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レッツ・イート! アメリカに来てはじめての年、サンクスギヴィングのデナーに招かれました。「○○さんの家に着いたら、なんて言えばいいんだろうね。」「メリー・クリスマスじゃないよね。」「わからないね。」―車の中でこんな会話をしながら、○○さんの家まで来ました。家の中から「ハッピー・サンクスギヴィング!」という声がかかりました。『あっ、そうか、ハッピー・サンクスギヴィング!なんだ』と、また、ひとつ新しいことを覚えました。 「サンクスギヴィングのデナーって、どんなことをするのかな」と期待をして行きましたが、賛美歌をひとつ歌って、お祈りをして、あとは「レッツ・イート!」、ひたすら食べる集まりとなりました。「ターキーはファットが少ないから食べ過ぎても大丈夫」と言い、残りをもらってかえりましたが、冷めたターキーはあまり味がありません。スープにしたり、サンドウィッチにしたり、12月まで、ターキーづくしでした。大きなターキーを焼いた人は、もう「七面鳥の顔も見たくない」といった心境になることでしょう。 「食べる」―それは、人間のにとって最後まで残る本能的な欲求であると言われています。ですから、聖書では、世俗的なことに没頭していることを「飲んだり、食べたり、めとったり、とついだり」(マタイ24:38)という言葉で表わしています。教会は「飲食」のことでふりまわされるべきでないことを戒めるのに、「神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです」(ローマ14:17)とも言われています。 けれども同時に、聖書は、天国の喜びを結婚式の宴会にたとえ、イエスご自身もよく、人々といっしょに食事をされました。これを批判した宗教指導者たちに、イエスは次のように答えています。「ヨハネが来て、食べも飲みもしないと、人々は『あれは悪霊につかれているのだ。』と言い、人の子が来て食べたり飲んだりしていると、『あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ。』と言います。でも、知恵の正しいことは、その行ないが証明します。」(マタイ11:18-19) そして、イエスはこうも言われました。「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」(黙示録3:20)サンクス・ギヴィングの食事を楽しむ時、イエスもまた、そのように私たちとのまじわりを求めておられるということを思い、イエスを心の中に迎え入れましょう。その時、サンクスギヴィングがほんとうに感謝にあふれた祝日となることでしょう。 (2002年11月)
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