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富弘さんを生かした聖書のことば 富弘さんの詩画展がいよいよはじまりますね。富弘さんが描いたいた花の絵とそれにそえられた詩の原画百点が、サンフランシスコにやってきます。富弘さんの作品はカレンダーや絵葉書でご覧になっているでしょうが、原画には印刷されたものに無い味わいがありますので、ぜひとも会場に行ってご覧いただきたいと思います。また、九月十二日には富弘さんのお話をじかに聞くことができます。サンフランシスコの後、ロスアンゼルスでも詩画展があるのですが、そこには作品が送られるだけで、富弘さんは行きません。星野さんに直接会えるのは、ベイエリアにいる私たちの特権です。 富弘さんが口に筆をくわえて絵を描くのはよくご存知ですね。口に筆をくわえて絵を書く人は大勢いらっしゃいますが、富弘さんのように首から下が麻痺して、身動きひとつできないのに、ベッドに横たわりながら絵を描く人は、めったにいないと思います。筆をくわえていられるのは一日のうち数時間にすぎないということで、一枚の絵を描くのに何日もかかります。無理をすると熱が出てしまいます。そんな中から作り出された絵であり、詩であるだけに、多くの人の感動を呼ぶのだと思います。 私が富弘さんの絵を始めて見たのは、神学校にいる時でした。私と同級の米谷信雄さんが花の絵が描かれた一枚の色紙を持ってきて、これはこうこう、こういう人が書いたものだと説明してくれました。その当時の絵は、今の絵にくらべれば、お世辞にもうまいとは言えないものでしたが、米谷さんは「こんなに描けるようになってすごいだろう」と自分のことのように喜んでいました。 実は、米谷さんは、群馬県前橋の教会のメンバーで、富弘さんと大学時代同じ寮に住んでいたことがあったのです。それで、米谷さんは、富弘さんを見舞い、彼に福音を伝えようと努力し、そのために時々群馬に帰っていました。富弘さんが神のことばに触れたのは、米谷さんが彼に贈った聖書によってでした。 しかし、富弘さんは、米谷さんからの聖書をすぐ読んだわけではありませんでした。富弘さんはその時「聖書なんか持ってたら、弱い人間だと思われてしまう」と考えていたそうです。彼はその時、本当に強かったのかというとそうでなく、ただひとつ動かせる口でその歯で舌を噛み切って死んでしまいたいと願っていたのです。自分の弱さを正直にさらけ出すことが恐かったと言っています。富弘さんは、同じ病院に入院してくる他の患者から「富弘さんは明るい人だ、頑張屋だ」と言われると、なおのこと自分の弱さを隠そうとしたとその手記に書いています。 そのうち、米谷さんの教会の舟喜拓生牧師が富弘さんを訪ねるようになり、聖書のメッセージをしてくれるようになりました。でも、富弘さんは牧師に訪問してもらっている自分を回りの人がどう見るだろうかと、その視線ばかりを気にして、自分から聖書を読もうとはしなかったのです。「いやね、聖書のお話も歴史の勉強になるからね」と他の人にいいわけして自分の気持ちをごまかしていたのです。しかし、富弘さんが自分で聖書を開いて読み出す時がきました。「自分で」といっても、もちろん、誰かの助けを借りて、書見台に聖書をつけてもらい、ページをめくってもらったのでしょうが、それはローマ人への手紙でした。最初は読んでも全然理解できず、活字を追っていくだけでしたが、「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」(ローマ5:1-5)というところに来た時、このことばが富弘さんの心の中に入ってきました。それは、以前米谷さんが富弘さんに送ったはがきの中に書かれていたものでした。富弘さんはその時、「神を信じたい」という気持ちに導かれたのです。人は希望なしには生きられません。しかし、からだの自由が全くきかない富弘さんにとって希望を持つことは不可能でした。人々が語る希望は、本物の希望ではなく「気休め」であって、最後には失望に終わるものでしかありませんでした。しかし、聖書が語る希望は本物の希望です。 表面では明るくふるまっていても、心の中に絶望しかなかった富弘さんが本物の希望をつかんだのは、神のことば、聖書によってでした。神のことばは富弘さんを本物の希望の与え主、イエス・キリストのもとへ導いたのです。 (2001年9月)
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