仰とは、神の真実に信頼することであるとが、はっきりと書かれています。アブラハムはその信仰によってイサクを得たのです。
ずっと以前のことですが、海外青年協力隊の隊員で、世界のさまざまな国々の人と一緒に働いてきた人と知り合いました。その人は私に、こんなふうに話してくれました。「日本では、滅多に宗教のことや信仰のことは話題にのぼらないけど、他の国の人は必ず、『君の信仰はなんだい?』と聞いてきます。ある時、ぼくが『家の宗教は仏教だけど、ぼくは何も信じていないよ』と答えると、『信仰を持っていない人は信頼できない』と言われてしまいました。」クリスチャンなら誰でも信用できて、無信仰の人なら誰も信用できないということではありませんが、多くの場合「信頼できる人」や「人々から信頼されている人」は、きちんとした信仰を持っている場合が多いように思います。「神を信じている」と言う人が「信用のおけない人」や「信頼できない人」というのでは、困りますが、神を信じる人は、神への信頼を深めていくにつれて、人々からも信頼されるようになるのだと思います。
能力のある人には多くの人が付き従い、気前のいい人のまわりには人が集まるかもしれません。けれども、本当の意味で信頼されるのは、裏表のない真実な人、まっすぐな人です。ある人が、あるクリスチャンのリトリートのスモールグループで体験したことを話してくれました。「私が加わったスモールグループには年配の人たちが多かったのですが、信仰歴何十年というクリスチャンが、『今も、日々悔い改めて、成長を求めています』と話しているのを聞いて、その誠実さに感動しました」と言うのです。「誠実」とは、ものごとを完璧にこなすことができるとか、人間的に落ち度がないといったことではありません。たとえ、足らないところがあっても、失敗があっても、その心や生き方に偽りがないことです。自分の心や生活を正直に見つめ、罪や誤りがあればそれを心から認め、悔い改め、正していく姿は美しいものです。そうした誠実さが他の人に感動を与えるのです。神は私たちの心の中に真実を求められますが、人々もまた、神を信じる者たちに、それにふさわしい誠実さを求めていると思います。御霊の実である「誠実」をいただき、真実な生き方、誠実な行いによって人々の信頼を勝ち取る者でありたいと願います。
二、柔和
第八番目の実、「柔和」とは、決して、物腰が柔らかいというだけのことではありません。それは、神の前に心からへりくだる謙遜さを意味しています。被造物である私たちが創造者であるお方の前にひれふすこと、また、罪を持った私たちが、聖なるお方の前に畏れの思いを持つことです。そして、そのような心で神の前に立つ人はまた、他の人に対しても、謙遜でいられるのです。
日本人は謙遜や柔和を美徳としてきました。しかし、神を知らなかったときには、おひとりの偉大な神の前には、人間はみな等しい存在だということが心の底から分かっていませんでした。自分と他の人と比べ、自分は人よりも優れているとか、劣っているとかを気にしながら生きてきました。「日本人は腰が低い」と、よく言われます。ある人は「それは足が短いからだ」という冗談を言いましたが、神は、そのような腰の低さや、表面だけの優しげな態度ではなく、内面の「柔和さ」を求めておられます。ペテロの手紙第一3:4に「むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人を飾りとしなさい。それこそ、神の御前で価値あるものです」とあります。どんなに自分を飾り立てても、謙遜ぶっても、それが心から出たものでなければ、本物でないものは、いずれ、見破られてしまいます。本当の柔和は、御霊の実として与えられるのでなければ、決して得ることはできません。そして、イエスが「柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです」(マタイ5:5)と言われたように、「柔和」の実を持つ者は、神から大きな祝福を受けることができるのです。
三、自制
第九番目の実、「自制」には忍耐が含まれますが、それは現代の私たちに、一番欠けているものかもしれません。簡単に「切れてしまう」人が多くなりました。私は、最初、「切れる」というのが何のことだか分かりませんでした。けれども、「堪忍袋の緒が切れる」という言葉を思い出し、忍耐ができなくなる、自制心が効かなくなることだと分かりました。
風に乗って空を舞う凧には、紐がついています。紐があるので、凧はコントロールが効くのです。紐が切れてしまったら、どこに飛んでいくか分からず、やがて地面に落ちて、壊れてしまいます。自制心は凧の紐にたとえることができます。どんなに人に対して寛容で、親切で、善意があり、誠実であり、柔和であったとしても、自制を失った瞬間に、それらすべてのものが台無しになってしまうのです。
それで、使徒パウロは、スポーツのことをたとえに引いてこう言いました。「競技場で走る人たちはみな走っても、賞を受けるのは一人だけだということを、あなたがたは知らないのですか。ですから、あなたがたも賞を得られるように走りなさい。競技をする人は、あらゆることについて節制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。ですから、私は目標がはっきりしないような走り方はしません。空を打つような拳闘もしません。むしろ、私は自分のからだを打ちたたいて服従させます。ほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者にならないようにするためです。」(コリント第一9:24-27)
天分に恵まれているだけでは、一流のスポーツ選手にはなれません。その素質を活かす努力、練習、節制、自制が必要です。シアトル・マリナーズのイチローさんは、2019年に現役を引退して、今は、日本とアメリカで野球のインストラクターとして働いています。彼の身長は5.9ftで、180cmに少し足りません。アメリカ選手や大谷選手とくらべると小柄に見えます。アメリカでプレーするには不利だったかもしれませんが、彼はその分、トレーニングに励みました。筋肉をつけながら、しかも柔軟な身体をつくりあげ、怪我をしない運動能力を磨き上げました。仲間から「付き合いが悪い」と言われても、羽目をはずさず、練習に打ち込み、それによって数々の記録を打ち立てました。「節制」や「自制」がスポーツ選手に必要なら、信仰の競技者である私たちに必要なことは言うまでもありません。
「自制」(“self-control”)には、日本語でも英語でも「自分」や“self” という言葉が入っているので、それは自分の努力でしなければならないことだと考えられがちです。パウロが「私は自分のからだを打ちたたいて服従させます」と言っているのを見ると、大変な難行苦行のように思えてしまいます。しかし、自制は「御霊の実」の一つです。聖霊が生み出してくださるもので、自分の力で身に着けるものではありません。実を結ぶための条件を満たしさえすれば、実はおのずと結ばれてくるのです。実を結ぶための条件とは、信仰によってイエス・キリストと結ばれていることです。イエスは言われました。「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。」(ヨハネ15:5)ぶどうの枝が幹につながっていなければ、実を結ばないどころか、枯れてしまいます。しかし、イエス・キリストを信じるとき、私たちはキリストに結ばれます。そして、キリストに結ばれることによって、キリストの命が私たちの内に働きます。その命によって、私たちは実を結ぶのです。イエス・キリストと私たちを結びつけ、その命を運んでくださるお方が、聖霊です。ですから、そこで結ばれる実は、「御霊の実」と呼ばれるのです。
さきほどの凧のたとえでいえば、キリストから離れた自分は、紐の切れた凧と同じで、遅かれ早かれ、コントロールを失ってしまいます。私たちが凧なら、その紐を握ってコントロールしてくださるのは聖霊です。ガラテヤ5:16-18にこうあります。「御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。肉が望むことは御霊に逆らい、御霊が望むことは肉に逆らうからです。この二つは互いに対立しているので、あなたがたは願っていることができなくなります。御霊によって導かれているなら、あなたがたは律法の下にはいません。」ここでの「肉」は「自分」と言い替えてもいいでしょう。「自分」で自分をコントロールしょうとするのが「自制」ではありません。「聖霊」に導いていただいて日々を歩む。それが「自制」です。
「愛、喜び、平安」、「寛容、親切、善意」、そして、「誠実、柔和、自制」。これらすべては御霊の実です。イエス・キリストを信じて聖霊を受け、聖霊によって新しく生かされる。そして、聖霊に信頼し、聖霊に導かれて歩む。御霊の実は、その中で結ばれていきます。実を結ぶことを願い求め、そのために、しっかりとキリストにつながっていましょう。
(祈り)
父なる神さま、御霊の実は誰もが持ちたいと望むものばかりです。けれども、それを自分の力で得ようとしても得られるものではありません。それは、あなたを信じ、キリストにつながり、聖霊に信頼することによってしか持つことができません。私たちにそのような信仰の歩みを与えてください。そして、あなたのために実を結ぶ者としてください。イエス・キリストのお名前で祈ります。
6/18/2023