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  現代に生きる人生のガイドライン
  — 十戒の学び



 わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。―出エジプト記20:2

 旧約聖書の中で、創世記から申命記までのモーセの五つの書は、「律法」と呼ばれています。モーセの五書からあとの旧約の部分は「預言者」と呼ばれます。主イエスが「律法と預言者」と言われた時、それは旧約聖書全体をさして言われたのです(マタイ5:17;11:13)。「律法と預言者と詩篇」という時には詩篇、箴言などの文学がもうひとつのジャンルに区分されています(ルカ24:44 )。旧約では、律法(モーセの五書)が中心を占めていて、預言者は、それを説明するもの、詩篇は律法と預言者をサポートするものと考えられています。そして十戒は、旧約の中心である律法の中心にあるものです。モーセの五書の他の部分は十戒を解説していると言ってもよいほどです。

 このように大切な位置を占める十戒がを、単なる「古代の法典」として片付けてしまっていいはずがありません。十戒は「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である」ということばで始まっています(出エジプト記20:2)。このことばが示すように、十戒は、神と神の民との契約のことばなのです。神がエジプトで奴隷であったイスラエルを恵みによって救い出し、神の民にしてくださった、その特権に基づいて与えられたものなのです。私たちは契約というと、生命保険や自動車保険、商品の保証書のように、小さな文字でいろいろ書いてあるけれど、めったに読まないものを連想します。そして普段、私たちはそうした契約を覚えてはいないのです。しかし、神の契約のことばは、私たちの心に刻まれるべきもの、私たちがいつもそれを思い、私たちの日常の生活がそれによって導かれるものなのです。

十戒は、新約時代に神の民に加えられた私たちにあてはまるものです。私たちは、十戒によって、この十戒を与えてくださった神を知り、その神に対する自分の罪を知り、神のために生きていく生き方を学ぶことができるのです。



 これらの二つのいましめに律法全体と預言者とが、かかっている。―マタイ22:40

 「十戒」は、序文のあと、十の戒めが続きます。序文の「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である」(出エジプト記20:2)は、前回触れましたように、十戒が、単なる戒めの寄せ集めでなく、神が私の神となってくださり、私が神の民になるという、神の救いのわざ、神との交わりの恵みにもとづいていることを教えています。

 十の戒めは、二つに分けることができます。第一から第五までが、神への愛を、第五から第十までが人への愛を教えています。「第一から第五まで」「第五から第十まで」と書いたのは、ミスタイプではありません。第五の戒め、「あなたの父と母を敬え」は、神への愛と、人への愛の両方を教えるものだからです。このことは、第五の戒めを学ぶ時に詳しく説明します。

 ある律法学者が主イエスに、「律法の中で、どのいましめがいちばん大切なのですか」と質問しました。主は申命記6:4 とレビ記19:18 を引用され、「これらの二つのいましめに律法全体と預言者とが、かかっている」とお答になりました。律法学者でなくても、ユダヤ人ならだれでも、この二つの聖句は、良く知っていました。しかし、律法学者のだれも、この二つをイエス様のようには、結びつけませんでした。神への愛と人への愛は切り離されていたのです。熱心なユダヤ人の中には、「神を愛することは、異邦人を憎むことだ」、「神へのささげものにしてしまえば、両親に与えなくてもよい」と考える人もいました(マタイ5:43、マルコ8:10−13)。十戒も、神を愛することと、人を愛することを結びつけていました。イエス様は、ユダヤ人が忘れてしまっていたことを、あらためて教え、私たちを神のことばに引き戻してくださったのです。

 神のご命令は、「神を愛せよ」だけでも、「人を愛せよ」だけでもありません。律法は、神を愛することと、人を愛することが結びついたところにあるのです。十戒が私たちに神への愛を教え、その上で人への愛を教えているように、私たちも、まず、神を愛することを学ばなくてはなりません。神への愛に基づかないなら、本当には、隣人を愛することができないからです。それと同時に、神への愛は、ひとりよがりなものに終らないで、人への愛に表われてこなければなりません。



 あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。―出エジプト20:3

 「十戒」の序文には「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である」(出エジプト20:2)と書かれていました。英語では、"I am ..."で、文章が始まっています。神は、そして、神だけが本当の意味で存在される方です。私たちとこの世界は、神によって造られたものであって、いわば、存在させられているものです。私たちは、神に頼って自分を支えていますが、神は何者にも依存されることはありません。神おひとりだけが、ご自分で、永遠の昔から、永遠の未来へと変わることなく存在しておられるお方です。そうであるなら、この神の前に、他のどんな神を置くことができるというのでしょうか。「それで、あなたがたは、わたしをだれにくらべ、わたしは、だれにひとしいというのか。目を高くあげて、だれが、これらのものを創造したかを見よ。」(イザヤ40:25-26)

 神は、単に宇宙で最高のお方であるばかりでなく、地球上の小さな私たちに目を留めてくださるお方なのです。神は、イスラエルにむかって、ご自分を「あなたの神」と言われます。大国エジプトの人々に対してでなく奴隷となっていた者たちに、「わたしは…あなたの神」と言われるのです。神は、罪の奴隷となっていた私たちを、イエス・キリストの十字架と復活によって救い、私たちを神の子どもとし、私たちの父となってくださいました。神との愛の関係にいれられた私たちが神以外のものを、どうして、神とすることができるでしょうか。

 この第一の戒めで、「わたしの他に」と訳されていることばは、「わたしの前に」とも「わたしの顔の前に」とも訳すことができます。『ウエストミンスター大教理問答』には、十戒の詳しい説明が載っていますが、そこでは、「わたしの前に」ということばは、「すべてのことを見ておられる神は、他のどのような神をでも持つことの罪に特別に目を注ぎ、それをはなはだしく嫌っておられること」を教えていると言われています。私たちは自分の目に良く見えるからする、人の目につくからしないというのでなく、神の「み顔」、神の「目」を意識して、生活しなけれがなりません。私たちは神を、自分の外の世界で最高の方と認めるばかりでなく、わたしの人生の中で、第一のお方としているだろうかと、考え直してみなけれがなりません。第一戒は、そのことを私たちに問いかけています。



 あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。―出エジプト20:4

 第1戒は、まことの神だけを神とすることを求めており、第2戒は、まことの神だけを礼拝することを教えています。第1戒が、私たちに正しい神学を教えているとすれば、第2戒は、私たちに正しい礼拝を教えているのです。ここで、私は、「神学」を、神についての基本的な理解という意味で使っています。私たちが真に神を知ることなしに、神への真実な礼拝は生まれて来ません。本当の神学は、私たちを必ず礼拝にみちびき、正しい神学から本当の礼拝が生まれてきます。

 イスラエルが「金の子牛」を造った時、彼らは、別の神を造り出そうとしたのではない、自分たちの神をこの形で表そうとしたのだと言い訳けをしました。(出エジプト32章)しかし目に見えない神を目に見える形で表し、創造者である方を被造物によって形づくることは、結局、別の神々造り出すことになるのです。第1戒は、私たちに他の神々の存在を禁止し、第2戒は、他の神々の製作を禁じていると言うこともできます。

 ところで、偶像というと、私たちはふつう、金属や石で造ったもの、木を刻んだもの、紙に描いたものを、思いうかべます。そして、私たちクリスチャンは、「子たちよ。気をつけて、偶像を避けなさい。」(?ヨハネ5:21)とのことばにしたがって、仏像、神々の像、神社・仏閣の模型、位牌、お札、お守りなどを持たないようにしています。しかし、もし、私たちが神について、間違ったイメージを持っていたとしたら、それも、偶像とはいえないでしょうか。J.B.フィリップスは、『あなたの神は小さ過ぎる』という本を著して、私たちの多くは、雲の上にいて、白いひげをたくわえた、お人好しのおじいさんといったイメージしか持っていないのではないかと警告を与えています。ガウルティエレ夫妻は『誤った自己像』という本で、私たちはなぜ間違った神概念を持つのか、そこからどのように間違った自己像が生まれるのかを分析しています。J.I.パッカーの『神を知る』には神を正しく知る道が示されています。第2戒では、Material Imageばかりでなく、Mental Imageについても注意するように教えられているのです。

 「神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまことをもって礼拝すべきである。」(ヨハネ4:24)このおことばは、第2戒を積極的な形で言い換えたものということができます。



あなたはあなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。―出エジプト20:7

 アメリカでは、驚きを表わすときに、「オー、マイゴッド」と言い、口惜しさを吐き出すときに「ジーザス・クライスト」と叫びます。これは、神の名を間違って使っているほんの一例にすぎません。「神にかけて誓う」などといって人をだましたり、だますまではいかなくでも、自分の誓いをすっかり忘れてしまうことも、神の名を悪用していることになります。私たちは、神がどんなお方かをよくわきまえないで、いたずらに神の名を引き合いに出したり、「私が罪に陥ったのは神がそうさせたからだ」などと、神のご性質に反したことを言ってしまったりします。これらもまた十戒の第三の戒めに違反することなのです。

 ユダヤの人々は、この戒めを非常に厳格に受け止めて主の御名のひとつ「ヤーウェ」をそのまま発音することを恐れて、「アドナイ」(わが主)と呼びました。また「ヤーウェ」の四文字を書くときには、今まで使っていたペンを洗い、新しくインクをつけなおして、書いたほどです。主の名をそれほどに大切にしながら、いつしかそれが形式的なものになってしまっていました。口先では、主の名を敬っているように見えながら、実際の生活では、不信仰を続け、そのことによって主の名を汚していたのです。神は罪を犯したイスラエルに言われます。「わたしはイスラエルの家が、その行くところの諸国民の中で汚したわが聖なる名を惜しんだ。」(エゼキエル36:20)

 では、どうすれば良いのでしょうか。まず、第一に主の名を知ること、つまり、神がどのようなお方かを良く知り、神について正しい知識を持つことです。神を正しく知ることなしに、神の名を正しく語ることはできません。第二に自分が神の名をになっていることを自覚することです。第三の戒めは「あなたの神、主の名」と言っています。神の民、キリストの者、クリスチャンが、自分が神の名を、キリストの名を運ぶ器名のです。人々は私たちを通してしか、神を、キリストを見ることができないのです。人々が私たちの良い行いを見て、天の父をあがめるようにすることが私たちの努めであり、第三の戒めの求めていることなのです。(マタイ5:16)



 安息日を覚えて、これを聖とせよ。―出エジプト20:8

 神様は私たちを労働するものとして、お造りになりました。十戒の第四の戒めの背後には、神様の私たちに対する労働の戒めがあります。聖書は「働こうとしない者は、食べることもしてはならない」と命じています(?テサロニケ3:10)。ところが一方、私たちは、「仕事をやめよ」と命じられなければならないほど、働きすぎるということもあるのです。働きすぎる人の中には、使命のためというよりは、自分の仕事の出来栄えによって自分の価値を高めようとする間違いを犯している人もあるのです。私たちの価値は、神様に造られ、イエス・キリストに贖われたことの中に見いだされるべきもので、自分の功績によるのではないのです。また、「必要」のために働かなければならないのだということも聞きます。しかし、あなたの「必要」は本当になくてならないものなのでしょうか。そこには、神様が必要を満たしてくださることを信じることができない不信仰や、神様が与えてくださる以上のものを求める貪欲がないでしょうか。

 「安息日」ということばは、「やめる」ということばを語源に持っています。第四の戒めは、私たちに、自分の功績で神に、人に受け入れられようとする自己義認を「やめる」ように、思いわずらいを「やめる」ように、貪欲を「やめる」ように命じているのです。そのために時間を聖別し、場所を聖別して、私たちは礼拝を守るのです。礼拝は、日常生活の延長や、その一部としてあるのではなく、日常から離れ、生活のいとなみを中断して行われるものです。テクノロジーの発達した現代、リヴィングルームで、テレビを見ながら、礼拝すればよいではないかと言う人もいますが、そこには、礼拝の大切な要素が欠けていると、私は思います。礼拝の衣服にしても、豪華なものを着る必要はありませんが、土曜日に着ていた運動着のまま礼拝に来るというのは、礼拝に対する気持ちに欠けたところがあると思いませんか。教会には、特別なドレス・コードはありませんが礼拝の意味を知れば、神の前に出るために衣服を整えることの大切さも理解できると思います。

 神を神として、神にふさわしい方法であがめる。これが十戒の第一から第四の戒めが教え、命じていることなのです。



 あなたの父と母を敬え。―出エジプト20:12

 十戒は、前半が神への愛、後半が人への愛を教えています。十戒の第五の戒めは、神への愛と人への愛をつなぐものです。旧約聖書の時代も、現代も、家庭は、神のことばを教える場で、「父と母」はこどもたちにとって神からの教師です。現代は、そうした側面が軽んじられていますが、旧約聖書の時代には、両親は、家庭において、その家族の祭司であったのです。「父と母を敬う」ことは、父、母を通して私たちに語りかけ、私たちを導こうとしている神を敬うことになるのです。

 また、人が生まれてはじめて出会うのが、父、母であるように、人は、父、母を愛することを通して、他の人への愛を学ぶのです。多くの心理学者が指摘するように、健全な親子関係を持ってきた人は、良い友人関係や夫婦関係を築くことができるのです。創世記に「それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである」(2:24)とあるように、結婚は確かに、両親から離れて、独立した家庭を作っていくことです。しかし、両親の愛のもとに育てられてきてこそ、それが可能となるのです。ですから、十戒は、夫婦の愛よりも先に、両親への愛を教えているのです。

 この戒めは、時代が変わっても、決して変わるものではありません。第五戒は新約聖書にも引用されています。聖書は、幼いころ、両親に服従するというばかりでなく、年老いた両親を世話することも命じています。「子たる者よ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことである」(エペソ6:1 )「もしある人が、その親族を、ことに自分の家族をかえりみない場合には、その信仰を捨てたことになるのであって、不信者以上にわるい」(?テモテ5:8 )両親が年をとって力がおとろえたからといって、軽蔑したり、こどもが両親を支配しようとしたりしてはいけません。私たちは、こどものころばかりでなく、成人になっても、この戒めのもとにあることを、忘れないようにしましょう。

 この戒めを守る者には、「あなたの神、主が賜わる地で、あなたが長く生きるためである」という約束が実現します。サンディエゴでは、多くの人々が、この戒めを守り、この祝福をいただいてきました。私たちも、その足跡にならいたく思います。



 あなたは殺してはならない。―出エジプト20:13

 第六から第八の戒めは、もとのヘブル語では、それぞれ二つの単語しか使われていません。誰かが怒り狂って刃物を振り回している時、長ったらしい言葉を使うでしょうか。「やめろ」とか「殺しちゃいけない」とか、叫ぶに決まっています。同じように、神は、単純明解に、殺人に対して「ノー」とおっしゃるのです。

 かけがえのない人の命を奪うという、この最も恐ろしい犯罪は、人間の神に対する罪から始まりました。アダムとエバが神に逆らって後、アダムの息子カインが自分の兄弟アベルを殺し、これが人類の最初の殺人となりました(創世記4:1-16)。罪の結果、人は死を体験するようになったのですが、最初の死は、殺人の結果だったのです。殺人の罪は、ここから人類にひろがりました。カインの子孫であるレメクは神に対する反逆の言葉を吐いて次のように言っています。「わたしは受ける傷のために、人を殺し、受ける打ち傷のために、わたしは若者を殺す」(創世記4:23)

 殺人、暴力、不正がはびこった社会を神は洪水によってお裁きになりました。しかし、神は全人類を滅ぼされたのではなく、その中からノアとその家族を選んで、そこから新しい社会を造り出そうとされました。神は洪水の後、「人の血を流すものは、人に血を流される、神が自分のかたちに人を造られたゆえに」(創世記 9:6)と語られました。神が殺人を禁じておられるのは、私たちひとりひとりが神のかたちに造られ、神によって命を与えられているからです。命の神聖さは、神の神聖さから来るのです。神を畏れることがなければ、人の命も軽んじられます。

 イエス様は、「兄弟に対して怒る者、愚か者と言う者、ばか者と言う者」は殺人の罪と等しい裁きを受けると言われました(マタイ 5:21-22)。殺人の根は心の中に、相手の存在を否定する思いの中にあるのです。私たちの多くは「人殺しだけはしていない」と言うでしょう。しかし、イエス様によれば、私たちすべては第六の戒めも破っているのです。素直に自分の罪を認め、罪のゆるしと、罪からのきよめを願い求めましょう。そしてイエス様を信じる信仰によって人を生かすような働きをさせていただきましょう。



 あなたは姦淫してはならない。―出エジプト20:14

 あるアメリカ人の神父が、講演の中で、「もし、セックスが人を幸せにするのなら、なぜアメリカ人は不幸なのでしょう」と話していました。自由なセックスがあふれているアメリカを皮肉った言葉です。十戒は「姦淫してはならい」と、自由なセックスを否定しています。人の命の次に尊ばれなければならないのが「性」です。性的に勝手気ままな社会ではかならずと言って言いほど、人の命も、人格も粗末に扱われています。男女間のトラブルでどれだけの殺人事件が行われているでしょうか。自由なセックスの結果、多くの人工妊娠中絶が行われています。相手をセックスの対象としか考えないのは、人格という目にみえないものを無視したものです。アメリカがレイプで世界一というのは、恥かしい話です。そして性的な堕落は「女は、その自然の関係を不自然なものに代え、男もまた同じ様に女との自然の関係を捨てて、互いにその情欲の炎を燃やし、男は男に対して恥ずべきことをなし、そしてその乱行の当然の報いを、身に受けたのである」(ローマ1:26-27 )と言われているように同性愛に行き着くのです。イエス様は、今から二千年前のユダヤの社会を「悪い、姦淫の時代」(マタイ12:39 16:4新改訳)と呼ばれましたが、今のアメリカ社会をどう表現されるでしょうか。

 セックスの「自由」がどんなに主張されようと、同性愛の「権利」が社会的に認められようと、私たちは神のことばに従います。「神のみこころは、あなたがたが清くなることである。すなわち、不品行を慎み、各自、気をつけて自分のからだを清く尊く保ち、神を知らない異邦人のように情欲をほしいままにせず、また、このようなことで兄弟を踏みつけたり、だましたりしてはならない。」(?テサロニケ4:3-8 )結婚の制度は、人間が便宜上つくり出したものでなく、神がお定めになったものです。「わたしはあなたの神」と言ってくださった神に私たちは「あなたは私の神」とお答えしました。私たちの神との関係、キリストとの関係は、結婚の関係になぞらえられいます。現実の結婚関係に不忠実でありながらどうして主に忠実であることができるでしょうか。神の私たちに対するみこころとキリストの愛を思い、この罪から離れましょう。



 あなたは盗んではならない。―出エジプト20:15

 「殺してはならない」との戒めは「命」を尊重するように、「姦淫してはならない」という戒めは「性」を尊重するように教えています。では、「盗んではならない」とは、何を尊重するように教えた戒めでしょうか。それは、互いの「所有」を尊重することを教えているのです。もちろん、すべてのものの本来の所有者は神ですが、神は、私たちひとりびとりに、労働の報いとして、また、神の恵みとして、多くのものを与えてくださいました。私たちは、神が各自に与えてくださったものを互いに尊重しあうように教えておられるのです。「ボクのものはボクのもの、キミのものもボクのもの」などと言うことはできないのです。

 クリスチャンが、わざわざ万引きをするようなことはないでしょうが、人から借りたものをいつの間にか自分の物にしてしまうとか、会社の便せんや封筒を使って個人の手紙を書くとかして、結果的には盗みをしてしまうことがあるのです。現代は「知的財産」と言われるものの権利も認められている時代です。楽譜や音楽テープ、コンピューターのソフトウエア、本などを、制限以上にコピーして使うのも盗みになります。公私混同や、人の物をすぐに拝借してしまうようなライフスタイルは、訓練により、神の恵みにより、正していかなければなりません。

プライバシィも、神が各自に与えられた大切なものです。各家庭には、それぞれの家族の行き方があり、各個人には、神様とだけの交わりの時があるのです。「親切」が行き過ぎて「おせっかい」になってしまっていないか、自分がしようとしていることが、「してあげたいから」なのか相手が「してもらいたい」からなのか、自分の満足のためか、相手の満足のためかを吟味しなければなりません。イエス様が「何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ」(マタイ7:12)と言われたのは、自分ならこうしてほしいから相手もそう望んでいるだろうと、勝手に思いこむことでなく、相手が何をしてほしいのか聞いてあげ、その必要に答えてあげようとすることなのです。私たちのキリストにある愛が「深い知識」と「するどい感覚」を備えるように祈ってやみません。



 あなたは隣人について、偽証してはならない。―出エジプト20:16

 「偽証してはならない」とは、法廷での証言のことだけを言っているのでしょうか。いいえ、レビ記19:11 には「あなたがたは盗んではならない。欺いてはならない。互いに偽ってはならない。わたしの名により偽り誓って、あなたがたの神の名を汚してはならない。わたしは主である」と書かれています。新約聖書にも「あなたがたは偽りを捨てて、おのおの隣人に対して、真実を語りなさい」(エペソ4:25)と教えられています。普段の生活で、ビジネスで、どの人に対しても正直であることが求められているのです。

 私たちの中で、誰ひとりウソをつかなった者はないでしょう。私たちは子供に「ウソをついてはいけない」と教えるのですが、それでも子供はウソをつきます。子供は私たちの教えることにではなく、私たちのしていることに習うのです。「そんなことをしていると神様の罰を受けて地獄にいくのよ」等と、神の名をしつけのためだけに使う時、子供は神について間違ったイメージを持ち、聖書のメッセージを正しく理解することができなくなるのです。「ウソも方便」と、このウソは相手のためなのだと弁解しても、ひとつのウソは次のウソを必要とし、ウソが大きくなり、夫婦や親子、兄弟姉妹の関係がおかしくなってしまうのです。

 私たちがウソをつくのは、たいていの場合、他の人に自分を良く見せようとするからです。人に自分を良く見せようとするのは、自分の中に神に愛され、認められ、受け入れられているという安心感がないからです。それで、人の評判によって自分の価値を高めようとするのです。あなたのアイデンティティーが神によって支えられていない時、真実に対して防衛的になり、事実を否定したり、他の人のせいにしたり、偽りや幻想の中に逃げ込んだりするのです。しかし、神の前に正直になる時、私たちは、お互いの間でも真実になることができます。

 神の前に正直になる第一歩は、みことばの真理を受け入れることです。礼拝で語られる神のことばに、日毎の祈りの時に開く聖書のことばに、まっすぐに向かっていくことです。聖書の真理を聞くだけで行おうとしないことは、自分を欺くことなのです(ヤコブ1:21−25)。



 あなたは隣人の家をむさぼってはならない。―出エジプト20:17

 十戒の最後の戒めは、今までの戒めと少し違っています。もちろん、第一戒から第九戒までも、単に、外側にあらわれた行いを禁じたり、勧めたりしているばかりでなく、その行いを生み出す心の態度をも戒めていました。しかし、どちらかといえば、具体的な行動が先に来ていました。これに対して、第十戒は直接的に、私たちの心の態度を問題にしています。あなたは「人殺しも、姦淫も、盗みもしていないから十戒を守っている」と言われますか。でも「父と母を敬え」や「偽証してはならない」についてはどうでしょうか。第一から第四の戒めについてはどうでしょうか。第十戒については、誰一人、貪欲やむさぼりはなかったと言える人はないでしょう。厳格に自分の宗教を守り、道徳的にも落ち度のなかったパウロでさえ、「もし律法が『むさぼるな』と言わなかったら、わたしはむさぼりなるものを知らなかったであろう」、つまり、神の戒めによって心が照らされた時、自分の心の中にあった罪が明らかになってきたと告白しています(ローマ7:7,8 )。

 私たちの心の中には貪欲、むさぼりというものがあって、それが、私たちを神から引き離し、互いに傷つけあう原因になるのです。「あなたがたの中の戦いや争いは、いったい、どこから起こるのか。それはほかではない。あなたがたの肢体の中で相戦う欲情からではないか。あなたがたは、むさぼるが得られない。そこで人殺しをする。熱望するが手に入れることができない。そこで争い戦う」(ヤコブ2:1,2 )。むさぼりは、他の人の持っている財産や名声をうらやむことから始まるでしょう。うらやむことから、ねたむこと、そして、競争心にかられた行動、虚栄、自慢、もめごと、争いへと拡大していくのです。貪欲から救われるためには、自分がどれほど神に愛され、多くの恵みをいただいているかを知ることが必要です。争いによってでなく、祈りによって必要を満たしていく新しい生活が必要です。そしてそれはキリストを信じ、キリストに従う生活です。