アメリカの多くの教会では、クリスチャンが依存症や過去の心の傷からいやされ、霊的に成長するため、「12ステップ・リカバリー・プログラム」に基づいたサポート・グループをつくっています。このページでは、クリスチャンと12ステップとのかかわりについて、1995年に教会ニュースレターに掲載したものを紹介します。
クリスチャン・リカバリーについては、Christian Recovery Connection(English Only)をご参照ください。
私が12ステップ・サポートグループをはじめたいきさつについては、「中尾牧師へのインタビュー」第14回をごらんください。
「12ステップ」は、もともとはアルコール中毒者のために作られた回復のモデルです。しかし、今では、アルコール中毒者の家族のため、他の薬物中毒、過食症、仕事中毒、また、虐待を受けてきた人々のために、広く用いられています。教会で「12ステップ」を使おうとする時、それは特別な必要のある人たちのもので、「普通」の私たちにはいらないと考えがちです。しかし、よく自分を検討してみると、種類はちがっても、何らかの心の傷を持っており自分でも気づいていない「依存物」を持っていることがわかるはずです。
教会の活動に熱心であることは素晴らしいことですが、「活動」そのものが依存物になってしまうことがあります。活動を通して神様と交わったり、他の人々に仕えるというのでなく、何かの活動をしていなければ気がすまないというものです。サポート・グループはこころのいやしのために用いられるものですが、それさえも、依存物になってしまうことがあります。ミーティングで聞き、語ることによって学ぶよりも、ただミーティングに出て他の人の顔を見ることだけで自分を慰めるといった場合です。「依存物」とは、本当の解決を避けて、一時逃れをするために用いるものと言うことができます。このような意味で、私たちは、あの人は特別で、私は普通だということはできません。こころのいやしのためには、まず自分が「病人」であり「医者」を必要としていることを認めることから初めなければなりません(マタイ9:12)。同じように、霊的成長を求めることは、より「レベルの高い」クリスチャンになって、他を見下すことではないのです。私たちはみな「罪」の病いにおかされて傷ついたもの、不完全なものとなっています。私たちはそこからいやされ、キリストに似たもの、完全なものへと回復していくのです。「霊的成長」「きよめ」は、立派なクリスチャンが求めるものではなく、自分の不完全を、無力を知る者が求めるものなのです。神は、自分の罪のために、自分で自分を傷つけている私たちをあわれんで、私たちの回復をこころから願っておられます。神が備えてくださっているいやしの道、回復のステップを歩まないことは、最も神を悲しませることになるのです。そして、このステップは、ゼロから、いいえマイナスから始まるのです。
依存症を持つ人には次のような共通した特徴があります。第一は、依存物のために労力を使い果たしてしまうことです。たとえばギャンブルをする人は、汗水流して得たお金を、一日で全部なくしてしまっても、まだ懲りないで、せっせとギャンブルに貢ぐのです。そのため、身も心もずたずたになってしまいます。第二の特徴は、社会的に引きこもることです。依存症の人は、見かけは人なつこくても、本当の意味で友だちを持つことができず、たいていの場合、社会的に孤立しており、孤立することを好みます。第三は、自分を欺くことです。「俺は酒は飲むが、酒には呑まれていない」とうそぶくのですが、実際は自分ではどうにもならないところに行っているのです。二日酔いで仕事を休んでも、子どもには「お父さんは風邪で休んでいる」と嘘をつかせるようになります。子どもはそれが嘘であると知っていても、家族の見栄のために嘘をつき通します。それはその家族の「秘密」となります。「秘密」のある家庭は決して健全ではなく、やがて子どもも親の依存症の影響を受けます。第四に、依存症の人は意志の力を無くします。物事を決断することができず、無計画で、何をしても長続きしないのです。突然仕事をやめたり、大きな買い物をしてきたり、他の人から見てとんでもないことを平気でするようになります。第五は、集中力がなくなることです。五分間もじっとすわっていることができません。人と話していてもいつもそわそわしたり、話題を変えたりします。
依存症は私たちを肉体的、経済的に苦しめるばかりでなく、私たちを霊的、感情的、社会的な死にいたらせるものです。それから救われるために、まずしなければならないことは、ステップ1が言うように、自分がそれに対してまったく無力だということ、自分の生活がそれによってコントロールできないものになっていることを認めることです。「自分はまだ大丈夫、まだなんとかできる状況だ」と思っている間は救いはありません。「わたしは、なんというみじめな人間なのだろう」と自分の無力を認めた時に、「だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか」と、自分以上の力を求めはじめ、「わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな」と救いを見いだすことができるのです。
私たちは、私たちの回復の旅を「自分の無力を認めること」(ステップ1)から出発しました。次のステップは「神が私を救うことの出来る力あるお方であることを認めること」です。自分を正しく知ることと、神を正しく知ることは結びついています。自分は大丈夫と思っている間は、自分に頼り、自分を神としているかもしれません。自分の無力を否定することは、神を否定することにつながっていきます。
カウンセリングの時に、人々はいろいろなふうにして問題を否定します。第一に「完全な否定」です。私には問題がないという態度です。第二は「過小評価」です。私の問題はまだ小さい、あの人よりはましだと言うのです。第三は「話題を避ける」ことによる否定です。そのことは話してもらいたくない、触れられたくないと、はっきり言う場合もありますが、たいていは、上手に話題を変えます。第四は「非難」です。問題なのは自分でなくあの人だ、社会が悪いと、責任を他の人に向け、他を攻撃して、自分を弁護するのです。第五は「理論化」です。私が怒りっぽいのは遺伝で、私には責任はない、人間はみなリラックスする時が必要で、そのために私は酒を飲んでいるのだというように理屈で自分の罪を弁解するのです。
ですから、カウンセリングを受ける時には、三つのこと、Honesty, Openness, Willingnessが大切になってきます。「HOW」と覚えてください。正直でなければ、そこに嘘や、隠しているものがあれば、絶対に本当の解決に向かうことはできません。また、たといそれが厳しいことであっても、カウンセラーの語ることに聞こうとする思いがなければなりません。そして、なによりも大切なのは自分の意志で、カウンセリングを受けることです。人に勧められただけで、自分の心からの求めになっていない時、カウンセリングは失敗します。宿題をやってこなかったり、アポイントメントの時間に遅れたり、一、二回だけの面談で終わってしまうのです。
神は偉大なお方です。私たちが否定を捨て、正直に、謙遜になる時、私たちは神の神の偉大さを知ることができます。そして、偉大な神を知ることによって、私たちは、さらに謙遜にさせられ、神に頼ることができるようになるのです。
ゲラサ人の町に、墓場を住処にしていた一人の狂人がいました(マルコによる福音書5:1-20) 。墓場は、死者の世界です。彼は、生きながら、霊的に、社会的に、そして精神的に死んでいたのです。依存物は、人を肉体的ばかりでなく、霊的、社会的、精神的に死んだものにすることを学びましたが、この人も、それと同じでした。この人は、足かせや鎖でつながれても、それをひきちぎり、夜も昼も大声で叫びつづけていました。つまり、だれもコントロールできない状況に陥っていたのです。
また、この人は「石で自分のからだを傷つけていた」とあります。石は人間が最初に使った道具だと言われています。道具を使うということは、理性があることを意味します。ところがその理性が狂ってしまうと、人間は自分のために役立つためのもので、自分を苦しめてしまうのです。煙草もアルコールも、その他のドラッグも、それを作り出すには、様々な知識と設備とを必要とします。人間は、その知性を間違ったことのために用いて自分で自分を傷つけているのです。
12ステップの第2ステップは「自分よりも偉大な力が、自分を正気に戻してくれることを信じるに至りました」というものです。正気の反対は狂気です。狂気には自分の依存症のゆえに苦しんでいる人を思いやれない感情的不感症や、自分を依存症から立ち直るようにと励ます人への非難、虐待、放棄があります。そもそも、依存物が原因で自分の生活にみじめなことが起こっているのに、なお依存物にしがみついていること自体が異常なのです。
イエス・キリストは私たちをこうした狂気から、正気に立ち直らせるために、この世に来てくださいました。キリストは彼をしばりつけていた悪霊を追い出されました。彼は、自分から悪霊を追い出してくださった主のことばに従いました。キリストとの出会いがこの人を救ったのです。イエスは、今日も、私たちをしばりつけているものから、私たちを解放してくださいます。あなたの本当の問題は何でしょうか。まだ赦されていない罪でしょうか。過去の心の傷でしょうか。隠し持っている依存症でしょうか。それを正直に申し出て、そこから解放されようではありませんか。
日本のグロッサリー・ストアの掲示板に「小さい子どもを持ったお母さんの集まり」の宣伝が出ていました。その宣伝の最後に「宗教には関係ありません」との断り書きがつけられていました。いくつかの宗教団体がそういう集会を布教活動に利用しているので、それを警戒して、また、多くの人が「宗教」にアレルギーを持っているので、そのような言葉がつけ加えられたのでしょう。しかし、どんなに宗教を毛嫌いしても、人間には、何か信じるもの、自分のよりどころとするものが必要です。教会から離れていった多くのアメリカ人が、アメリカ先住民の宗教儀式を行ったり、天使のマスコットを身に着けたりして、霊的なものを求めていることからも、そのことがうかがえます。
「信仰を持っている人は、人生に確信が持てていいですね」とほめてくださる方に、「あなたもイエス・キリストを信じてください」と言うと、「いや、キリストは結構です」という返事が返ってきます。多くの人は、自分の人生をキリストに明け渡すというよりは、クリスチャンの真似ごとをして、自分なりの世界観、人生観、確信を持ち、それを自分の神、自分の信仰にしています。あくまでも、自分が中心で、自分以上の偉大なお方のもとに立ち返る、自分の世界観、人生観を越えた普遍的な真理を受け入れるというのではないのです。
12ステッププログラムの第3ステップで「私たちの意志と生活を神の配慮のもとに置くことを決心しました」というのは、聖書が教えているように、偶像から神にたち返ること、キリストを自分の主として受け入れることを言っているのです。自分は問題に対して無力であり、その問題は手に負えないものになっています。それなら何の希望もないのでしょうか。いいえ、それを解決する力のあるお方がいらっしゃいます。自分を見るなら絶望ですが、神を見上げるなら、そこに希望があります。私たちにできる最善のことは、このお方に、私の人生に入っていただくように願うことではないでしょうか。神は問題を解決する力があるばかりでなく、私たちを世話してくださるお方です。宗教的になることや、信仰のまね事でなく、素直になって、また真剣になって、神に明け渡す本当の信仰に進んでください。
ステップの第3は「私たちの意志と生活とを神の配慮のもとに置く決心をしました」というものです。神様を信じ、神様に頼るのは、けっして知識だけでできることでも、感情的になることだけでもなく、自分自身と、自分の問題とを、コミットメントをもって神様に明け渡すこと、意志の決断なのです。ところが、今まで学んできましたように、依存症の最大の問題は、この意志の力が弱められるということなのです。ちゃんと学校に行く、仕事に行く、教会に通うということを決心しても、何かあると、その決心を忘れて学校を欠席したり、仕事を休んだり、教会を休んだりするのです。そうすると、ますます状況が難しくなってきて、学校に、職場に、教会に行きづらくなり、その不安を消すために依存物(アルコールやドラッグ、ギャンブル、その他)に走っていきます。すると、ますます意志の力が弱められ、依存物や悪習慣の奴隷になってしまうのです。
ルカによる福音書15章に出てくる放蕩息子は、豚飼いに身をやつし、豚のえさでも食べたいと思うほどひもじくなって、やっと父親のことを思い出しました。どん底に落ち込んでも、なお神様のことを思う思いを、神様は人間に与えてくださっているのです。放蕩息子は「本心に立ちかえって」まず、自分が神にも、父親にも罪を犯したことを認めました。そして彼は、自分が子と呼ばれる資格はない、しもべのひとりとして取り扱ってほしいとへりくだります。私たちも神様のもとに、同じような心で立ち返りましょう。「神様を信じてあげる」「教会に行ってあげる」などという高慢は、本当の信仰、どん底からの叫びではありません。私たちが本当の意味でのS.O.S.(Save Our Souls)を発信する時、神は必ずそれをキャッチしてくださるのです。
依存症のため弱められてしまった意志でも、精一杯、神様にコミットメントをなげかけるなら、神様は「からしだね」一粒ほどの信仰も、「あなたの信仰があなたを救ったのだ」と、その信仰を受け入れて、神様の救いの力を私たちの内に働かせてくださるのです。どうにもならなくなったあなたの生活を明け渡しましょう。心からのコミットメントは、生活の明け渡しと悔い改めが含まれているからです。
すべての人はなんらかの課題を抱え、心の傷を持っています。そして問題解決の方法や心のいやしのための手当てが提案されています。その中でも「12ステップ」は、その効果が実証されているすぐれた回復のステップです。けれども、ひとつひとつのステップにしたがうことは、決してたやすいことではありません。「12ステップ」は、私たちが自分の力に頼ることをやめ、神にまかせるようになるまでは、決して解決はないと教えています。これは、私たちの考え方や生活のしかたを少し変えるとか、神様のことを考えてそれを自分の慰めにするというのではなく、自分自身や他の人間の助けにより頼むことをやめて、神に信頼すること、つまり、悔い改めと信仰、回心を求めているのです(ステップ1〜3)。
今月私たちが取り組んでいるステップ4は、この悔い改めと信仰とをさらに具体的にしていくことを教えています。悔い改めや信仰は、キリストの救いを受け入れる時に、今までの罪をおわびし、キリストを救い主と告白した時に終わるものではありません。救われた後で、もっと自分の罪がわかるようになり、さらに真剣に悔い改め、もっと主に頼り従うことを学んでいくのです。それで、ステップ4では「わたしたちは臆することなく自分自身をほりさげ、道徳面での自己反省をしました」と、悔い改めを具体化させています。
12ステップ・リカバリーの特徴のひとつは「自分に集中する」ことです。私たちは、自分にはたいして問題はないが、ご主人のことや子供のこと、この人のことにあの人のこと、地域や職場、社会や世界のことまでもが問題なのだと考えがちです。確かに、それらは無関係ではありませんが、そうしたことだけを問題にしている間は自分の問題から逃げようとしているのです。録音された自分の声を聞いて「これがわたしの声?」と驚いたことはありませんか。そのように、私たちは他の人のことは良くわかっても自分のことは良くわからないのです。神様の真理の光によって照らされ、はじめて自分の本当の姿をみることができます。まず、自分を見つめよう、自分に正直になろう、そしてそこから、問題を解決していこうというのが、「道徳面での自己反省」(モラル・インベントリー)なのです。
12ステップの1−3は、自分の問題を神様に明け渡すことを教えています。4−7は、自分の性格上の欠陥を神様に変えていただくことを教えています。神様に問題をおまかせして終わるのでなく、さらに、自分自身をも神様におまかせするのです。私たちは、病気や経済的な困難、人間関係での苦しみ等を体験する時、それらの問題を神様のところに持って行きます。それは素晴らしいことです。多くの人は自分の問題を持っていくべきところを知らないでいるのですから。神様は「悩みの日にわたしを呼べ、わたしはあなたを助け、あなたはわたしをあがめるであろう」(詩篇50:15 )と言ってくださるのです。しかし同時に、神様は私たちの問題だけではなく、私たち自身をも取り扱ってくださるのです。
あるドラマの中で、ある人が"He is in trouble." と言うと、すかさず別の人が"He is the trouble."とやりかえす場面をみました。私たちは自分自身が神の前に問題であることに気がついていないのです。自分の外側の問題を神様にお願いして「病気を治してください」「このトラブルから救ってください」と祈ることはあっても、自分自身を神様の前に明け渡して「神様、この私を変えてください」と祈ることは少ないのです。そこにいたるためには、遠回りでも、インベントリー(ステップ4)、自分の間違いを認めること(ステップ5)、神に自分の性格上の欠陥を取り除いていただくことを神様におまかせする決心(ステップ6)という準備が必要なのです。
ある姉妹がこんなあかしをしてくれました。「バックヤードの雑草を抜こうといろんな道具を持ち出して悪戦苦闘しましたが、どれも固くて手に負えませんでした。ところが、サンディエゴでは珍しく6月に雨が降り、土がやわらかくなりました。庭に出て試してみると、おもしろいように雑草が抜けるのです。わたしはこのことによって、自分の中の雑草を神様に抜いていただくためにも、準備が必要なことを深く心にとめることができました。」このことをとおしてこの姉妹は、12ステップのインベントリーにさらに励む決心ができたと語ってくれました。私たちも、このようにして、神様の前に自分を差し出すことを学んでいきましょう。
私たちは今年、「12ステップ」を私たちの霊的な旅の道しるべとして歩んで来ました。一月にひとつのステップを学んでいます。第1から第3のステップで自分の問題からの解決を学び、第4から第7のステップでは自分自身をふりかえり、神様に「私を変えてください」と願うことを学んでいます。私たちは自分の無力を認め、神様の愛を受けいれ、自分の問題から救われました。そして、問題から救われて振り返って見る時、本当に問題だったのは自分自身だったと気付くのです。神様の愛の光りに照らされてはじめて、自分が神様の愛にふさわしくない者であることを思い知らされるのです。そして、自分の罪を具体的に神様の前にさしだして、自分自身を変えていただくのです。ステップ4から7は「悔い改めのステップ」と言うことができるでしょう。
「悔い改め」について考える時、それを一度限りのものにしないでください。私たちは皆、イエス様を救い主と信じた時、悔い改めたはずですし、バプテスマを受ける前にも悔い改めを教えられたことでしょう。それらは「最初の」悔い改めであって、そこから悔い改めの日々が続くのです。悔い改めを昔の懐かしい思い出にしてしまってはいけません。
また、「悔い改め」は自分の罪を嘆き悲しむことだと言われますが、それは、悔い改めの半面にすぎません。2.コリント7:9,10に「それは、あなたがたが悲しんだからではなく、悲しんで悔い改めるに至ったからである。…神のみこころに添うた悲しみは、悔いのない救いを得させる悔い改めに導き、この世の悲しみは死をきたらせる」とあるとおりに、「悔い」(あんなことをしなければ良かった)と「悔い改め」(私を罪からきよめ、つくりかえてください)とは違うのです。「悔い改めの詩」と呼ばれる詩篇51篇では、ただ自分の罪を認めるだけでなく「神よ、わたしのために清い心をつくり、わたしのうちに新しい、正しい霊を与えてください」と祈り求めています。過去を悔やむことだけでは、解決はありません。罪の赦し、新しい心と、正しい生活は神様からいただくものです。悔い改めとは、古いものを捨て、新しいものを神様に求めていくことなのです。
私たちの生活には二つの部分があります。一つはわたしと神様との関係の中で生きるという個人的な生活の部分、もう一つは他の人と共に生きていくという社会生活の部分です。この二つは、しっかりとつながっていて、切り離すことはできません。このつながりを無視すると、いたずらに人を恐れたり、人に甘えたり、他の人におせっかいをしたりということになるのです。他の人との関係はどうでもいいが、神との関係は深めたいというのは不可能であり、神様との関係をないがしろにして、他の人との関係を良くすることもできないのです。「12ステップ」は、神様との関係と、他の人との関係の両方を正しくしていくプログラムです。
「12ステップ」のステップ8は「私たちは自分が害を与えたすべての人々の名をあげ、その人たちすべてに心から、そのつぐないをする気持ちになりました」と言っています。神様との関係において、赦され、受け入れられた私たちが、今度は、その赦しを他の人との関係にひろげ、あてはめていくのです。しかし、それは「私はあなたを赦してあげられるほど立派になった」と誇って見せることではありません。人を赦す前に自分が赦されなければならない、本当の償いはキリストの十字架の死以外にはないが、自分にできる精一杯の償いをして、自分が傷つけた人たちに赦しを乞いたいと願うのが、今月、私たちが学んでいる、ステップ8なのです。
かって、自分の問題にふりまわされていた時は、いつでも自分が被害者でした。「おれが酒を飲むのは世の中が悪いからだ」と言っていました。ところが神様によって問題から救われて気がついたことは、本当の問題は自分自身だったということでした。そして、インベントリーによって自分の内にどんなにいやなものがあり、それが神様の栄光を傷つけるがかりでなく、自分を傷つけ、他の人を傷つけてきたかを知りました。本当は自分が加害者であったと気付く時、私たちは過去に傷つけた人々に赦しを願うようになるのです。
知ってください。私が赦してあげるのではなく、赦していただくのです。ステップ8では、そのような心底からの謙遜を神様に願い求めるのです。
「12ステップ」は、もとは、アルコール依存症の治療のプログラムとしてはじめられたものですが、まずアルコール依存症の家族のために用いられ、それから他の依存症の回復のために用いられるようになりました。というのは、アルコールをはじめ、他の依存症には互いに共通したものがあるからです。それで「12ステップ」というひとつの原則が、さまざまな依存症に効果をあらわすのです。また、依存症は「家族の病気」と言われます。多くの場合、家族の中にさいわいを見いだせなかったことから依存物に走るようになるからです。さらに、家族にひとりでも依存症の人がいれば、家族全体がその影響を受けます。そして、失われていた家族の機能が回復されていく中で、私たちは、依存症から回復されていくのです。
私たちの教会では、「12ステップ」を信仰の旅の道しるべとして用いています。全員が礼拝で、聖書から「12ステップ」の原則を学ぶ他、「葦の会」や「12ステップの会」などのサポート・グループで、シェアリングを通して、さらに深く学んでいる有志の方々がいます。こうした方々が、今まで気がつかなかった自分自身の欠点に気づき、いままで頑固に否定していた自分の問題を素直に受け入れ、神の力とキリストの恵みによって自分を変えていただこうとしています。来年は、サポート・グループで使っている「リカバリー・デボーション」を、どなたにもご利用いただけるように、12月の出版をめざして準備中です。
リバイバル(世界的、国家的、民族的な信仰復興)は個々の教会のリニューアル(霊的刷新)から、そして教会のリニューアルは、教会のメンバーひとりびとりのリカバリー(こころのいやし)から来ます。私たちは主イエスの十字架が、私たちを罪のとがめから救い、私たちの罪の性質を変え、やがて罪の存在そのものからも救ってくださることを信じます。さらに、キリストの十字架は、罪の結果受けた深いこころの傷からも、私たちをいやすものであることを信じるのです。「キリストは…十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。実にその傷によって、あなたがたは、いやされたのである」(1.ペテロ2:24)。
ステップ1−3は、私たちに問題の解決がどこにあるかを教えてくれました。ステップ4−9では、問題の中心である自分に焦点をあて、悔い改めを実行してきました。ステップ10−12でしようとしていることは、依存物(あなたの考え方と行動とにいつも大きな影響を与えるもの)から解放された生活を保っていく方法を学ぶことです。ステップ10は日毎の悔い改め、ステップ11は日毎の神との交わり、ステップ12はシェアリングについて教えています。これら三つのことを身につけることによって、私たちは依存物から解放された自由を保っていくことができるのです。
ステップ10は「わたしたちは引き続いて自己反省を行い、自分が誤っていた時は、すぐにそれを認めました」と言っています。自己反省、インベントリーについてはステップ4とステップ8ですでに学びました。しかし、インベントリーは、一度すれば済むものでなく、生涯繰り返されるものなのです。インベントリーのために特別に用意されたリストを使うのは、とても役に立ちます。アラノンのインベントリー("Blueprint For Progress")には「態度」「責任」「自己価値」「愛」「成熟」「性格の特性」の6つの分野について自分を検討することができるようになっています。
たとい、こうしたリストを使うことがなくても、一日の中で、どこかに静かに自分をかえりみる時が必要です。なにかいやなことがあった時、つらいことがあった時、すぐに怒ったり、なげやりになったりしないで、少し立ち止まって、そのことの意味、神のご計画を考えてみるのです。また、日々のデボーションのおりに、今日起こったできごとに対して、自分がどう対処したか、その対処は正しかったか、ものごとに対処する傾向がどんなものか、調べるのです。さらに、年に一度、丸一日、あるいは数時間をかけて、自分の性格や行動を形作っているものが何かを調べ、それらを神様に明け渡す時があれば、幸いです。私たちが肉体のために定期健康診断をするように、心の問題についても、定期的なインベントリーが必要です。年末に、誕生日に、あるいはキャンプやリトリートで、そうした時を持ちたいものです。
ステップ11は「わたしたちはわたしたちに対する神の意志を知り、それを実行する力を得るために祈り、神との意識的なふれあいを祈りと黙想とによって高めていく努力をしました」と言っています。12ステップのプログラムは、個人の成長をめざしていますが、霊的に成長するとは、神様から独立していくことでなく、むしろ、成長するにつれて、いよいよ神様からの導き、力を必要とし、もっと神様に頼っていくことなのです。神様につながり、神様とのまじわりを保っていくために、ステップ11では「祈り」と「黙想」の二つについて自分を訓練します。私たちは、祈りを通して、神様に語りかけ、黙想を通して、神様からの答を聞くのです。
私は、クリスチャンになったばかりのころ、何をどう祈ったら良いかわからなかった時がありました。人の前で祈るのが、苦手でした。では、自分ひとりで十分に祈れるのかというと、そうでもなく、祈るたびに消化不良のようなものを感じていました。しかし「このように、あなたがたは子であるのだから、神はわたしたちの心の中に、『アバ、父よ』と呼ぶ御子の霊を送ってくださったのである」(ガラテヤ4:6)「わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さる」(ローマ8:26)とのみことばによって、自分の立場からでなく神の子とされた立場から祈ること、自分の力でなく御霊によって祈ることを学んで祈りが自由になってきたのを覚えています。
けれども、長い祈りの生活のうちに、祈りに、感謝がなくてはならない、賛美がなくてはならない、とりなしがなくてはならないという理論が頭に入っていて、神様に、嘆きや、時にはつぶやきさえも、正直にぶつけることをしなくなっていないか、その分、人にそれをぶつけていないかと反省しています。「自分のことしか祈れなくて」とおっしゃる方もありますが、自分のことをしっかり祈るのが良いのです。人のために祈ってはいるけれど、自分が変えられ、成長していくことをどれだけ熱心に祈っているかとも、心探られます。ステップ11に取り組むなかで、祈りの初心に立ち返らせていただきたいと願っています。
12ステップの第12番目は「これらのステップをへて、わたしたちは精神的に目覚めましたので、このメッセージを他の人に伝え、あらゆる事がらにこの原則をあてはめるように努力しました」と言っています。このステップはシェアリングを励ましています。
「このメッセージを他の人に伝え」という部分は、まるで、福音の伝道のように聞こえます。しかし、12ステップは、唯一の福音とは違います。12ステップをシェアする時、それが唯一絶対であるかのように言うのは間違いです。12ステップは、確かに多くの団体で、教会で用いられ、効果のあるプログラムですが、それがただひとつの方法というわけではありません。神はさまざまな方法を用いて、個人個人を取り扱ってくださるからです。「このプログラムは、私にとって素晴らしい助けになりました」と、素直に話せば良いのです。
これと逆に、「自分は、まだまだだから人になんか話せない」と考えている方もあるでしょう。救いは瞬間的なもので、死から命に、罪から義に、束縛から自由に移ることで、キリストを信じる者は「私は救われています」と言い切ることができます。しかし、心のいやしはひとつの過程であって、私たちはみな回復の途上にあるのです。ですから、商品宣伝のように「使用前」「使用後」といったふうに自分が変わっていなければ、人に話せないということではないのです。自分と自分の問題を神に任せた時から、神は、私たちの生活に、人生に、新しいわざを始めてくださいました。自分のできていないところだけに目をとめるのでなく、神がしてくださったことを人に話すのです。その時、私たちのシェアリングが、自慢話でも、宣伝じみた話しでもなく、ただ神のすばらしさを伝えるものとなり、聞く人に恵みをもたらすものになるのです。
サポート・グループでは、順調な回復の様子がシェアされるばかりでなく、時には、逆戻りや、さまざまなストラグルがシェアされます。そうしたシェアリングは、同情してもらうためになされるのではありません。正直なシェアリングは、ヤコブ5:16にある約束のとおり、自分を正直に見つめさせ、自分の失敗を告白し、新しい一歩を踏み出す力となるのです。
12ステップの第12番目は「これらのステップをへて、わたしたちは精神的に目覚めましたので、このメッセージを他の人に伝え、あらゆる事がらにこの原則をあてはめるように努力しました」と言っています。このステップはシェアリングと共に、実践を励ましています。
ヤコブの手紙は「御言を行う人になりなさい。おのれを欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけない」(1:22)と教えています。神のことばは、聞いて、学んで、頭に蓄えるだけでは十分ではありません。どんなにそれに感動しても、聖書の学者になったとしても、そうした感情や知識が人を救うのではありません。イエス様の時代のパリサイ人、律法学者たちは豊富な聖書知識を持っていましたが、その知識をもってキリストを信じたでしょうか。いいえ、彼らは、聖書を自分たちの解釈で、ああでもない、こうでもないと言って、キリストを受け入れない言い訳に使ったのです。聖書的であるとは、聖書のあちらこちらを引用して、理論をまくしたて、人々を煙にまくことではなく、聞いたみことばを素直に心に受け入れ、それを実行することです。百のことを知っていてひとつやふたつのことしか行わないより、十のことしか知らなくても、十すべてを実行する人の方が祝福されるに決まっています。
聖書も、聖書から生まれた12ステップも単なる理論ではありません。それは、そこに示された道に歩むためのものです。一歩一歩そこに歩むために、私たちは、自分を見つめる静かな時間、インベントリーをするためのツール、それを助けてくれるスポンサー、回復の道を歩むためサポート・グループの仲間たちの励まし、そして神との交わりの時が必要です。これらのものを最大限に用いて、神のいやしと回復をいただくのです。
前にも書きましたように、12ステップは万能薬でも特効薬ではありません。それで、ある人たちは、自分たちには、このプログラムは役に立たず要らないと言うかもしれません。それに対して、理論や議論で答えようとしても意味はありません。12ステップ・プログラムに取り組もうとする人は、理論ではなく、実践によって、神のいやしと回復を「実際に」受けて、それを証ししようではありませんか。