29:10 ダビデは全集団の目の前で主をほめたたえた。ダビデは言った。「私たちの父イスラエルの神、主よ。あなたはとこしえからとこしえまでほむべきかな。
29:11 主よ。偉大さと力と栄えと栄光と尊厳とはあなたのものです。天にあるもの地にあるものはみなそうです。主よ。王国もあなたのものです。あなたはすべてのものの上に、かしらとしてあがむべき方です。
29:12 富と誉れは御前から出ます。あなたはすべてのものの支配者であられ、御手には勢いと力があり、あなたの御手によって、すべてが偉大にされ、力づけられるのです。
29:13 今、私たちの神、私たちはあなたに感謝し、あなたの栄えに満ちた御名をほめたたえます。
29:14 まことに、私は何者なのでしょう。私の民は何者なのでしょう。このようにみずから進んでささげる力を保っていたとしても。すべてはあなたから出たのであり、私たちは、御手から出たものをあなたにささげたにすぎません。
29:15 私たちは、すべての父祖たちのように、あなたの前では異国人であり、居留している者です。地上での私たちの日々は影のようなもので、望みもありません。
29:16 私たちの神、主よ。あなたの聖なる御名のために家をお建てしようと私たちが用意をしたこれらすべてのおびただしいものは、あなたの御手から出たものであり、すべてはあなたのものです。
29:17 私の神。あなたは心をためされる方で、直ぐなことを愛されるのを私は知っています。私は直ぐな心で、これらすべてをみずから進んでささげました。今、ここにいるあなたの民が、みずから進んであなたにささげるのを、私は喜びのうちに見ました。
29:18 私たちの父祖アブラハム、イサク、イスラエルの神、主よ。御民のその心に計る思いをとこしえにお守りください。彼らの心をしっかりとあなたに向けさせてください。
29:19 わが子ソロモンに、全き心を与えて、あなたの命令とさとしと定めを守らせ、すべてを行なわせて、私が用意した城を建てさせてください。」
私たちは主の祈りの最後に「国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。」と唱えて祈ります。しかし、このことばは、主イエスが教えたもともとの主の祈りにはなかったことばです。新改訳聖書のマタイ6:13では、このことばはかっこに入っていて、脚注に「最古の写本ではこの句は欠けている」とあります。聖書が書かれたころは印刷の技術がありませんでしたので、書物は手で書き写されました。その写しのことを「写本」と言います。新改訳聖書の脚注は、古い時代の写本には「国と力と栄えは…」の部分が含まれていないという説明なのです。ですから、聖書学の立場から言えば、「主の祈り」は「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。」ということばで終わっていたと言うことができます。では、私たちが「主の祈り」を祈るとき、「国と力と栄えは…」と付け加えることは間違いなのでしょうか。決してそうではありません。聖書のいくつかの写本に「国と力と栄えは…」ということばが付け加えられているのは、礼拝学の立場から見て、とても興味深いことなのです。それは初代教会の礼拝では「主の祈り」が頻繁に祈られており、その最後に「国と力と栄えは…」ということばを付け加えていたことを教えてくれるからです。しかも、それは勝手な付け加えでなく、旧約の歴代誌第一29:11と新約のヨハネの黙示録5:12-13からとられた聖書のことばなのです。そして、それは、主イエスが教えてくださった祈りに対する応答として、また、私たちの祈りを聞いてくださる神への賛美としてふさわしいものなのです。今朝は、「国と力と栄えは…」ということばが生まれたふたつの箇所を学び、私たちがどのような心で「国と力と栄えは…」と祈ればよいかを考えてみましょう。
一、応答の祈り
最初に歴代誌第一29:11を学びましょう。歴代誌第一29:11は「主よ。偉大さと力と栄えと栄光と尊厳とはあなたのものです。天にあるもの地にあるものはみなそうです。主よ。王国もあなたのものです。あなたはすべてのものの上に、かしらとしてあがむべき方です。」と言っています。これは、イスラエルの王ダビデの祈りです。ダビデの時代の神殿は、イスラエルの人々がエジプトを出たとき以来のテント作りでした。ダビデはそのことで心を痛めて神のために立派な家を建てたいと願いました。神は、ダビデの神を思う心を喜び、預言者ナタンを通して、ダビデの子孫が続いてイスラエルを治めることを約束されました。神は、神の家を建てたいと願ったダビデに「ダビデの家を建てよう」と約束されたのです。
先週の四十周年記念礼拝で村上宣道先生はハガイ書から説教されました。ハガイ書には自分のことのために忙しく走り回り、神殿再建を後回しにしていた人々への叱責のことばがありました。あなたがたの家が祝福されないのは神の家をなおざりにしているからではないか。神の家を優先しなさい。そうすれば、あなたの家も祝福されると、ハガイ書は教えていました。詩篇に「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。」(詩篇127:1)とあります。朝早くから夜おそくまで働いたとしても、そこに神の祝福がとどまらなければその苦労は実を結ばないのです。そして、神を第一にすることなしに、神の祝福はやってこないのです。ダビデが大きな祝福を受けたのは、彼が自分の家のことよりも神の家のことを心にかけ、それを大切にしたからでした。神を第一にするとき、霊的な祝福ばかりでなく、この世の生活においても祝福を受けることは、聖書の約束であり、多くの人が体験し、あかししていることです。
ダビデは、ダビデの家を堅く建てるという約束を聞いたとき、「神、主よ。私がいったい何者であり、私の家が何であるからというので、あなたはここまで私を導いてくださったのですか。…」(歴代誌第一17:16)と祈りました。ダビデの謙虚な祈りは歴代誌第一17:16-27にありますが、その最後のところで、ダビデは「わが神よ。あなたは、このしもべの耳にはっきり、しもべのために家を建てようと言われました。それゆえ、このしもべは、御前に祈りえたのです。」(歴代誌第一17:25)と祈っています。ダビデは、神がまずダビデを恵み、ダビデに語りかけてくださったので、その恵みに応えて祈ることができたと言っているのです。そうです。祈りは、いつでも、神の恵みへの応答であり、神のことばへの応答なのです。ダビデが歴代誌第一29:11で「主よ。偉大さと力と栄えと栄光と尊厳とはあなたのものです。天にあるもの地にあるものはみなそうです。主よ。王国もあなたのものです。あなたはすべてのものの上に、かしらとしてあがむべき方です。」と祈った祈りも、神のダビデに対する恵みと約束のことばの応答でした。
神は、ダビデの子ソロモンがダビデにかわって神殿を建てると約束されました。それでダビデはソロモンが神殿を建てるのに必要な一切のものを準備しました。イスラエルの人々もまた、神殿のためのささげものをダビデのところに持ってきました。ダビデはそれを神にささげ、「私たちの神、主よ。あなたの聖なる御名のために家をお建てしようと私たちが用意をしたこれらすべてのおびただしいものは、あなたの御手から出たものであり、すべてはあなたのものです。」(歴代誌第一29:16)と祈りました。私たちが神にささげるものは、もとはといえば神から出たものなのです。私たちのささげものは、神からいただいたものを神にお返しするだけにすぎないのです。私たちの信仰も、祈りも、奉仕も、ささげものも、すべては神の恵みへの応答なのです。
ですから、私たちは主が祈りを教えてくださったことに応答して、主の祈りの最後に「国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。」と祈るのです。主がこう祈るようにと教えてくださらなかったら、私たちは神の御名も、御国も、御心も求めることがなかったでしょう。そして、御国の力や栄光を知ることがなく、それにあずかることもなかったでしょう。日ごとの糧、罪のゆるし、そして悪からの守りという、なくてならないものよりも、枝葉のことや表面のことを求めて、物質的には満たされても、たましいの満たされない日々を送っていたことでしょう。「国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。」と祈るとき、私たちも、ダビデと同じように、「あなたが、私に主の祈りを与えてくださいました。そこに御国の力と栄光を、日ごとの糧を、罪のゆるしを、悪からの守りを約束してくださいました。だから、あなたのしもべはこのように祈ることができたのです。」と、謙虚な心で神の恵みに、感謝をもって応えるのです。
二、賛美の祈り
次に、ヨハネの黙示録5:12-13に進みましょう。こう書かれています。「彼らは大声で言った。『ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。』また私は、天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物がこう言うのを聞いた。『御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。』」これは、使徒ヨハネが天に引き上げられて、天の礼拝をかいまみることを許され、そこでの情景を書き記したものです。天では常に神への賛美と祈りとがささげられています。「ほふられた子羊」とあるのは、イエス・キリストのことです。キリストは永遠の神の御子であって、聖書では百獣の王「ライオン」として描かれていますが、同時に、動物の中で最もおとなしく、弱い「子羊」としても描かれています。それは、キリストが人となられ、人間の持つ弱さをまとってくださったことをあらわしています。しかも、この「子羊」は「ほふられた子羊」です。神殿にささげられる子羊は人間の罪の身代わりとしてほふられていったのですが、キリストもまた、あの十字架を祭壇とし、その上でご自分を人類の罪のための犠牲としておささげになったのです。
天では、このキリストに「力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美」がささげられています。「御座にすわる方」、つまり父なる神と等しく、キリストにも「賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。」との賛美がささげられています。私たちが、今ささげている礼拝は、天のこの礼拝の「地上版」です。旧約時代の神殿や犠牲、儀式が天の聖所とそこでの礼拝をかたどったものであったように(ヘブル8:5、9:23)、新約時代の礼拝もまた天の礼拝をかたどったものなのです。週ごとの私たちの礼拝も、天の礼拝の反映となるようにと願いながら、行っています。それで、私たちも、礼拝で主の祈りをささげるとき、「国と力と栄えは…」と唱えて、キリストがすべてのものの主権者であり、父なる神がキリストを通して、この世の治めておられることを覚えて、神を賛美するのです。主の祈りの後に唱える「国と力と栄えは…」とのことばは、神とキリストへの賛美のことばなのです。
イエス・キリストを信じるというのは、「イエス・キリストは主である。」と告白することですから、すべてのクリスチャンは、キリストがすべてのものの主であることを知っています。しかし、自分の身の回りに困難なことが起こってくると、「ハレルヤ! イエスは主なり。」と言えなくなってしまうことがあります。「御国が来ますように。みこころが…行われますように。」と祈っているのに、どうして、私のためにはそれがなされないのかと、苛立ちを感じることがあるでしょう。「試みに会わせないで、悪からお救いください。」と祈っているのに、なぜ、こうも悪いことが次々と起こるのかと、心が沈んでしまうこともあるでしょう。そんなとき、みなさんはどうしますか。
ヨハネが黙示録を書いたときは、教会に対する迫害の嵐が吹き荒れていたときでした。きのうまで一緒に礼拝を守っていた人が、きょうは殉教を遂げ、天に召されていくというようなことがありました。ヨハネ自身も、年老いた身でありながら、パトモスというところに島流しにされていました。しかし、人々は、そんな中でも「主の祈り」を祈り続け、御国を求め続け、みこころを願い求めました。地上ではローマ皇帝が力を奮い、教会を迫害している。しかし、神の御座は天に堅く据えられていて、神の支配は揺らぐことはない。そのことを、「主の祈り」を祈ることによって確信したのです。「主の祈り」は、「天にいます私たちの父よ。」との呼びかけではじまります。「主の祈り」は、天をあおがずには祈れない祈りです。そして、天を仰ぐとき、そこに神の御座が見え、神の支配を確信することができたのです。それで、「主の祈り」の最後に「国と力と栄えは…」という賛美が加えられたのです。
信仰者は「主の祈り」を祈るとき、天を見上げると同時に、地上の現実をも見つめます。私たちは、「主の祈り」で御名や御国、御心を願い求めるだけではなく、日ごとの必要の満たしを求め、罪のゆるしを求め、悪からの救いを求めます。「主の祈り」は、自分や人々の必要を満たすために日々の生活の中で労苦し、罪と悪の世の中でホーリネスを求めて戦う人々の祈りです。祈りは現実から逃避することではありません。むしろ、そうした現実の中にこそ、神の国がある、そこにキリストがおられることを認めることなのです。
イエスは「(神の国は)『そら、ここにある。』とか、『あそこにある。』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」(ルカ17:21)と言われました。これは「神の国は人の心の中にある。」という意味なのでしょうか。確かに神の国は、信じる者の心の中に始まります。そして、私たちは心に喜びや平安を感じるとき、神の国を感じることができます。しかし、心に喜びや平安を失ったなら、神の国も失うのでしょうか。心の中に喜びや平安を失ったときほど、神の国が必要なのに、それを見出せないとしたら、それ以上不幸なことはありません。「神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」というのは、たんに「心の中に」ということではなく、「イエスがおられるところに神の国がある。」という意味なのです。イエスは、「罪びと」、「遊女」、「取税人」などと呼ばれる人々のところに来てくださいました。神の国から最も遠いと思われていた人々のところに来てくださり、そのような人々が真っ先に悔い改めてイエスを受け入れたのです。イエスは神の国の王なのですから、王であるイエスがおられるところに神の国があるのです。神の国は悔い改め、イエスを主として受け入れる人々のところにあると、イエスは言われたのです。神の国のしるしは、「そら、ここにある。」とか、「あそこにある。」などといったセンセーショナルなものでも、たんに感情的なものでもありません。それは、イエスが教えられたように、内面の悔い改めとそこからはじまる新しい生活なのです。
復活されたイエスは、「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。」(マタイ28:18)と宣言し、「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)と約束しておられます。イエスは信じる者と共におられます。喜びの日ばかりでなく、苦しみの日にも、信頼する者と共におられます。そして、主が共におられるなら、そこに神の国があるのです。私たちは現実に目を向けて祈ります。どうにも変えられないと思える現実があったとしても、その現実よりももっとリアルにイエスが共におられることを、祈りによって見出すのです。主が共におられるなら、神の国を祈り求める「主の祈り」は必ず聞かれます。そしてそう信じて、「主の祈り」の最後に「国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。」と、神を賛美するのです。涙と嘆きではじめた祈りも最後には賛美に変わります。主の祈りにはそのような力があります。なぜなら、それは主イエスによって、かならず実現すると約束され、保証された祈りだからです。
(祈り)
父なる神さま、代々の信仰者たちは、あなたの変わらない恵みとあわれみのご支配を仰ぎ見ました。私たちも、天の御座を仰ぎ見ることができますように。初代教会の信仰者たちは、どんな困難な現状の中にも、復活し、共におられる主イエスを認めました。そのように、私たちにも主が共におられることを確信させてください。そして、祈りのたびに、「国と力と栄とは限りなく汝のものなればなり。」と、あなたに応答し、あなたを賛美する私たちとしてください。主イエスのお名前で祈ります。
5/2/2010