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神と人のかけはし 三月は、クリスチャンにとって特別な月です。それは、イースター(復活祭)を前にしたこの月をレント(受難節)として守るからです。実は、今年は二月二八日が「灰の水曜日」といって、レントの第一日だったのです。この日からイースターまで、日曜日を除いて四十日の間、世界中のクリスチャンがキリストの十字架を思い見ながら日を過ごすのです。 四十日という期間は、イエス・キリストが荒野で断食をして過ごされたことから来ています。この期間、禁酒、禁煙、そして肉食をしないなどのことをしますが、禁欲的に過ごすことだけが、この期間の過ごし方ではなく、大切なことは、やはり、キリストの十字架の意義を深く心に刻みつけることだと思います。 キリストの十字架にはさまざまな意味がありますが、私は、それは、きよい神と罪深い人間との「かけはし」であったと思います。私たち人間は、良い行いをしたり、宗教的な修業をしたり、知恵や知識を極めて神に近づこうとしてきました。しかし、そうした人間の側の努力によっては誰一人神に近づくことができませんでした。神は、そんな私たちをご自分のところに引き寄せるために、イエス・キリストを私たちの世界に遣わしてくださいました。イエス・キリストは、罪のない神の御子であるのに、私たちの罪を背負って十字架で死んでくださいました。私たちは、キリストの十字架という「かけはし」を通って、神のもとに立ち返ることができるようになったのです。 以前、フィリピンで客船が事故に遭ったことがありました。船体に裂け目が出来たため、婦人や子どもたちは、その裂け目を通ることが出来ませんでした。その時、ひとりのイギリス人が(彼の夫人はフィリピンの方で、夫人といっしょにフィリピンを訪れていたのです)、その裂け目に体を横たえ、「さあ、私の背中を踏んで渡りなさい」と言って多くの人を助けたことがあります。(この人は後にイギリス女王から表彰されました。) イエス・キリストもこのイギリス人のように、私たちすべてのために、神と人との間にある裂け目をふさぐために、そのからだを十字架の上に横たえられたのです。だれしも、キリストが十字架で死なれたことを知っています。しかし、その十字架が何のためだったかを知る人は少ないのです。このレントにひとりでも多くの方がキリストの十字架の意味を知ることができるよう願っています。 「神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。」(テモテへの手紙第一、二・五) (2001年3月)
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