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  主の晩餐について


礼典とは―主の晩餐について(その1)

 私は、先に、この欄にバプテスマについて書きました。続いて主の晩餐について書かなければという思いがあったのですが、なかなか筆が進まず(実際は「筆」でなくコンピューターのキーボードですが)のびのびになっていました。バプテスマと主の晩餐は別々のものではなく、主イエス・キリストによって定められた「礼典」(サクラメント)の半分づつのものですから、一方だけに触れて他方を語らないというのは、片手落ちになります。そこで、これから、数回にわたって、主の晩餐について書くことにしました。

 最初に、これから使う用語について説明が必要でしょう。まず、「礼典」(サクラメント)ですが、これは「バプテスマ」と「主の晩餐」の総称です。このふたつは、直接主イエス・キリストによって定められたもので、他の儀式とは違って、特別な意味を持っています。

 「バプテスマ」は「洗礼」とも言います。バプテスマの方式によって「浸礼」や「滴礼」という言葉も使われます。「浸礼」は全身を水に浸すことによって行うバプテスマ、「滴礼」は水を注ぐことによって行うバプテスマです。また「幼児洗礼」、「成人洗礼」という言葉もあります。「幼児洗礼」は、生まれて間もない子供に授けるバプテスマのことです。旧約時代にイスラエルの子供たちが生まれて八日目に割礼を受けたように、新約時代の神の民、クリスチャンの子供も生まれた時からすでに神の民の契約の中に入れられているのだから、その契約のしるしとしてバプテスマを授けるべきだというのが、幼児洗礼をする人々の主張です。これに対して「成人洗礼」の立場に立つ人は、バプテスマは信仰告白のしるしであるから、まだ信仰告白のできない、生まれたばかりの子供にバプテスマをさずけるべきではないと主張します。もちろん「成人」といっても何歳以上と決まっているわけではなく、自覚的に信仰告白できる年齢ということで、ある人は6歳でもバプテスマを受けられると言い、ある人は、バプテスマの意味を理解し、教会のメンバーとしての責任を果たせる年齢(おおむね12歳以上)まで待つべきだと言います。では、幼児洗礼では信仰告白は無視されているのかというとそうではなく、幼児洗礼を受けた子供を信仰告白に導く努力が真剣になされ、信仰告白の時として「堅信礼」という儀式を持ちます。両者とも、バプテスマが「契約のしるし」「教会への入会」「信仰の告白」であるということについては一致しているのです。(つづく)



礼典の要素―主の晩餐について(その2)

 バプテスマと主の晩餐の二つの礼典が他の儀式から区別されるのは、「水」や「パン」、「ブドウ・ジュース」などの具体的な物質を用いることにあります。神学では、これを「要素」(エレメント)と呼びます。普段の礼拝では、神のことばが語られ、私たちも祈りや賛美を「くちびるの実」として神にささげます。つまり「ことば」が用いられるのですが、礼典では、ことばと共に目に見えるエレメントが用いられます。それで、説教が「語られる神のことば」、礼典が「見える神のことば」と言われるのです。

 ただし、礼典で用いられる要素がどんな役割をするのかについて、三つの意見があります。その第一は「化体説」です。キリストはパンを取り「これはわたしのからだである。」と言われました。だから主の晩餐で使うパンはキリストのからだになるのだというのです。ローマ・カトリック教会は長い間そのように教えてきました。主の晩餐で使うパンは「聖体」と言って、キリストのからだそのものになるのです。それで、ミサの前に聖体を拝みにいくというようなこともありました。

 これに対して、イエスが「これはわたしのからだである。」「これはわたしの血である。」と言われたのは、「わたしは羊の門である。」「わたしはぶどうの木である。」とおっしゃったのと同じで、パンやブドウ・ジュースはキリストのからだや血を「象徴」するものであって、キリストの体や血そのものにはなり得ないとの主張が生まれました。これを「象徴説」と言います。象徴説では、主の晩餐そのものよりも、主の晩餐によって覚えられるキリストご自身が大切なのです。パンやブドウ・ジュースは、私たちにキリストの恵みを覚えさせる手段、信仰を刺激する道具であるということになります。

 第三の「霊的臨在説」は、象徴説と同じように、パンそのものは、キリストのからだに変わるわけではないが、キリストの臨在がパンに伴うのだと教えます。神の恵みを受けるのに、人間の側の信仰が必要なのは言うまでもないことですが、信仰だけでなくエレメントも、目に見えない神の恵みを目に見える形で持ち運ぶ「恵みの手段」となるのです。「霊的臨在説」は化体説の行き過ぎをただし、象徴説が見失っているものを取り戻そうとした説です。

 こうした歴史的な諸説をふまえた上で、次回から聖書がなんと言っているかを検討することにしましょう。(つづく)



過越と主の晩餐―主の晩餐について(その3)

 パウロは、コリント人への第一の手紙11章で、主の晩餐についての指示を与える時、「わたしは、主から受けたことを、また、あなたがたに伝えたのである。」(23節)と言っています。同じコリント人への第一の手紙7:25で、パウロは「おとめのことについては、わたしは主の命令を受けてはいないが、主のあわれみにより信任を受けている者として、意見を述べよう。」と言っていることと比べてみてください。パウロは主ご自身の定めた事柄と、彼が使徒として、聖霊の導きの中で語ることとを区別しているのです。たとえ彼がキリストの使徒であっても、主の晩餐については、使徒としての意見をさしはさむことはできない。主の晩餐は、主ご自身が定められたことであって、人間の意見がさしはさまれてはならないと言うのです。パウロは、主が定めたとおりのことを、私たちに伝えようとしているのです。主の晩餐が、教会の歴史の中で人々の手によって形作られてきた儀式ではない、主ご自身の手によって定められたものであることを、心に留めていなければなりません。

 パウロは続けます。「すなわち、主イエスは、渡される夜、パンをとり、…」「渡される夜」とは、十字架の前の日のことです。福音書によれば、主の晩餐の後、イエスは弟子たちとともにオリブ山のゲツセマネの園に行き、そこで血の汗を流して祈られたのです。その祈りが終わった後、イエスは人々に捕らえられ、裁判を受け、十字架への道を歩まれるのです。

 ところで、この「夜」は過越の食事を食べる夜でした。イエスのなさった主の晩餐は同時に過越の食事でもあったのです。過越は、エジプトから救い出されたことを覚え続けるようにと、イスラエルのために定められたものです。しかし、過越の食事とクリスチャンのために定められた主の晩餐には、多くの点で共通点があります。

 その第一のことは、両方とも、「記念の食事」であるということです。過越の食事で子羊がほふられるのは、エジプト中の初子という初子が、王子からはじまって乞食の子にいたるまで殺されるというわざわいが、子羊の血が塗られた家を通り越したからです。ここから、過越という名が生まれたのです。イスラエルの初子は、子羊が身代わりとなったため、命が救われました。同じように、私たちも、子羊の血よりもはるかに尊い、神の子羊であるイエス・キリストの血潮によって救われました。いわば、クリスチャンは、イスラエルと同じように、出エジプトを経験しているのです。(つづく)



感謝と記念の食事―主の晩餐について(その4)

 主が「渡される夜」弟子たちと共に守られた食事は、過越の食事でした。これを俗に「最後の晩餐」と言いますが、確かに、この食事は主にとって最後の過越の食事でした。しかし、それは同時に、最初の主の晩餐でもあったのです。したがって過越の食事と、主の晩餐には、多くの共通点があり、その第一は、両者ともに記念の食事だということです。

 過越はイスラエルがエジプトの奴隷から解放された、いわば、建国の原点です。イスラエルがその建国の原点を、三千数百年たっても、過越の食事をすることによって記念し続けているように、クリスチャンも、主の晩餐を繰り返すことによって、私たちの救いの原点が、今から二千年前のイエス・キリストの十字架にあることを覚え続けるのです。時代が変わるにつれて、教会の時代に対するアプローチが変わってくるでしょう。迫害の時代には、この世に妥協しないことが求められ、教会が世界に広がっていった時代には、教会が社会に貢献すること、現代のように物質的に豊かな時代には、人々に確かなものを与え、心の支えになることが教会に求められます。しかし、伝道のアプローチはどうあれ、私たちがこころに刻みつけなければならないのは、私たちの罪のためにイエス・キリストが十字架で死んでくださったという、この一事です。私たちの救いの原点に立ち返り、イエスの十字架の死をあかしし、伝えていく、それが主の晩餐のもっとも大切な意義です。

 第二の共通点は、両者ともに「感謝の食事」だということです。過越の食事では、メインディッシュである子羊を食べる前に、まず、パンを食べます。その時、過越の食事を導く家長は、パンを手にとり、それを両手で高くかかげて、神に感謝するのです。イエスも、この夜、「パンをとり、感謝してこれをさき」(23,24節)過越の食事を開始されました。イスラエルはエジプトの奴隷から救われたことを感謝しました。私たちは、イエス・キリストの死によって、罪から解放されたことを感謝します。主の晩餐で私たちは主の死を覚えます。神の御子が命懸けで私を愛してくださったことを覚えるのに、いいかげんな気持ちではいられません。しかし、だからといって主の晩餐は暗い思いであずかるものではありません。救い主への感謝にあふれて守るものでなければなりません。実際、初代教会はそれを「感謝の食事」と呼んで、イエスの救いを神に感謝しました。私たちも、心からの感謝をもって主の晩餐を守りましょう。(つづく)



待望の食事―主の晩餐について(その5)

 過越の食事と主の晩餐との共通点は、第一に「記念の食事」、第二に「感謝の食事」でした。第三に、両者ともに、待望の食事、将来の救いを待ち望む食事です。ユダヤ人は、過越の食事で、単に過去の救いを記念するだけでなく、全世界に散らされたユダヤ人が再び、集められ、神の都エルサレムで民族の回復を喜び祝うことを待ち望んだのです。ですから、外国で過越を祭るユダヤ人は、「来年はエルサレムで。」と言って、将来に希望を託したのです。

 同じように、私たちも、主の晩餐を守るたびに、キリストが再びおいでになって、私たちの救いを完成させてくださる時を待ち望んみます。その時、私たちも天にある神の都に集められ、神の国の祝宴にあずかるのです。過越の食事では、先に言いましたように、最初にパン、それから子羊の料理、そして、最後にぶどう酒を飲みます。しかも、こうしたお祭りの時には赤ワインを飲むのです。それで、イエスも、食事ののち、弟子たちに杯を渡されて、「この杯は、わたしの血による新しい契約である。」と言われました。赤ワインは主が十字架で流される血潮を表わすのです。そればかりでなく、杯を渡された後、イエスは、「あなたがたによく言っておく。神の国で新しく飲むその日までは、わたしは決して二度と、ぶどうの実から造ったものを飲むことをしない。」(マルコ14:25)とも言われました。これは、私たちが天で、主と共に神の国の祝宴にあずかることを意味しているのです。私たちは、今、イエス・キリストを信じて、喜びに満たされています。しかし、なお、私たちは、罪があり、悪があり、裏切りがあり、涙があり、病いがあり、死があるこの世に生きています。私たちは、罪の責めから救われ、罪の力から救われていますが、罪の存在そのものからは、まだ救われていません。イエスは、「死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない」神の国を約束していらっしゃいます。私たちは、主の晩餐を守るたびに、キリストが再びおいでになる日に、日一日と近づくのです。

 食事の時、主は「わたしを記念するため、このように行いなさい。」「わたしの記念として、このように行いなさい。」と言われました。ここで「記念する」とは、主イエスを過去の人物として懐かしむということではありません。今、私たちと共に生きておられるお方、やがてこられるお方として覚え、待ち望むということなのです。(つづく)



神の家族の食事―主の晩餐について(その6)

 主の晩餐は、単に過去を記念するばかりでなく、キリストの再臨を待ち望む「待望の食事」でもあります。?コリント11:26には「だから、あなたがたは、このパンを食し、この杯を飲むごとに、それによって、主がこられる時に至るまで、主の死を告げ知らせるのである。」と書かれています。私たちは、主の晩餐を守るたびに、「主がこられる」ことを信じ、告白し、それを主の死とともに「告げ知らせる」のです。主は、もう一度、世に来られます。イエスは「渡される夜」弟子たちに主の晩餐を残していかれましたが、もう一度おいでになるその日には、私たちが今、地上でシンボルとして守っている主の晩餐が、天で本物の「子羊の婚宴」になるのです。私たちが主の晩餐に集まってくる姿は、世の終わりに、私たちが地の四方から集められて、再臨のキリストのもとに集められる様子を先取りしたものです。

 第四に、過越も、主の晩餐も、家族の食事でした。過越の時には、一家族につき一頭の子羊がほふられ、調理されます。イエスと十二弟子は、あたかもひとつの家族であるかのようにして、共に過越の食事をいただいています。古代では、一緒に食事をするというのは、大変意義深いことでした。それは、互いに受け入れあっている親密な関係を意味します。仲たがいしていた者たちが互いに赦しあう時には、一緒に食事をして、和解しあったのです。?コリント10:17に「パンが一つであるから、わたしたちは多くいても、一つのからだなのである。みんなの者が一つのパンを共にいただくからである。」とあります。私たちも、主の晩餐を共にいただく時、私たちお互いが、キリストの十字架を心に刻みつけている者たち、キリストの救いを心から感謝している者たち、また、やがてキリストが来られることを心待ちにしている者たちてあることを、確認し合うのです。そして、ここに、神の民がいる、神の家族があることを喜び合うのです。

 主の晩餐の前には、罪が告白され、赦され、きよめられていなければなりません。とりわけ、兄弟姉妹のお互いのわだかまりや、不一致が改められていなければなりません。主の晩餐は、キリストとの交わりと共に、神の家族の交わり、神の家族である教会の一致をも表わすものだからです。主の晩餐はで言い表わしているものの実体は、実際はどうでしょうか。表現と実体はひとつでなければなりません。(つづく)



主の晩餐と教会の一致―主の晩餐について(その7)

 私たちは、使徒パウロが、主の晩餐についてどのように教えたかを、?コリント11章から学んできました。それは、神の家族の食事であって、一致を持って守るべきものでした。

 実は、パウロが?コリント11章で主の晩餐について指示を与えなければならなかったのは、コリント教会に、主にある一致をそこなうものがあり、その結果、主の晩餐が正しく守られていなかったからです。コリント教会には「分派」がありました(11:17-19)。これに関して、パウロは10:17で「パンが一つであるから、わたしたちは多くいても、一つのからだなのである。みんなの者が一つのパンを共にいただくからである。」と教えています。主の晩餐でいただくパンは、キリストのからだを表わしますが、キリストのからだといえば、それは教会のことでもあるのです。「私はパウロに」「私はアポロに」「私はペテロに」と党派をつくって互いに争っていて、どうして主の晩餐を守ることができるでしょうか。「そこで、あなたがたが一緒に集まるとき、主の晩餐を守ることができないでいる。」(11:20)とありますが、ここで「一緒に集まる」というのは、物理的に同じ時間に同じ場所にいるというだけのことではないでしょう。クリスチャンが「一緒に集まる」という時には、同じ心、同じ思いで集まることを意味するのです。主の晩餐はまさに、そのような時でなければなりません。

 コリント教会には、もうひとつ、主の晩餐の前に持たれていた食事に問題がありました。初代教会は、よく食事を共にしましたが、それはソーシャルのためではありません。信仰のゆえに貧しくなり、食に事欠く人々と、食べ物を分けあい彼らを励ますためのものです。それは、もっと信仰的、福祉的なものでした。ところが、コリントでは、金持ちが自分のご馳走を持ってきて、我先にと食べるばかりで、貧しい人がそれを指をくわえて見ているだけだったのです(11:21-22)。当時、教会の食事は「アガペー」(愛)と呼ばれていましたが、コリント教会のそれは愛の精神を全く失ったものでした。パウロは「食事の際、各自が自分の晩餐をかってに先に食べる」と批判しています。「自分の晩餐」とは、「主の晩餐」と対照させた言葉です。私たちは、神のこと、教会のこと、他の兄弟姉妹のことに全く無関心だけで、自分の祝福だけを求めてくるような態度で、主の晩餐に臨んでいないでしょうか。「主の晩餐」と「自分の晩餐」ととは相容れないものなのです。(つづく)



主の晩餐と自己吟味―主の晩餐について(その8)

 主の晩餐は、主の恵みのしるし、恵みの手段です。主の晩餐は、主イエスがご自分の命さえも捨てて私たちを愛してくださったこと、罪のうちに死んでいた私たちが私たちが、主の死によって、義に生かされ、永遠の命をいただいていることを、表わしています。私たちが信仰によって、主の恵みを思い見るだけでなく、主もまた、パンとブドウ・ジュースという目に見えるものをもって、その恵みの確かさを保証してくださるのです。

 主の晩餐は、また、主の訓練の手段でもあります。ちょうどバプテスマを受ける者が、神への悔い改め、イエス・キリストへの信仰、また、教会に対するコミットメントを求められるように、主の晩餐に臨むたびに、私たちには「自分を吟味する」ことが求められるのです。聖書は「だれでもまず自分を吟味し、それからパンを食べ杯を飲むべきである。」(?コリント11:28)と教えています。「吟味する」とは、まず、「主のからだをわきまえる」(11:29)ことです。主の晩餐の意味を知り、その意味するところを信じていることです。主の晩餐は魔法の食べ物ではありません。それを食べれば自動的に祝福にあずかるのではありません。それどころか、知識も信仰もなくパンを食べ、杯から飲む者は「その飲み食いによって自分にさばきを招く」(11:29)のです。「吟味する」とは次に「自分をわきまえる」(11:31)ことです。罪を悔い改めているだろうか、兄弟姉妹の関係は修復されているだろうか、失望、落胆から立ち上がり、主を見上げているだろうか。私たちは、主の晩餐の度に、主からの信仰のチェックをいただくのです。

 主の晩餐においては、自分で自分を吟味することと共に、教会によって吟味されることとがあります。教会は、ある教会員が教会の交わりを損なうような重大な罪を犯している場合、その人に罪の悔い改めを促すため、また、教会の純潔を守るため、その人を主の晩餐にあずからせないことがあります。これを「陪餐停止」と言います。もちろん、それまでには、その人のために祈り、教え、導く努力がなされるのですが…。この処分が教会に許されているということは、主の晩餐というのは、私たちが権利としてそれにあずかることができるものではなく、主からいただいた特権であること、その特権の管理は教会に委ねられていることを意味しています。教会もまた、主から委ねられたバプテスマと主の晩餐の二つの礼典を正しく教会員に与えているかどうか、みずからを吟味しなければならないのです。(つづく)



未受洗者の陪餐―主の晩餐について(その9)

 主の晩餐について、歴史上さまざまな議論がありましたが、バプテスマを受けた者が主の晩餐にあずかるということについては、何の問題もありませんでした。ところが、アメリカに来て「バプテスマを受けていなくても、キリストを信じているなら、主の晩餐にあずかっても良い。」ということを聞いて、私は、とても戸惑いをおぼえました。バプテスマを受けたものが、主の晩餐にあずかる、それは、カトリックでもプロテスタントでも自明のことでした。教会の歴史のごく初期の様子を伝えてくれる歴史資料のひとつに『十二使徒の教訓』(ディダケー)という著作があります。そこには「主の名をもって洗礼をさずけられた人たち以外は、誰もあなたがたの聖餐から食べたり飲んだりしてはならない。」と記されています。

 先に、主の晩餐と過越の食事の類似点について書きました。過越の食事は無割礼の者には与えられませんでした。出エジプト11:48に次のように書かれています。「寄留の外国人があなたのもとにとどまっていて、主に過越の祭を守ろうとするときは、その男子はみな割礼を受けてのち、近づいてこれを守ることができる。そうすれば彼は国に生れた者のようになるであろう。しかし、無割礼の者はだれもこれを食べてはならない。」割礼とバプテスマ、過越と主の晩餐との類比を認めるなら、主の晩餐にあずかることができるのも、バプテスマを受けた者に限られるべきでしょう。

 バプテスマは、クリスチャンがキリストと一体とされたことを表わします。それはイニシエーション(開始)の礼典です。主の晩餐の方は、キリストとの交わり(継続)を表わす礼典です。スタート(バプテスマ)がスキップされて、いきなり継続(主の晩餐)に入るというのは、全く論理的ではありません。たとえが適切でないかもしれませんが、バプテスマはキリストとキリストの花嫁であるクリスチャンとの結婚式のようなもの、主の晩餐は結婚記念日のようなものです。結婚式をしないで結婚記念日を祝うというのは(今日では良くあることになってしまいましたが)、普通はありません。もし、そうなら、バプテスマの意義はなくなってしまいます。バプテスマは、キリストへの信仰をおおやけにすること、教会のメンバーになることを意味します。キリストへの信仰告白や教会へのコミットメントをいいかげんにしておいて、主の晩餐だけにあずかる人が群れをなす教会は、決して主の喜ばれる教会ではありません。(つづく)



主の晩餐と信仰の訓練―主の晩餐について(その10)

 まだバプテスマを受けていない人にも主の晩餐にあずからせる教会では、バプテスマが人を救うのでなく、キリストを信じる信仰が人を救うのだから、バプテスマを条件にしてはいけないと言い、それに、バプテスマを受けていても本当の信仰を持っていない人もいるではないかと反論するでしょう。確かに、バプテスマを受けたものの、名ばかりのクリスチャンも多くいます。しかし、少なくてもバプテスマを受ける時には、聖書が教えられ、信仰が確かめられます。バプテスマによって信仰をおおやけにすることによって、私たちは、自分の信仰が主観的ばかりでなく、客観的にも確認されるのです。しかし、主の晩餐にあずかる人が、「自分はキリストを信じている。」と思っても、その信仰が本物かどうかは、どうやって確かめるのでしょうか。客観的な信仰の確認なしに、なぜ、キリストとの交わりをエレメントを用いて客観的に表わす主の晩餐にあずからせるのでしょうか。

 たいていの教会は主の晩餐を年に四回〜六回、多くても月一回の割合で行っています。バプテスマの準備には、教会によっても期間は違いますが、二、三ヶ月、長くても半年でしょう。バプテスマの準備中、スキップする主の晩餐は二、三回です。まだバプテスマを受けていない方に主の晩餐を控えていただいたとしても、実際的な問題はあまりありません。本当に「キリストを信じている」という人は、進んでバプテスマを受けるでしょう。主の晩餐にあずかるのにふさわしいとされる人なら、バプテスマを受けるのにもふさわしいとされるべきでしょう。バプテスマをスキップしていきなり主の晩餐にジャンプ・インさせる理由は何もありません。むしろ、教会はバプテスマの意義を教え、人々をバプテスマに導き、それから主の晩餐にあずからせるべきです。

 教会は人々を聖書的な信仰に導き、訓練するところです。「自分がクリスチャンだと思う者は、主の晩餐にあずかりなさい。」と、個人にすべてを任せてしまうことは、教会として、いかにも無責任に思えます。宗教改革者ルターは、十戒、使徒信条、主の祈りを勉強していない人は主の晩餐にあずかるべきではないと言い、『小教理問答』を作って、人々の信仰を健全なものにしようとしました。なにごとも、個人の選択に、主観に任せていいのでしょうか。信仰とはそんなものなのでしょうか。そのような教会は、人々の信仰を健全なものにするという使命を自ら放棄していることになりはしないでしょうか。(つづく)



オープン・コミュニオン―主の晩餐について(その11)

 主の晩餐を、その教会の教会員(つまり、バプテスマを受けた者)だけで行うことを「クローズド・コミュニオン」と呼び、いずれの教会の教会員(すなわち、バプテスマを受けた者)をも加えて行うことを「オープン・コミュニオン」と呼びます。どちらも、本来はバプテスマを受けた者たちが主の晩餐にあずかったものです。ところが、最近は「オープン」という言葉が拡大解釈されて、バプテスマを受けていなくても、キリストを信じる者なら誰でも主の晩餐にあずかって良いと言われるようになりました。バプテスマを受けた者が主の晩餐にあずかるべきだというようにすると、礼拝に来ている求道者を躓かせる。だから、バプテスマを受けている人だけに主の晩餐を限定すべきではない。」というのが、その主張です。礼拝で求道者を区別してはいけないと言うのです。

 しかし、主の晩餐の時には、パプテスマの有無を問わない教会であっても、「キリストを信じている人はバンと杯にあずかってください。まだキリストを信じていない人は、それらをお取りにならないでください。」とは言うでしょう。そう言うことによって、キリストを信じている者と、まだ信じていない者とを区別することになってはいませんか。教会員だけて主の晩餐を守るか、礼拝に集うすべての人にパンと杯を与えるのでない限り、どんなにしても「区別」は避けられません。

 確かに、未信者に無用な躓きを与えてはなりません。私たちは、求道者を大切にする「シーカー・フレンドリー」な教会でありたいと思います。しかし、そのことによって福音を水増したり、割り引いたりしたくはありません。神のことば、福音はそれ自体、世界を二分するものです。?コリント1:18にあるように「十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力」なのです。福音は、人類を信じる者と信じない者、滅び行く者と救にあずかる者に二分するのです。主の晩餐でパンと杯にあずかる私たちは、信じる者として、まだ信じていない人々に、「主の死を告げ知らせる」のです。主の晩餐における区別は必要な区別です。神はこの区別、コントラストの中で福音を示してくださるのです。

 現代は、何もかも「灰色」のあいまいな時代です。しかし、私たちは、その中で、真理の光を輝かせましょう。その時教会は、真理に来る人たちの集いとなり、神に喜ばれるものとなるのです。(つづく)



こどもと主の晩餐―主の晩餐について(その12)

 主の晩餐が「自分はキリストを信じている」と思う人すべてに与えられるのであれば、それは、まだ主の晩餐の意味を良くわきまえることができない、小さいこどもにも与えられねばならなくなります。小さいこどもが「ぼくはイエスさまを信じているから、パンもブドウ・ジュースも飲んでもいいんでしょう?」と言われた時、それを拒むことはできません。そして、こどもは、他の子が主の晩餐のエレメントにあずかっているのを見たら、やはり、自分も欲しいと言い出すに違いありません。また、親もこどもに与えないのは「かわいそうだ。」と言い出すでしょう。これは考えすぎでしょうか。それとも、どこかの教会で実際に行われていることでしょうか。

 小さいこどもが主の晩餐にあずかることについて、疑問を呈したからと言って、それは、決してこどもの信仰を小さく見ているわけではありません。こどもも、大人に劣らない、明確な信仰を持つことができます。いいえ、主は、ある面では、おとなはこどもにならうべきだとさえおっしゃいました。「この幼な子のように自分を低くする者が、天国でいちばん偉いのである。」(マタイ18:4)また、マタイ19:14では、「幼な子らをそのままにしておきなさい。わたしのところに来るのをとめてはならない。天国はこのような者の国である」とおっしゃって、こどもたちをご自分のもとに招いておられます。ある人はこの聖句を引いて、主は、小さいこどもをも主の晩餐に招いておられると論じますが、果たしてそうでしょうか。

 聖書は「兄弟たちよ。物の考えかたでは、子供となってはいけない。悪事については幼な子となるのはよいが、考えかたでは、おとなとなりなさい。」(?コリ14: 20)「こうして、わたしたちはもはや子供ではないので、だまし惑わす策略により、人々の悪巧みによって起る様々な教の風に吹きまわされたり、もてあそばれたりすることがなく…」(エペソ4:14)とも言っています。幼児洗礼を行う教会では、こどもが一定の年齢に達して、自分の口でキリストへの信仰を告白できるようになり「堅信礼」を受けてから主の晩餐にあずかるのが許されます。なぜなら、主の晩餐で主の恵みにあずかるのは、パンやブドウ・ジュースが胃袋に入るからではなく、そこに表わされた主のあがない深く思い見、「主のからだをわきまえて」、パンと杯にあずかるからです。こどもたちを、この信仰のわきまえに導くのが親と教会の努めなのです。(つづく)



主の晩餐にふさわしい人―主の晩餐について(その13)

 真実なクリスチャンは「ふさわしくないままでパンを食し主の杯を飲む者は、主のからだと血とを犯すのである。」(?コリント11:27)との言葉が主の晩餐の時に読まれる時、「自分は主の晩餐にふさわしくない者ではないだろうか。」と真剣に悩むのです。主の晩餐にふさわしい者とはどんな人なのでしょうか。「どういう人が、主の晩餐に来るのでしょうか。」この問いに『ハイデルベルグ信仰問答』は、次のように答えています。「みずから、自己の罪の故に自己を嫌いながらも、なおも、この罪のゆるされ、他の弱さも、キリストの苦難と死とをもって、覆われることを信じ、また、ますます、信仰を強められ、その生活を、改めたい、と切望している者たちであります。しかし、悔い改めざる者や偽善者は、その飲み食いによって、裁きを招くのであります。」(問81の答え)聖書の教えるところを、みごとに、美しく言い表わした文章です。

 主の晩餐は、私たちが感謝にあふれている時にだけ巡ってくるわけではありません。ちょうど試練の真っ只中にいる時に、あるいは、大きな失敗を犯して、自分の罪深さをいやというほど思い知らされいる時に、主の晩餐が巡ってくることもあるのです。そんな時、こんな私がパンを取っていいのだろうか、杯を飲んでいいのだろうと思うことがあります。いっそのこと、主の晩餐のある礼拝を休んでしまいたいとさえ思ってしまうかもしれません。そんな時、主の晩餐は、私たちの発明品ではなく、主の定めであることを覚えるのです。それは、私たちの側の気分で、それにあずかりたいからあずかる、気が進まないから控えるというように扱ってはならないものなのです。主ご自身が「これはあなたがたのための、わたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい。」と命じてくださっている、その命令に、従うのです。信仰とは、主と主の言葉への従順です。自分の落ち込んだ気持ち、悲しみ、恨みや混乱さえも乗り越えて、「取って食べよ。」との主のお言葉に従う時、そこからふたたび信仰が芽生えてくるのです。

 主がその晩餐に招いておられるのは、自分こそ主の晩餐にふさわしいと心ひそかに考えている「完璧なクリスチャン」ではなく、自分が主のテーブルに本当はふさわしくない者であるのに、主の恵みによって招かれている、そう信じ、悔い改めをもって、主に近づく信仰者なのです。(つづく)



主の晩餐の教会における位置―主の晩餐について(その14)

 私はアメリカに来て始めて、バプテスマを受けていない人でも主の晩餐にあずかっても良いということを実際に見て驚きましたが、もう一つ驚いたのは、結婚式で主の晩餐を用いるのを見た時でした。結婚式で新郎新婦だけが主の晩餐をいただくのを見て、主の晩餐をこのような場面で用いるべきだろうかと疑問を感じました。しかも、レセプションのケーキ・カットでやるように、新郎新婦がお互いにバンとブドウ・ジュースを食べさせ、飲ませあうようなシーンを見て、聖なるものが犯されているようにさえ思いました。たしかに、新郎新婦がその結婚の中に「主を覚える」ことは意義深いことです。主の晩餐によって、イエス・キリストの十字架による救いを「告げ知らせて」いるのだとも言えるでしょう。それに、使徒パウロは「パンがひとつであるから、わたしたちは多くいても、一つのからだなのである。」とあるように、主の晩餐がキリストにある一致を教えているのだから、夫婦の一致を示すために、結婚式で主の晩餐をするのだと言うのかもしれません。しかし、主の晩餐は、主の教会の中で、会衆が共にあずかってこそ意味があります。新郎新婦だけがバンとブドウ・ジュースをいただくというのは、聖書的とは思えません。先に引用した聖句は「みんなの者が一つのパンを共にいただくからである。」と続きます。このような主の晩餐の用い方は、主の晩餐を礼典としてではなく、単なる儀式として、一致のシンボルとしているにすぎません。現代は、何事も神学的な意味を問うよりも、「便宜」を優先させ、「効果」を狙う時代です。主の晩餐が、その意味が深く考察されて行われることがなくなったのは、何事も安易な方へと流されていく、この時代の風潮のせいかもしれません。心あるクリスチャンは、時代の波に流されることなく、主の晩餐を正しい位置に置かなければなりません。

 宗教改革の時代、教会についてこう定義されました。「教会とは、神の言葉が正しく語られ、聖礼典が正しく執り行われているところである。」もし、現代の教会が主の晩餐を正しく執り行っていないとしたら、それは、単に、礼典の問題だけではない、教会が教会として正しいあり方をしているかどうかという問題にまで発展します。礼典の問題は、教会にとって小さな問題、軽い問題、周辺の問題ではなく、教会の大きな、重要な、中心的な問題なのです。私たちはそのことに気づいているでしょうか。(おわり)