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も ど る
見えるもの、見えないもの 私たちは、見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。(第二コリント四・十八) 私の子どものころ、日本でテレビ放送が始まりました。私の育った小さな町にもテレビがやってきました。以前の芝居小屋の舞台にテレビが置かれ、町の人たちが、驚いたり感心したりしながらそれを見ていたのを覚えています。やがてテレビは各家庭に普及し、続いてカラーテレビの時代となり、今は、ハイビジョンの時代となりました。本を読んだり、ラジオを聞く時には、「ことば」に集中し、そこに書かれていることを考え、そこで語られていることを想像しなければ内容を良く理解できませんでしたが、テレビは直接視覚に入ってきますので、私たちの思考力や想像力をあまり要求しません。テレビの影響ばかりではないかもしれませんが、人々は物事の見えるものだけに目を留め、見えない面を深く思い見ることができなくなってきました。人物や物事を見る時も、その内面や本質ではなく、外面やうわべだけを見るだけで終わってしまうようになりました。美男美女だけがもてはやされ、自分を売り込むのが上手な人が人気者になる時代になってしまいました。 しかし、見えるものは一時的なものにすぎません。人の注目を浴びることだけを求める人生はむなしいものです。見えるものだけに目を留めていると、結局のところ、回りの人々や状況に支配されるだけで終わってしまいます。キリストを信じる信仰は、私たちに目に見えないものを見させてくれます。聖書は、「信仰」を定義して、「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」(ヘブル十一・一)と言っています。信仰によって私たちは、見えるところが問題だらけであっても、それを解決してくださる見えない神に目を注ぐことができます。たとえ自分は弱く小さい者であっても、そのような者をも愛し導いてくださる全能の神に信頼することができるようになります。目に見えることだけで有頂天になったり、がっかりしたりする生活から、イエス・キリストを信じる信仰によって、永遠に続き、いつまでも変わらない、確かなものを手にする生活へと導かれていこうではありませんか。 (2006年3月)
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