愚かな者と悟りのある者─詩篇十四篇

 注意して読んでください。詩篇14:1は「愚か者は、『神はいない。』と言っている。」ではなく、「愚か者は<心の中で>、『神はいない。』と言っている。」と述べています。イスラエルの中で「神はいない」と公言するなら、国家から、社会から抹殺されてしまいます。ですから、こういう人たちは口では「神は偉大なるかな!」と唱え、宗教儀式を守っているのでしょうが、心の中では「神なんかいるものか。」と思っているのです。この人たちは、思ったことをそのまま口に出すような「愚か者」ではなく、自分を偽り、他の人をだますことができるほど「賢い人」なのですが、神は、神を否定する人を「愚か者」と呼びます。いったい、神が存在されなくてどうしてこの「私」が存在できるというのでしょうか。神を否定するひとは、物事の一番根本の原理すら理解していない「愚か者」なのです。

 しかし、神を尋ね求める者は「悟りのある者」と呼ばれます。神を否定する人は神について何も知りませんが、神を信じる者とて、神についてすべてを知っているわけではありません。世界のほとんどすべてのことは「神が存在される」ということによって説明することができますが、「神が存在されるなら、なぜこのようなことが起こるのか。」という問のすべてに答えることはできません。今は、神のみこころのすべてがあきらかにされているわけではなく、たとえ、すべてがあきらかにされても、有限な私たちは無限な神のすべてを知りつくすことはできないのです。それは、太平洋の水をバケツで汲み出そうとするようなものです。

 神を信じる者たちも、神を、神のみこころを尋ね求めます。それは生涯をかけた探究ですが、だからといって、神を信じる者は、この世で、神を否定する人々の無知を嘆き続け、神のみこころを探究して、いつもストレスでいっぱいになっているわけではありません。神を信じる者はいつも哲学者のように考えこんでいなければならないのでなく、人の考えにあまる事柄を、神の愛の手に任せることができるのです。神のみこころを追及することによってだけではなく、神のみこころに任せ、やすらうことによっても、神を深く知ることができるのです。「主が彼らの避け所である。」(6節)主を避け所とする人もまた「悟りのある人」なのです。