三つの声─詩篇十九篇

 詩篇19篇には三つの声があります。第一の声は、「自然界からの声」です。「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。」(1節)とあるように、自然界は、私たちに創造者の存在を語りかけています。「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた被造物によってよって知られ、はっきりと認められる」(ローマ1:20)とある通りです。私たちが大自然の景観に息を飲み、庭に咲く花の美しさにみとれたりするように、広大な宇宙や、「マクロの宇宙」と言われる生物のからだや、原子のなりたちを研究している学者たちの多くも、自然を探究すればするほど、そのみごとさに驚き、そこに神からの声を聞いてきました。

 第二の声は「聖書の声」です。自然界からの声は、それを聞こうとしない人にとっては、無視して通れるものです。また、自然界の声は、神の偉大さを教えることはできても、私たちの人生のさまざまな問題に答えることはできません。そこで神は、第二の声として、ご自分のことばを文字に書き表すことができるものとして、私たちにお与えになりました。それが聖書です。聖書は「主のみおしえ」「主のあかし」「主の戒め」「主の仰せ」「主への恐れ」「主のさばき」と呼ばれています(7-9節)。聖書は「完全」「確実」で「正しく」、「きよい」もので「不変」「真実」です。聖書は純金よりも価値があり、蜂蜜より甘く、私たちは聖書によって「たましいを生き返らせ」「賢くなり」「心を喜ばせ」「目を明るくする」ことができるのです。聖書によって私たちは「戒めを受け」、大きな「報いを受ける」のです。

 第三の声は「人間の声」です。自然界の声、聖書の声を歌いあげたダビデは、ここで、彼の声、言葉、また、それが声となり言葉となって表現される、彼の心の思いをふりかえっています。反省しています。力強い自然界の声、「完全」「確実」で「正しく」、「きよい」もので「不変」「真実」な神のことばに比べて、人間の考えること、話すことはなんと、不完全、不確実で、偽りや欺きなどがあることでしょうか。ダビデは自分の罪やあやまちを正直に認め、神にゆるしを願い、その罪からきよめられて、神に喜ばれるものになれるようにと祈っています。自然界の声によって聖書のことばに導かれ、聖書のことばによって、自らの語る言葉をかえりみることへとさらに導かれいきましょう。