試練と誘惑

コリント第一10:13

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あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。

 きょうは「主の祈り」の第六の願い「わたしたちを試みに会わせないで、悪しき者からお救いください」を学びます。「主の祈り」で使われている「試み」という言葉にはふたつの意味があります。ひとつは「試練」で、もうひとつは「誘惑」です。ですから、「試みにあわせないでください」という場合、「試練にあわせないでください」とも、「誘惑にあわせないでください」とも祈ることができます。この願いは、試練と誘惑の両方に関係しています。それで「試練」と「誘惑」について学ぶことにしましょう。

 一、試練

 最初に「試練」から学んでみましょう。ヤコブ1:12にこうあります。

試錬を耐え忍ぶ人は、さいわいである。それを忍びとおしたなら、神を愛する者たちに約束されたいのちの冠を受けるであろう。
「試練」は神から来るものです。神は、試練によってわたしたちの目を神に向けさせ、神に信頼させようとなさいます。多くの人は試練に出会って信仰に導かれたり、信仰を成長させたりします。

 先週、横田早紀江さんのことをお話しました。当時中学生だった娘のめぐみさんが学校から家に帰る途中、忽然と姿を消しました。警察の必死の捜査にもかかわらず、彼女の行方は全くわかりませんでした。横田さんは、娘に深い心の悩みがあって、それで行方をくらましたのではないかと考えました。「どうして、娘の気持ちを分かってあげられなかったのだろう」と自分を責めました。この事件があって、いろんな人が彼女を訪ね、さまざまなアドバイスを与えましたが、その多くは「因果応報」についての話でした。先祖に悪いことをした人がいて、その報いが娘に現れたのだというのです。だからお祓いをしてもらいなさい、先祖を供養しなさいというのですが、そんなアドバイスは、彼女をもっと苦しめました。

 そんな時、友人のひとりが、「聖書のヨブ記を読んでみたら」と言って一冊の聖書を置いて帰りました。悶々とした日を過ごしていた彼女は、すぐには聖書を開くことができませんでした。しかし、ある日、大きな悲しみが襲ってきた時、彼女は聖書を開き、ヨブ記を読みはじめました。彼女は、それまでに聖書のことばには断片的に触れていましたが、この時はじめて自分から進んで聖書を読みました。ヨブ1:21の「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」ということばが彼女の心をとらえました。彼女は、ヨブ記を一気に最後まで読みました。そして、「人間よりも偉大なお方がおられ、すべてを包んでおられる」ということが分かり、聖書から深い慰めを得たのです。

 その時の彼女には、聖書の予備知識はほとんどありませんでした。ヨブ記といえば、クリスチャンにとっても「難しい」書物と考えられています。しかし、彼女は、その「難しい」といわれる聖書から神を知ったのです。彼女は「悲しくて、悲しくて、泣きながら読みました」と言っています。その時、感情は混乱していました。しかし、神の言葉は、そうしたことを越えて、彼女の心に入っていきました。神の言葉には力があって、痛んだ心に慰めを届けることができるのです。

 アメリカでは聖書はグロッサリーストアでも、ドラーショップでも売っています。インターネットを使えば無料でダウンロードできます。そんなに身近にあっても、人々は聖書を読もうとはしません。教会で聖書を学んでいても、それが「お勉強」で終わってしまったり、説教も「お話」で終わってしまう場合もあります。しかし、愛する人を亡くしたり、自分が病気になったり、あるいは、とても難しい問題に出会ったときには、聖書の言葉が心に大きく響いてきます。ある人が「試練は神のメガフォンである」と言いました。神は試練を通してわたしたちにはっきり、くっきりと神の言葉を聞かせてくださるのです。詩篇119:71に「苦しみにあったことは、わたしに良い事です。これによってわたしはあなたのおきてを学ぶことができました」とある通りです。

 ヨブは一日にして財産を、家族を、健康を失いました。しかし、信仰を失うことなく、苦しみの中で耐えました。試練の後、神はヨブが失ったすべてのものを回復してくださいました。ヨブは試練を通して、もっと大きな神の恵みを受けたのです。試練は「損失」のように見えます。しかし、実際は「益」なのです。試練の只中にいるときは、そうは思えないかもしれませんが、試練を忍び通して振り返ってみると、それが分かります。「あの試練がなかったら、神を信じることはなかった」、「あの試練によって、わたしは自分をとりもどすことができた」という証しを、わたしは多く聞いてきました。わたしたちは試練を通して、人格の成長を見ることができ、神からも人からも信頼される者になり、目に見えるさまざまな面でも数々の祝福を受けるのです。

 そうであるなら、わたしたちは「神さま、どうぞ、わたしにたくさんの試練をお与えください」と祈ればいいのでしょうか。いいえ、主イエスは「わたしたちを試みにあわせないでください」と祈るよう教えてくださいました。「わたしはどんな試練にも耐えられる」などと思い上がってはいけないのです。わたしたちはどんな試練にも耐えられるほど強くはありません。試練は結果として大きな祝福となるのですが、耐えられないような大きな試練に突然放り込まれると、わたしたちは神を疑ったり、希望を失ったりしてしまうことがあります。神はそんなわたしたちの弱さをよくご存知です。「わたしたちを試みにあわせないでください」との祈りは、「わたしたちの限界を越えた試練をお与えにならないでください」との祈りでもあるのです。

 神は、そのように祈るわたしたちに、「あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである」と約束してくださっています。わたしたちは、試練にあうとき、どこにも出口のない洞穴に投げ込まれたように感じてしまいます。しかし、実際は違います。試練は洞穴ではなく、トンネルです。忍耐深く進んでいくなら、そこにはかならず出口があるのです。聖書が言う「のがれる道」というのは、試練から「逃げ出す」ということではありません。それは、試練の向こう側にある大きな祝福への出口です。試練を通り抜けたその先には、もっと大きな祝福が待っているのです。

 「わたしたちを試みに会わせないでください」と祈っていても、試練はやってきます。どうせ試練に会うのなら、「試みに会わせないでください」などと祈ってもしょうがないのでしょうか。決してそうではありません。「試みに会わせないでください」と祈り続けることによって、わたしたちは試練によって弱り果てたり、自暴自棄になったりすることから救われます。試練の中でも神のご真実やあわれみを確信することができます。神は、わたしたちを耐えられない試練に会わせることはない。この確信をもって「主の祈り」を祈り続けましょう。

 二、誘惑

 次に「誘惑」について考えてみましょう。「試練」と訳されているのと全く同じ言葉が、別のところでは「誘惑」と訳されています。「試練」も「誘惑」も原語では全く同じ言葉ですが、文脈によって全く違った意味で使われます。ヤコブ1:13-14にこうあります。

だれでも誘惑に会う場合、「この誘惑は、神からきたものだ」と言ってはならない。神は悪の誘惑に陥るようなかたではなく、また自ら進んで人を誘惑することもなさらない。人が誘惑に陥るのは、それぞれ、欲に引かれ、さそわれるからである。
神はわたしたちに試練を与えることはあっても、決して人を誘惑しません。人を誘惑するのは悪魔です。神は人を神に近づけるために試練をお与えになりますが、悪魔は人を神から引き離すために誘惑をしかけてきます。

 神からの試練には、それを耐え忍ばなくてはなりませんが、悪魔からの誘惑にはどうしたら良いのでしょうか。第一に、自分が誘惑に弱い者であることを認めることです。誘惑がやってきたときは、自分でそれに勝つことができるなどと考えないで、それを避けることです。ヨセフは、兄弟から受けた苦しみを神からの試練と考え、それを忍耐深く耐えました。年若くても強い心を持っていました。しかし、自分が仕えている主人の妻から誘惑を受けたとき、すぐにそこから逃げ出しました。誘惑をもてあそんだりはしませんでした。試練に耐えられる人も、誘惑には弱いということも多いのです。わたしたちは自分の弱さをよく知っていたいと思います。

 第二に、神によってきよい心を養っていただくことです。誘惑される者よりも誘惑する者のほうが悪いのですが、その誘惑を受け入れ、それに乗ってしまうなら、それはその人の罪となります。誘惑は誰にでも来ます。誘惑を感じること自体は罪ではありません。しかし、誘惑に負け、それに陥ってしまうことは罪です。ある人が言いました。「頭の上を鳥が飛ぶのを避けることはできない。しかし、自分の頭に鳥が巣を作るのを避けることはできる。」世の中に一歩出れば、そこはさまざまな誘惑で満ちています。そのような中で頭の上に巣を作らせないためには、わたしたちの思いがいつも神に向っている必要があります。世の中のものを喜び、それを求めるのでなく、神のことを喜び、それを求める思いを祈りによって養われていきたいと思います。

 そして、第三は、神の言葉に信頼することです。主イエスも悪魔の誘惑を受けました。そのとき、主イエスは、「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」、「『主なるあなたの神を試みてはならない』とも書いてある。」「『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」と仰って悪魔を斥けました。主イエスは神の御子ですから、主イエスが語られることはそのまま「神の言葉」です。ですから、「…と書いてある」と、聖書を引用なさらずともよかったのです。しかし、主イエスが聖書を引用されたのは、わたしたちのためです。わたしたちもまた、主イエスと同じように、聖書の言葉によって悪魔に立ち向かうためです。人々は自分がどう思うか、人々がどう言っているかということをよりどころにして行動しています。しかし、クリスチャンには聖書にどう書かれているかを基準にします。聖書が最終的な権威です。この権威ある神の言葉だけが悪魔に立ち向かう力となるのです。

 今まで、繰り返し申し上げてきたように、「主の祈り」は「われら」の祈りです。それは、主イエスを信じる者たちが互いに他の人のことを思いやりながら祈るということですが、同時に、それは、主イエスがわたしと共に祈ってくださるということです。「主の祈り」は主イエスと共に祈る祈り、主イエスとわたし」の「われら」の祈りです。神からの試練に耐え、悪魔の誘惑を斥けられた主イエスがおられるからこそ、わたしたちは「わたしたちを試みにあわせず…」と祈ることができるのです。主イエスが試練のときにこの祈りを共に祈ってくださるので、わたしたちは試練に耐えることができ、誘惑を斥けることができるのです。

 「あなたがたの会った試練で、世の常でないものはない」の「世の常」と訳されている言葉は、もとは「人間」という言葉から出た言葉で、「人間的」とか「人すべてに共通している」という意味があります。この言葉は、わたしたちに主イエスが「人」となられ、人が誰しも味わう試練を体験されたことを思い起こさせてくれます。主イエスは、常に反対者の妨害を受け、いのちを狙われていました。主イエスが最後にエルサレムに上るときには、「イエスのいどころを知っている者は申し出るように」という指令が出ていました(ヨハネ11:57)。まるで「指名手配」中の犯罪人のような扱いを受けたのです。主イエスは人々から誤解され、中傷を受けました。弟子たちからも理解されず、裏切られ、見捨てられました。およそ人が受ける試練のすべてを主は味わいました。しかも、主イエスはそうした試練を、神の子としての力で難なく乗り越えたというのでなく、人としてそれと格闘し、血と汗と涙を流し、祈りと叫びをもって、神に訴えたのです。ヘブル5:7には「キリストは、その肉の生活の時には、激しい叫びと涙とをもって、ご自分を死から救う力のあるかたに、祈と願いとをささげ、そして、その深い信仰のゆえに聞きいれられたのである」と書かれています。

 この主イエスが、わたしたちと一緒に「主の祈り」を祈ってくださいます。試練の日に、誘惑の時に、主が授けてくださった祈り「わたしたちを試みにあわせないで、悪しき者からお救いください」を、主とともに、また、他のクリスチャンとともに祈りましょう。

 (祈り)

 父なる神さま、わたしたちが天にたどり着くまで、わたしたちはまだいくつかの試練を乗り越えなければなりません。また、この世に生きるかぎり、多くの誘惑に直面しなければなりません。世の中に誘惑は満ちており、安全な場所はどこにもありません。ただあなただけがわたしたちの避難所です。あなたの御言葉がわたしたちを支え、わたしたちを守ります。主イエスがくださった祈りをまごころから祈り、試練に耐え、誘惑に打ち勝つわたしたちとしてください。主イエスのお名前で祈ります。

10/4/2015