主の山に登る者─詩篇第二四篇

 この詩篇は、ダビデが契約の箱をエルサレムに迎えた時(サムエル第二6章)の賛美と思われます。この詩篇では最初に神の創造のわざが歌われます。「地とそれに満ちているもの、世界とその名かに住むものは主のものである。まことに主は、海に地の基を据え、また、もろもろの川の上に、それを築き上げられた。」(1-2節)ダビデは、契約の箱を重んじましたが、それを偶像視しませんでした。神は全世界を創造された主であり、全地に満ちておられるお方だとはっきりと言っています。契約の箱は、神の臨在のしるしなのです。

 次の3-6節では、この主を迎える、主の民の姿が描かれています。これは、15篇で「だれが、あなたの幕屋に宿るのでしょうか。だれが、あなたの聖なる山に住むのでしょうか。」とあったのに似ています。ここでは、「だれが、主の山に登りえようか。だれが、その聖なる所に立ちえようか。」と言われています。ダビデは、彼自身とイスラエルの民が栄光の主をエルサレムに迎えるにふさわしいかどうか問うているのです。地上には神のきよさを完全に反映している人はありませんが、ダビデとイスラエルの民は、神の恵みによって、契約の箱と共に、エルサレムに入城することを許されました。主の栄光と共に歩むことを許される、それこそが、契約の箱が象徴している、神と神の民との「契約」なのです。

 7〜9節は、契約の箱がエルサレムに運び込まれた時のクライマックスを歌っています。「門よ。おまえたちのかしらを上げよ。永遠の戸よ。上がれ。栄光の王がはいって来られる。栄光の王とは、だれか。」という言葉が二度繰りかえされています。答えは、契約の箱がその臨在をさししめしている「万軍の主」です。聖書に、ダビデは、契約の箱を迎える時、王の衣服を脱ぎ捨て、亜麻布のエポデをまとって、「力の限り踊った」(サムエル第二6:14)とあります。ダビデはエルサレムの王座にすわるべきお方は「主」であって、彼はそのしもべに過ぎないと、告白し、力いっぱい主をほめたたえたのです。私たちも、私たちの心に、生活に、人生に、主を、主として迎えたいものです。