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愛されるために生まれた! 娘が生まれたのは冬、雪深い新潟でした。私は、そのころ自宅から列車で一時間以上もかかる学校に通い、そこで働いていました。仕事が終わって、帰りの列車の中では、いつも、早く娘に会いたくてそわそわしていたのを思い出します。生まれたばかりの娘は、私のことを「おとうさん」と呼んでくれるわけでも、「きょうは、こんなことがあったよ。」と話すことができるわけでもありません。きげんが悪くて泣いているか、寝ているかのどちらかでした。しかし、泣いていても、寝ていても、私にとってはかわいい存在でした。それは、私の娘だからでした。 「子を持って知る、親の恩」ということばがありますように、私も、自分の子どもを持ってはじめて、親のありがたさがわかりました。また、それと共に、神の愛についても、よりよく理解することができたような気がします。神の愛は、親の愛に似ているからです。いや、親の愛が、神の愛に似ていると言ったほうが良いでしょう。神は愛であり、すべての愛は神から出ているからです。 聖書では、神は私たちの「父」として描かれています。すべての人は、神に造られたわけですから、神が創造者であるという意味では、神はすべての人の「父」です。しかし、人間は自分の罪のために、神の子どもとしてよりも、神の敵として生きてきました。そのような人間のために、神の御子であるイエス・キリストは、十字架にかかって、私たちを神と和解させ、私たちを神の子どもとしてくださいました。十字架の上で、キリストは、私たちの「罪人」という立場を引き受け、かわりに、ご自分の「神の子」という身分を、私たちに授けてくださったのです。聖書は「しかし、この方(イエス・キリスト)を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」(ヨハネの福音書一章十三節)と約束しています。キリストを信じる者は、神の子どもとして、神に愛され、また神を愛し、神の愛を実感しながら生きていくことができるのです。 私たちは、神に愛されるには、善い人間でいなければならないとか、何か立派なことをしなければならないとか考えがちですが、それは、間違いです。生まれたばかりで、まだ何も出来ない娘を、ただ自分の娘であるゆえに、かわいいと、私が思ったように、父である神も、イエス・キリストを信じて神の子どもとなった者を、ご自分の子どもであるというだけで愛してくださるのです。もし、神が、私たちの何かに基づいて愛されるとしたなら、私たちには、神の愛を受ける資格などひとつもないのですから、永遠に神の愛を体験することはできないでしょう。私たちはすべて、神に愛されるために生まれてきました。イエス・キリストを信じるなら、神の子どもとして生まれかわり、神に愛され、神を愛するために生きる人生を体験することができるのです。私たちの人生の目的は、神に愛され、神を愛することの中にあるのです。 (2005年3月)
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