苦しみに向かう

歴代誌第一4:9-10

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4:9 ヤベツは彼の兄弟たちよりも重んじられた。彼の母は、「私が悲しみのうちにこの子を産んだから」と言って、彼にヤベツという名をつけた。
4:10 ヤベツはイスラエルの神に呼ばわって言った。「私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように。御手が私とともにあり、わざわいから遠ざけて私が苦しむことのないようにしてくださいますように。」そこで神は彼の願ったことをかなえられた。

 いただいた質問の中に、「苦しみに出会ったとき、それにどう向き合ったらいいでしょうか」というものがありました。「苦しみ」といっても、さまざまな苦しみがあります。病気の苦しみ、経済的な苦しみ、人間関係の苦しみ、また、いわれのないことで非難される苦しみなど、さまざまなものがあります。また、信仰者には神に向かって成長していくときの「成長痛」ともいえるような苦しみもあります。徹底してキリストに従った人たちは「キリストの苦しみ」にあずかるという体験もしています。そうしたことは、いずれまたお話しするつもりですが、きょうは、どんな苦しみであれ、それに出会ったときに、私たちが第一にすべきことについて考えてみましょう。

 一、神に求める

 苦しみに出会ったときに、第一にすべきこと、それは神に助けを祈り求めることです。聖書はこう言っています。「苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたはわたしをあがめよう。」(詩篇50:15)「あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい。喜んでいる人がいますか。その人は賛美しなさい。」(ヤコブ5:13)聖書は「祈り、求めよ」と教えています。そして、聖書には、神に祈り求めて苦しみから救われ、賛美に満たされていった人々の体験が数限りなく書かれています。ヤコブがそうでした。モーセがそうでした。ダビデがそうでした。イエスも、神の御子でありながら、私たちと変わらず、苦しみの中で父なる神に祈りました。ペテロもパウロも、イエスに従った人々は皆、苦しみに出会ったとき祈り、その祈りによって苦しみから救われたのです。

 きょうの箇所のヤベツも神に祈り求めて、苦しみを乗り越えていきました。9節に「彼の母は、『私が悲しみのうちにこの子を産んだから』と言って、彼にヤベツという名をつけた」とあるように「ヤベツ」という名には「痛み、苦しみ、悲しみ」という意味があります。親が子どもにそんな名前をつけるなどとは、現代のアメリカや日本では考えられないことですが、古代のイスラエルではあり得たことでした。ラケルが男の子を産んだ時、あまりの難産で出産後亡くなるのですが、その間際に自分の子どもに「ベン・オニ」つまり「苦しみの子」と名づけたという例があります。もっとも、父親のヤコブは「ベン・オニ」ではかわいそうだと思い、「ベン・ヤミン」(右手の子)という名前に変えています。この子がイスラエル12部族のひとつ、ベニヤミン族の先祖になりました。

 イスラエルでは父親が子どもに名をつけるのですが、ヤベツに名前を与えたのは母親でした。おそらく、ヤベツが生まれる前に父親が亡くなったからでしょう。ヤベツの母親は、夫を亡くした悲しみの中にあり、また、一家に夫がいない、父親がいないことから来る不利な状況の中にありました。ヤベツは逆境の中に生まれた「痛みの子」、「苦しみの子」、「悲しみの子」だったのです。

 ある人は何の不自由もない豊かな家庭に生まれますが、ある人は食べるものにも困るような貧しい家庭に生まれます。ある人は家族が愛し合い助けあっている温かい家庭に生まれますが、ある人は問題だらけで冷たい家庭に生まれます。誰もが平等に生まれてくるわけではありません。心理学では、私たちの人格の大部分は幼児のころの家庭環境によって形づくられると言い、生物学では私たちがどんな病気になるかは遺伝子によって決まるとも言います。もし、それが本当だとしたら、私たちの人生のすべては生まれながらにして決定されていることになります。誰も、いつ、どこで、どんな両親から生まれるかを決めることはできません。何の選択もできませんから、多くの人は、逆境とそこから来る苦しみにであったとき、それを自分の「運命」だとあきらめるしかないと考えます。神を信じているという人の中にも、それは「神のおぼしめし」で変えられないことだと言う人もあります。そうであれば、その人たちにとっての神は「運命」としての神でしかないわけで、そこから祈りは生まれません。祈りは物事を変えていただくことを願うものですから、運命を神としている人は祈ることができないのです。

 しかし、ヤベツは、「イスラエルの神」、生きて、私たちの人生の中に働き、ものごとを変えてくださる神を信じ、神に祈り、求めました。ここで神が「イスラエルの神」と呼ばれているのは、イスラエルの十二部族の先祖になったヤコブに働きかけ、彼を助け、彼とその人生を変えてくださった神という意味です。ヤコブはさまざまな苦しみの中を通りましたが、神に祝福を祈り求め、神はヤコブに「イスラエル」という新しい祝福名前を与え、ヤコブの生涯を変えてくださいました。ヤコブを祝福し、その人生を変えてくださった神を、ヤベツは信じたのです。ヤコブが神の祝福を熱心に願ったように、ヤベツも「イスラエルの神に呼ばわり」ました。信じて、熱心に祈り、求めました。そして、苦しみを乗り越えました。神は祈りを聞いてくださるお方、祈りに答えて、働いてくださるお方です。苦しみに出会ったときには、まず、神に助けを祈り求める。きょうの箇所はそのことを教えています。

 二、制限を打ち破る

 次に、ヤベツがどう祈ったかを見ましょう。彼は「私を大いに祝福し、私の地境を広げてください」と祈りました。

 ヤベツの生きた時代は、イスラエルの十二部族に約束の土地が分割されたころでした。ヨシュアが大まかな割り当てを決めましたが、それは地図上のことであって、実際に土地を自分のものにするには、そこを開拓、開墾しなければなりませんでした。しかも、それをするのは「早いもの勝ち」で、それぞれの努力次第だったのです。しかしヤベツの家族は父親のいない、「やもめ・みなし子」の家庭、今で言えば「シングルマザー」の家庭でした。労働力も財力もありませんでした。他の人と競争に勝てるような状況ではありませんでした。ヤベツには他に兄弟がいましたが、彼が一番年若く、彼の受け取った土地はほんのわずかなものでしかなかったでしょう。しかし、ヤベツはそのことに甘んじませんでした。彼は「私の地境を広げてください」と祈りました。つまり、ヤベツは自分のリミット(制限)を打ち破る祈りをしたのです。

 私たちは苦しみに会うとき、時として、自分のリミットだけを見て、「この苦しみは私のリミットを超えている。こんな苦しみには耐えられない」と思い込んでしまいます。確かに、誰にもリミットがあります。経済的なリミット、体力的なリミット、能力のリミットなど、さまざまです。もっとお金があったら、もっと体力があったら、もっと才能があったらなどと嘆くことがあるでしょう。「他の人はあんなに恵まれているのに、なぜ神は私に同じものをくださらないのだろう」と、不満を持ったり、人を羨んだりすることがあるかもしれません。

 人はそれぞれ違った境遇に、違った能力を持って生まれます。皆が平等に生まれてくるわけではありません。人生のスタートラインは始めから違っているのです。もしそうなら、神は不公平なのでしょうか。いいえ、決してそうではありません。神が私たちに何らかの苦難をお与えになる時には、必ずその助けも与えていてくださいます。多くの人は逆境にだけ目を留めて、そこに隠されている神の助けを見落としてしまうので、神は不公平だと言うのです。神は、より大きな苦難の中にいる者には、より大きな助けを与えてくださいます。ある面で欠けたところのある人には別の面で、それを補ってあまりあるものを与えられるのです。この神の助けを勘定に入れるなら、すべての人は神の前では平等な扱いを受けていることになります。恵まれた素質をもって生まれた人が、神の助けを求めず、惨めな一生を送ることもあれば、ハンディを持って生まれた人でも、神の助けを受け、満ち足りた人生を過ごすことができるのです。

 自分で自分に制限を設け、「私はここまでしかできない」と決めてかかってはいけません。リミットの中に安住してしまえば楽かもしれませんが、それは、神が与えようとしておられる助けを無視することになります。ヤベツは苦しみの中で「私の地境を広げてください」と祈りました。私たちも、同じように「私のリミットを打ち破ってください。リミットを広げてください」と祈ることができるのです。私たちにとって「地境を広げる」とはどんなことなのでしょうか。それは仕事において新しい分野に取り組むことかもしれません。日常の生活で陥りやすい失敗から、早く立ち上がることかもしれません。信仰の面では、より広く、深く、みことばの知識や理解を得ること、また、霊的にさらに成長していくことでしょう。大きな愛の心で他の人を包み込むことができるために、忍耐や寛容という内面の地境を広げることも忘れないようにしたいと思います。

 三、神に信頼する

 最後に、ヤベツが「御手が私とともにありますように」と祈ったことを覚えておきましょう。「神の手」ということばは、聖書では「神の力」と「神の祝福」を表わすのに使われます。ヤベツは「地境を広げてください」と祈りました。そのためにはもちろん彼自身の努力が必要でした。しかし、ヤベツは、自分の努力だけでそれが達成できないことを良く知っていました。それで、神の御手、つまり神の力と祝福を祈り求めたのです。ヤベツの祈りは、神の力に信頼する祈りでした。神への信頼こそが神の祝福を受ける第一歩だったのです。

 一般に、ものごとに成功するためには「自分を信じろ」、「人に頼るな」などと言われます。しかし、大きな仕事を成し遂げた人々は、ほとんどといってよいほど、自信にあふれた人たちではなく、自分の弱さを知っている人たちでした。そして、その弱さをカバーしてくれる友人や協力者を持っている人たちでした。それと同じように、私たちが本当の意味で人生において成功したいと願うなら、神に頼り、その力と祝福を受ける必要があります。あるビジネスマンが、成功の公式は

(才能)×(熱意)×(誠意)

だと言いましたが、私はさらにもうひとつのもの、神の祝福が必要だと思います。

(才能)×(熱意)×(誠意)×(祝福)

です。人間の側でどれだけ精一杯頑張ったとしても、そこに神の手が、神の祝福がなければ、ものごとは成就しないからです。また、たとい、表面ではものごとが期待どおりに行っているように見えても、神の祝福なしには、それが私たちの本当の幸いには結びつかず、他の人を幸いにするものにはならないのです。

 私たちは、私たちの日常の生活の中にどれだけ神の御手を見ているでしょうか。私たちの心に、神の御手のタッチを感じているでしょうか。神は、いつも私たちと共にいてくださると約束しておられ、キリストを信じる者の内には聖霊が住んでおられるのに、日々の生活の中にも、私たちのたましいの内側にも、神の御手のわざを見ることがないとしたら、それは、神の御手を、意識して求めていないからかも知れません。ヤベツのように私たちも、生活の一こま、一こまで神に信頼し「御手が私とともにありますように」と祈りましょう。

 ヤベツは、逆境の中に生まれました。一族の中で、また家族の中で一番小さな者でした。しかし、彼は、そのことを嘆くだけで終わりませんでした。神を呼び求めました。自分のリミットを広げてくださいと、神に願ったのです。そして、「ヤベツは彼の兄弟たちよりも重んじられ」るまでになりました。一番年若かった彼が兄たちや他の親族を凌ぐ者になったのです。

 きょうの箇所には、苦しみに出会ったときに、そのまま祈ることができる具体的な祈りがあります。ご一緒に「ヤベツの祈り」を祈って、メッセージを終えたいと思います。

 (祈り)

 主なる神様、私を大いに祝福し、私の地境を広げてください。御手が私とともにあり、わざわいから遠ざけて私が苦しむことのないようにしてください。イエス・キリストのお名前で祈ります。

8/14/2022