信仰・希望・愛

コリント第一13:12-13

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13:12 今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、そのときには顔と顔を合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、そのときには、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。
13:13 こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。

 ごらんいただいている写真は、ある器械の一部です。「45、33、16」という数字が刻まれ、切り替えられるようになっていますが、これは何でしょう? レコードを聴くためのターンテーブルで、「45、33、16」というのは、その回転数のことです。LP レコードは一分間に33-1/3回転でした。1982年に CD が出て、5年ほどでレコードは作られなくなりました。今では CD も姿を消し、音楽はスマートフォンで聴くようになりました。ドラマもムービーもネット配信で観るようになり、DVD もいずれ無くなるでしょう。時代が変われば、物事も変わります。さまざまなものが時ととも廃れていきます。

 しかし、どんなに時代が進んでも、無くならないもの、すたれないものがあります。それは、「信仰と希望と愛」です。なぜ、「信仰と希望と愛」が「いつまでも残る」ものなのでしょう。それを、ご一緒に考えてみましょう。

 一、信仰

 いつまでも残る3つのもの、その1つ目は「信仰」です。「信仰」は、本来は、神の「真実」を意味します。聖書は、こう言っています。「御恵みは とこしえに打ち立てられ/あなたはその真実を 天に堅く立てておられます。」(詩篇89:2)「主はいつくしみ深く/その恵みはとこしえまで/その真実は代々に至る。」(詩篇100:5)「あなたの真実は代々に至ります。」(詩篇119:90)神の真実が無くなることはありませんし、変わることもありません。それは永遠で、いつまでも残ります。

 信仰とは、神が真実であることを認め、その真実に、信頼を寄せることです。この信仰が、神と私たちとを結びつけます。神の真実が永遠に変わらないように、この信仰による結びつきもいつまでも変わりません。信仰はいつまでも残るのです。

 信仰はいつまでも残るものなのですが、私たちは時として、自分の信仰の足らなさ、不信仰を嘆きます。不信仰な自分を見て、不安になります。そんな時、私が思い起こすのは、マルコ9:24の「信じます。不信仰な私をお助けください」との言葉です。これは、ある父親の言葉ですが、この父親は、息子の病気の癒やしをイエスに願って言いました。「おできになるなら、私たちをあわれんでお助けください。」イエスは、それに対して「できるなら、と言うのですか。信じる者には、どんなことでもできるのです」と、父親の不信仰をたしなめました。この父親は、イエスが息子を「癒やすことができる」、「癒やしてくださる」と信じて願うべきだったのです。父親は自分の不信仰を思い知らされましたが、息子の癒やしをあきらめませんでした。そして、「信じます。不信仰な私をお助けください」と叫びました。

 私たちは、誰も、信仰によって救われます。行いで救われる人は誰もいません。救われる道は信仰しかないのです。ところが、私たちの信仰は、ほんとうにちっぽけなものです。信仰とは呼べないようなものかもしれません。しかし、イエスは、からし種1粒ほどの信仰でも、大きな働きをすると言ってくださいました。もちろん、私たちの信仰はいつまでもからし種1粒のままではなく、それが土にまかれ、芽を出し、大きく育つようにしなければいけないのですが、私たちのうちに神に信頼する心のひとかけらでもあれば、神はそれを「信仰」と呼んで受け入れてくださるのです。信仰の足らなさを思うときには、このことをよりどころとしましょう。

 パリサイ人や律法学者たちは、聖書の知識があり、宗教上の掟を守り、いかにも敬虔そうに振る舞っていました。そして、自分たちの正しさや信仰深さを誇っていました。しかし、実際は、その心に神への真実がなく、人々への愛もなかったのです。それに対してイエスは、自分の信仰深さに頼るのではなく、神の真実により頼むことが本当の信仰だと教えてくださいました。神が人に求め、喜んでくださるのは、たとえ自分の不信仰に嘆いたとしても、神の真実によりすがる心です。イエスは、「信じます。不信仰な私をお助けください」との叫びを受け入れ、即座に息子を癒やしてくださいました。

 神の真実に、精一杯の真実をもって応える。それが信仰です。そして、この信仰が私たちを強くし、地上の歩みを守り、支えてくれます。私たちを天に導き、神との永遠のまじわりに入れてくれるのです。信仰は「いつまでも残る」のです。

 二、希望

 いつまでも残るものの2つ目は「希望」です。

 人は、どんなに健康で、経済力があったとしても、希望を失ったら生きていくことができません。人を生かすのは希望です。私はアメリカで、さまざまな国からの留学生たちに出会いました。とくに、アジアやアフリカからの学生たちは、みな、アメリカで勉強したら、母国に帰って母国のために働きたい、あるいは、アメリカで働いて自分を伸ばしたいという希望を熱心に語ってくれました。ところが、たまたま私が出会った日本からの学生の多くは、とくにそうした意欲もなく、「アメリカなんてたいしたことはない。日本のほうがよほど進んでいる」といった態度で、あまりも勉強せず、学校を卒業して帰る人やアメリカに残って就職する人はあまりいませんでした。一言でいえば、一方は希望を持ち、他方は希望を持っていませんでした。しっかりした希望なしには、この世においても、人はゴールに届くことができないのです。

 同じように、信仰者にとって、希望がなければ、天というゴールを見失ってしまいます。バンヤンの『天路歴程』では、主人公の「クリスチャン」が天の都に着くまで、彼を励まし続けたのは Mr. Hope、「希望」でした。天への旅は、希望に支えられてはじめて続けることができます。実際、神は、この世だけでなく、天にまで続く希望を私たちに与えてくださっています。ペテロ第一1:3に「神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持たせてくださいました」とあります。その希望は、「生ける望み」と呼ばれています。

 「生ける望み」、それには「生きている希望」、また「人を生かす希望」という意味があります。それは、憧れて思い描いた、言葉だけのものではありません。それは、現実のもの、力あるもの、私たちのうちに働いているもの、決して死に絶えてしまわないものです。人は多くの望みを持ちますが、そのすべてが実現するとは限りません。実現しないもののほうが多いかもしれません。希望が失望に、失望が絶望に変わることもあるのです。しかし、神がくださる希望は、決して失望で終わりません。人の目に、「もう望みはない」と見えたとしてもです。この望みは「イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって」与えられた希望です。イエスが一度死なれてもよみがえらたように、それは死を乗り越えた希望、乗り越えさせてくれる希望です。

 そして、神がくださった希望はかならず実現します。もっと神を知りたいという願い、希望は成就します。コリント第一13:12に「今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、そのときには顔と顔を合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、そのときには、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります」とあるように、天に到着するとき、私たちは神の栄光を見、神の御顔を仰ぎ見ます。これが私たちに与えられている希望です。この希望が私たちを生かします。困難の中で私たちを支えます。苦しみがっても、それを乗り越えさせてくれます。天に導き、神の御顔を仰がせてくれます。希望は「いつまでも残る」のです。

 三、愛

 いつまでも残るもの。3つ目は「愛」です。コリント第一13:8に「愛は決して絶えることがありません」とあるように、神の愛は永遠の愛です。いちずな愛です。気まぐれに移り変わるもの、やがて終わってしまうものは「愛」と呼ぶことができません。聖書は、「神からの愛の手紙」と呼ばれるように、どこを開いても、神の永遠の愛、変わらない愛が語られています。イザヤ54:10にこう書かれています。「たとえ山が移り、丘が動いても、わたしの真実の愛はあなたから移らず、わたしの平和の契約は動かない。──あなたをあわれむ方、主は言われる。」これが神の愛です。この愛は決して絶えることはありません。いつまでも残るのです。

 そればかりでなく、愛は、いつまでも残る3つのものの中で、「一番すぐれている」と言われています。なぜでしょう。それは、愛の中に、信仰も希望も含まれているからです。コリント第一13:7に、愛は「すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます」とあります。愛は、「信じ」、「望む」のです。

 また、信仰や希望は、人の目に隠れていることがありますが、愛は態度や行いによって表現されます。目に見えるものです。ガラテヤ5:6に「愛によって働く信仰」とあるように、愛は、信仰を目に見える形で働かせるものです。どんなに信仰があり、心に希望を秘めていても、もし、それが愛によって働き、表現されなければ、誰もそれを見ることができません。そういった意味でも、愛が「一番すぐれている」と言われているのです。

 コリント第一14章1節は、13章の「愛の章」の結論として、「愛を追い求めなさい」と言っています。「愛を追い求めなさい。」これは、自分を愛してくれる人を探し求めることではありません。私たちはすでに、神の愛を受けています。「愛を追い求める」とは「愛されること」ではなく「愛すること」を追い求めるという意味です。もっと、神を愛し、隣人を愛し、大切にしていきたいと願うことです。

 それは、自分が「御霊の実」に満たされていなければできないことですから、「愛を追い求める」ことは、「御霊の実」が豊かに結ばれることを願うことでもあるのです。愛が、信仰や希望とともに絶えることがなく、いつまでも残るように、御霊の実もいつまでも残ります。イエスは、弟子たちに言われました。「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものをすべて、父が与えてくださるようになるためです。」(ヨハネ15:16)イエスはぶどうの木、イエス・キリストを信じる私たちはその枝です。ぶどうの枝の役割は、葉を繁らせることでも、強く、太くなることでもありません。それは「実を結ぶ」ことにあります。しかも、その実が残ることです。実際の果物の実は、やがて、しぼんでいきます。いつまでも残るものではありません。しかし、キリストにつながって結ぶ実は滅びません。いつまでも残るのです。

 なにもかも移り変わっていくこの世にあっても、私たちは変わらない神の愛を知っています。その愛に応えて、神を愛し、人を愛することを教えられています。「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」という「いつまでも残る実」を結ぶ者とされました。やがて消えていくものではなく、いつまでも残る「信仰、希望、愛」をしっかりと保っていましょう。信仰の実、希望の実、愛の実、つまり、御霊の実を結ぶことを目指して励みたいと願います。

 (祈り)

 愛する主よ、あなたは私たちを永遠の愛、真実な愛、力強い愛で愛してくださっています。この週も、あなたが与えてくださっている愛を確認し、また、確信し、その愛に応えていく歩みを与えてください。いつまでも残る御霊の実を結ぶものとしてください。あなたがお与えくださった信仰と希望と愛の賜物を感謝し、イエス・キリストのお名前で祈ります。

6/25/2023