晩餐のコイノニア

コリント第一10:14-21

オーディオファイルを再生できません
10:14 それだから、愛する者たちよ。偶像礼拝を避けなさい。
10:15 賢明なあなたがたに訴える。わたしの言うことを、自ら判断してみるがよい。
10:16 わたしたちが祝福する祝福の杯、それはキリストの血にあずかることではないか。わたしたちがさくパン、それはキリストのからだにあずかることではないか。
10:17 パンが一つであるから、わたしたちは多くいても、一つのからだなのである。みんなの者が一つのパンを共にいただくからである。
10:18 肉によるイスラエルを見るがよい。供え物を食べる人たちは、祭壇にあずかるのではないか。
10:19 すると、なんと言ったらよいか。偶像にささげる供え物は、何か意味があるのか。また、偶像は何かほんとうにあるものか。
10:20 そうではない。人々が供える物は、悪霊ども、すなわち、神ならぬ者に供えるのである。わたしは、あなたがたが悪霊の仲間になることを望まない。
10:21 主の杯と悪霊どもの杯とを、同時に飲むことはできない。主の食卓と悪霊どもの食卓とに、同時にあずかることはできない。

 一、コイノニア

 聖書のいくつかの言葉は一般に使われるのとは違った意味や、一般に使われる以上の意味が含まれています。たとえば「愛」という言葉ですが、仏教ではあまり良い意味で受け取られず、「愛」よりも「慈悲」が重んじられ、武士道では「仁」のほうが尊ばれます。「愛」という文字は、古くは「めでる」「おしむ」「いつくしむ」などと読まれ、「あいする」と読まれるようになったのは、明治以降、英語の“love”という言葉や概念が入ってきてからだと言われています。今日では「愛」というと、まずは「男女の愛」を意味するようになりました。しかし、聖書でいう「愛」はそれ以上のものなのです。それで、聖書では、当時あまり使われなかった「アガペー」(αγάπη)という言葉を使って、一般に使われる「愛」と区別しました。

 コリント第一13章は「愛の章」として知られています。「愛はいつまでも絶えることがない。…いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である。」(コリント第一13:8, 13)この箇所で、King James Version は「愛」をあらわすのに“love”ではなく“charity”を使っています。それは、コリント第一13章の「愛」が男女の愛や夫婦の愛ではなく、神の愛であることを伝えるためです。男女の愛ほど気まぐれなものはありません。神の愛に支えられないかぎり、夫婦の愛といえどもいつか破綻する危険があるのです。

 聖書の言葉が書かれた時代や文化は、現代とわたしたちの社会と随分違っています。何よりの違いは、聖書は、神のお心の中から、その口から出た言葉であるということです。ですから、聖書を人間的、地上的な視点で読むのでなく、神の言葉として読み、学ぶのでなければ、本当の意味を理解することができません。そうでないと、聖書の言葉を違った意味でとらえ、それをずっと誤解したままでいるといったことが起こります。

 クリスチャンの間でさえ、誤解されている聖書の言葉がいくつもありますが、そのひとつが「まじわり」という言葉だと思います。この言葉は、日常生活で、ほとんど使われませんが、使うとしたら、「交際」「関係」「交渉」「交流」などといった意味で使われます。ひらたく言えば「つきあい」ということです。「まじわり」のもとの言葉は「コイノニア」(κοινωνία)で、聖書に最初に出てくるのは使徒2:42です。「そして一同はひたすら、使徒たちの教えを守り、信徒のまじわりをなし、共にパンを裂き、祈りをしていた」とあります。

 日本語の聖書では「コイノニア」を「まじわり」と訳しています。文語訳では「交際」という漢字を使っていますが、「まじわり」とルビをふってあります。口語訳は「信徒のまじわり」と訳しましたが、「信徒の」という言葉は原語にはありません。別の日本語訳では「信者相互のまじわり」(共同訳)や「兄弟的な一致」(バルバロ訳)などとありました。こうした訳語は、「コイノニア」が「つきあい」とは違うもの、それ以上のものであることを言い表わそうとしたのです。

 二、キリストのコイノニア

 コリント第一1:9にこう書かれています。「神は真実なかたである。あなたがたは神によって召され、御子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに、はいらせていただいたのである。」「イエス・キリストのコイノニア」、これが、時間の順序では、聖書ではじめに語られている「コイノニア」です。

 「コイノニア」には「共有」という意味があります。英語では「シェア」という言葉がよく使われます。何人かで家賃を分け合って住んでいる家を「シェアハウス」といいます。また、そこに滞在している期間分だけの経費を払って、別荘などを利用することを「タイムシェア」ともいいます。このように「コイノニア」はひとつのものをふたり以上で共有することを意味します。

 では、「キリストのコイノニア」ではキリストと何を共有するのでしょうか。キリストの「いのち」を共有します。わたしたちはキリストのいのちで生かされるのです。キリストの「義」を共有します。それによってわたしたちは罪をおおわれて神の前に立つことができるようになります。キリストの「聖さ」を共有します。それによってキリストのように変えられます。御子の「身分」を共有し、神の子どもとされます。そして、「天国」の相続を共有し、キリストとの共同相続人となったのです(ローマ8:17)。

 この「キリストのコイノニア」が、クリスチャン相互のコイノニアの基礎です。これがなければ、相互のコイノニアは「つきあい」で終わってしまいます。

 ヨハネの手紙第一も、同じように、「キリストのコイノニア」をクリスチャン相互のコイノニアの基礎だと言っています。ヨハネ第一1:3にこうあります。「すなわち、わたしたちが見たもの、聞いたものを、あなたがたにも告げ知らせる。それは、あなたがたも、わたしたちの交わりにあずかるようになるためである。わたしたちの交わりとは、父ならびに御子イエス・キリストとの交わりのことである。」ヨハネは、相互の「コイノニア」を持ちたいと願って手紙を書きました。手紙を書いたり、メールを出したり、声をかけるなどするのは、その相手と良い関係を築きたいためです。しかし、ヨハネは、人間的な交際を求めてそうしたのではありません。人々が、神とキリストとのコイノニアにあずかり、それによって互いのコイノニアを持つことができるようにと、ヨハネは願ったのです。

 6-7節にこうあります。「神と交わりをしていると言いながら、もし、やみの中を歩いているなら、わたしたちは偽っているのであって、真理を行っているのではない。しかし、神が光の中にいますように、わたしたちも光の中を歩くならば、わたしたちは互に交わりをもち、そして、御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである。」光の子らが「光の中を歩く」とき、つまり、神とキリストのコイノニアに留まるとき、互いにコイノニアを保つと教えています。

 しかし、わたしたちは、いつも完全な歩みができるとは限りません。罪を犯し、神とのコイノニアも、互いのコイノニアをも壊してしまうことがあります。そんなとき、どうやってコイノニアを回復すれば良いのでしょうか。8-9節には、その方法が教えられています。第一に自分の罪を認めることです。8節に「もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであって、真理はわたしたちのうちにない」とある通りです。第二に、自分の罪を口で告白して、赦しときよめを求めることです。9節にこうあります。「もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。」神は、御言葉に従う者に、ゆるしときよめを約束してくださっており、それによって、わたしたちは神とのコイノニアと互いのコイノニアを回復し、保つことができるのです。

 三、晩餐のコイノニア

 さて、今日の箇所には、晩餐式における「コイノニア」が描かれています。16節に「わたしたちが祝福する祝福の杯、それはキリストの血にあずかることではないか。わたしたちがさくパン、それはキリストのからだにあずかることではないか」とあります。ここは直訳すれば、「キリストの血のコイノニア」、「キリストのからだのコイノニア」となります。「キリストの血のコイノニア」というのは、キリストの血によってわたしたちが罪を赦され、きよめられるとともに、キリストの血、つまり、キリストの命が、わたしたちの中に注がれ、わたしたちを生かすことを言っています。「キリストのからだのコイノニア」というのは、わたしたちがキリストのからだの一部となり、その手足となって、キリストのために働くことを意味しています。晩餐式は、バプテスマと同じように、たんなる儀式ではなく、ひとりひとりをキリストのからだと結びつけ、共にパンをいただく者たちをキリストにあってひとつのからだにするものなのです。

 これはとても不思議なことです。晩餐式がなくても、御言葉によってわたしたちはキリストの十字架を思いみることができ、キリストによって赦され、きよめられ、そして生かされているこを理解することができます。しかし、キリストは、言葉によってだけでなく、食べて飲むという行為によっても、「わたしを覚えよ」と言われました。パンを食べ、杯を飲むという具体的な行為によって、御言葉に教えられているキリストの恵みが形あるものとなって、わたしたちのからだの中に入ってくるのです。わたしたちは、その恵みをからだで覚え、からだでその恵みにこたえていくのです。

 晩餐式では霊的、信仰的に「キリストの肉を食べる」のですが、「肉を食べる」ことについて、初代教会のクリスチャンの間で、ひとつの問題がありました。当時、ギリシャやローマの神々に犠牲として捧げられた動物の肉が他の肉といっしょに市場で売られていました。それで、あるクリスチャンは、「偶像に捧げられたものを食べると、偶像にかかわることになるので、いっさい肉を食てはいけない」と主張し、他のクリスチャンは「どんな食べ物も祈りと感謝によってきよめられるのだから、食べても良い」と考えました。パウロ自身は後者の意見を持っていましたが、前者の考えを持っている人たちをも、十分に配慮するよう教えています。しかし、パウロが語った「自由」を履き違えて、堂々と偶像の宮に出入りをする者もありました。きょうの箇所で、パウロが「偶像礼拝を避けなさい。…主の杯と悪霊どもの杯とを、同時に飲むことはできない。主の食卓と悪霊どもの食卓とに、同時にあずかることはできない」と言っているのは、そのためです。主の晩餐にあずかる者が偶像の宮で偶像に捧げられたものを飲み食いすることは出来ないことなのです。

 今日ではこのような問題はないでしょう。しかし、晩餐式によってキリストの聖なる血肉にあずかる者が、性的なあやまちによって自分のからだを汚したり、うらないやまじないなど悪霊の働きが背後にあるものに関わったり、倫理的に問題のあるビジネスをするといったことはあると思います。この箇所は、そのようなことがあってはならないことを教えています。主の食卓と悪霊の食卓は決してまじわることがないからです。コリント第二6:14に、「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう」とあるように、「光」と「暗やみ」とにどんな「交わり」(コイノニア)もないのは、誰にもあきらかです。わたしたちは、「光のコイノニア」に属しています。ですから、光とまじわることのないものから「聖別」されていなければなりません。

 「聖別」といっても、それは世の中のいっさいのものを否定して隠遁生活をするということではありません。たといそうした生活をしたからといって、人は、罪から解放され、世の影響から自由になれるわけではありません。では、神の国とこの世とを足して2で割ればいいのでしょうか。しばしば、それが「バランスのとれたクリスチャン生活」だと言われますが、聖書はそう教えてはいません。光と闇、神の国と世、聖霊と悪霊になんの「コイノニア」もありません。右足に神の靴、左足にこの世の靴を履いては歩けません。きっぱりと光の側に立ち、神の国を求め、聖霊によって歩むべきです。しかし、この世に光を届け、神の国をあかしするため、この地に留まり、誠実を養い、善を行うのです(詩篇37:3)。

 晩餐式は、キリストの「からだとのコイノニア」、キリストの血の「コイノニア」です。この「コイノニア」に留まり、それに生きる決意を、この晩餐式で、もういちど新しくしたいと思います。

 (祈り)

 真実な神さま、あなたは、わたしたちを、あなたの御子、また、わたしたちの主である、イエス・キリストのコイノニアに招き入れてくださいました。このコイノニアが意味することをさらに深く教えてください。真実な神に、真実な罪の告白をささげながら、光のコイノニアの中に留まることができるよう、助けてください。主イエスのお名前で祈ります。

8/5/2018