聖なる山に登る人─詩篇十五篇

 詩篇15篇で言われている「聖なる山」は、モーセが十戒を授かったシナイ山を指し、「幕屋」はシナイの荒野に張られた、あの幕屋を指すものと思われます。あの時、シナイの山は煙り、幕屋には神の栄光が満ちました。詩篇15篇は、そのような聖なる場所に近づき、聖なる神とまみえることを許された神の民の日常の歩みについて語っています。

 ここに掲げられているひとつひとつのことは、誰にも分かる平易なものです。まずは、自分自身に対して「偽りのない人」であることがあげられています(2節)。次に友と隣人に対して誠実をつくすこと(3節)、悪を憎むこと(4節)、不正な利益を求めないこと(5節)です。聖なる山で、神の幕屋で神をあがめ、礼拝する者は、その山から降りても、礼拝者にふさわしく、神の民にふさわしい歩みをすべきことが、ここから教えられます。そして、そのような正しい歩みを積み重ねて再び、聖なる山に登り、神の幕屋に入るのです。このことは、今日のクリスチャンにとってもまったく同じで、クリスチャンにとって、主の日の礼拝は、七日に一度づつ置かれた飛び石のようなものではなく、主の日と主の日の間の六日間は、主の日と主の日をむすぶ大切な日々で、礼拝で得たものを実践し、次の礼拝に携えていくべき信仰を耕やす日々なのです。私たちの幕屋である教会を、礼拝を終えて出ていく時に、再び、礼拝のため教会に集う時に、この詩篇はじっくりと味わうべきものです。

 それにしても、わたしたちクリスチャンが、旧約の神の民イスラエルにまさって受けている特権は、私たちの登る聖なる山が、シナイ山ではなく、カルバリの丘だということです。聖なる神の栄光がすべてを威圧していたあのシナイの山と違って、カルバリの丘には、キリストの十字架によって勝ち取られたゆるしがあります。この詩篇の言葉を読む時、神の民の本来の姿とかけはなれた自分のいたらない姿を見たとしても、私たちは、キリストのゆるしのゆえに、神に近づき、神からの新しい力を、恵みを受けることができるのです。