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も ど る
『ダ・ヴィンチ・コード』の「事実」と「虚構」(その2) ブラウンが自分の小説に「ダ・ヴィンチ・コード」という題をつけたのは、ダ・ヴィンチが書いた様々な絵の中に、ルーヴル美術館で起こった殺人事件とキリスト教の秘密を解く鍵を織り込ませたからです。ブラウンによるダ・ヴィンチの絵画の「解釈」はほとんどが小説を成り立たせるための「こじつけ」で、とりわけ、「最後の晩餐」の解釈には受け入れられないものが多くあります。 まず、ブラウンは「最後の晩餐」を「フレスコ画」と言っていますが、それは間違いで、これは「ペイント画」です。 また、「キリストは最後の晩餐の時、ブドウ酒を入れた杯(「聖杯」)を弟子たちに回して飲ませたが、ダ・ヴィンチの絵によると、弟子たちひとりびとりの前に小さなグラスが置かれていて、キリストが与えた聖杯が描かれていない。」と言っていますが、それもそのはずで、ダ・ヴィンチが描いたのは、晩餐が始まる以前の様子だったからです。ダ・ヴィンチの絵には、キリストを裏切ったユダの姿が描かれていますが、ユダはこの後、最後の晩餐の席から姿を消し、キリストが与えたパンとブドウ酒にあずかっていないからです。 コリント第一11:23〜28は、最も古い聖餐(「主の晩餐」)の制定のことばですが、そこにはこう書かれています。 私は主から受けたことを、あなたがたに伝えたのです。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンを取り、感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」夕食の後、杯をも同じようにして言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えてこれを行ないなさい。」 ここに「夕食の後、杯をも同じようにして…」と書かれているように、杯は、食事の最後出てくるので、ダ・ヴィンチが描いた「最後の晩餐」の絵に「聖杯」が描かれていないのは、不思議なことでも何でもないのです。 また、ブラウンは、この絵でキリストの右にいるのは「マグダラのマリヤ」であると言っていますが、そこにいるのは、女性の弟子マリヤではなく、男性の弟子ヨハネです。ヨハネは弟子たちの中で一番若かったので、画家たちはヨハネを少年として描きました。それで、ヨハネが女性のように見えるのです。ダ・ヴィンチが最後の晩餐のために描いたデッサンが残っていますが、それを見ると、この人物が明らかにヨハネであることがわかります。 最後の晩餐は、教会にとっては、最初の聖餐式でした。教会にとって聖餐式は、キリストが、人類の罪のために十字架で死んでくださったことを覚えさせるとても大切なものです。ブラウンの小説はフィクションではありますが、その背後に聖なるものへの挑戦という意図が見え隠れしています。(つづく) (2006年7月)
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