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礼拝へのお招き 「礼拝って、クリスチャンのためのものでしょう?クリスチャンでない私が行ってもいいのですか?」という質問をされることがあります。そんな時、私はいつも、「礼拝は、クリスチャンのためだけのものではありません。神さまはすべてのものの造り主です。だから、造られたものが神さまを礼拝するのは当然のことなんですよ。」と答えます。聖書に「主をほめたたえよ。日よ。月よ。主をほめたたえよ。すべての輝く星よ。…山々よ。すべての丘よ。実のなる木よ。すべての杉よ。獣よ。すべての家畜よ。はうものよ。翼のある鳥よ。地の王たちよ。すべての国民よ。君主たちよ。地のすべてのさばきづかさよ。若い男よ。若い女よ。年老いた者と幼い者よ。彼らに主の御名をほめたたえさせよ。」(詩篇148篇)「息のあるものはみな、主をほめたたえよ。」(詩篇150篇)とあります。私たちは誰も、造られたものとして造り主をあがめるのです。ですから、すべての人が礼拝に招かれているのです。 しかし、礼拝においでになるうちに、造られたものとして、造り主である神を礼拝するだけでなく、「贖(あがな)われたもの」となって、「贖(あがな)い主」である神を礼拝することの素晴らしさがおわかりいただけると思います。「贖(あがな)い」というのは、「代価を払って買い戻すこと」を意味します。私たち人間は神に造られた存在でありながら、神から離れ、罪の奴隷となっていました。イエス・キリストは、私たちを罪から解放するために、ご自分の命を贖いの代価として差し出してくださいました。キリストの十字架の死は、私たちの罪の身代わりとなったためであり、また、神への和解の供え物となるためでした。そして、キリストは、その贖いが成就したことを示すために、十字架から三日目、つまり週のはじめの日に復活されました。私たちが、日曜日に礼拝を守るのは、キリストの贖いによって救われた者として、贖い主をほめたたえるためなのです。 礼拝の中で洗礼(バプテスマ)や聖餐(主の晩餐)が行われますが、これはキリストの贖いを目に見える形で表わすものです。洗礼を受ける人は、イエス・キリストの死によって、自分が罪に死に、イエス・キリストの復活によって永遠の命を与えられていることを言い表します。同じように、聖餐にあずかる者は、イエス・キリストの十字架の死が、自分の贖いのためであることを、言い表わしているのです。礼拝に集ううちに、イエス・キリストの贖いを知ってください。それを信じ、洗礼を受け、クリスチャンとなってください。クリスチャン、つまり、贖われた者となって、贖い主である神とイエス・キリストを礼拝する者となってください。聖書に「これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。」(エペソ1:14)とあるように、神を贖い主として覚える時、私たちは最もよく神をほめたたえることができるのです。 (2005年4月)
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