主よ いつまでですか−詩篇十三篇

 「主よ。いつまでですか。」これは、いつの時代も、神に頼る者たちが祈ってきた言葉です。私たちは祈る時、自分にとって都合の良いことだけを祈りません。私たちには、試練や患難が必要なことを知っています。しかし、それがあまりにも長く続くと、「主よ。いつまでですか。」と言いたくなってしまいます。私たちは祈る時、祈ったことがすぐに聞き届けられるべきだとは思いません。神の時があり、祈りの答を手にするには忍耐が必要なことを知っています。しかし、いつまで待っても祈りの答がない時、「主よ。いつまでですか。」と言いたくなります。自分のことではがまんできても、悪人がのさばり、正しい人々が傷つけられていくのを見る時、黙っていられなくなって、「主よ。いつまでですか。」と訴えたくなるのです。

 「主よ。いつまでですか。」この訴えは、おそらく世の終わりまで続くでしょう。ヨハネの黙示録に殉教者たちのたましいが「聖なる、真実な主よ。いつまでさばきを行わず、地に住む者に私たちの血の復讐をなさらないのですか。」(黙示6:10)と叫んでいる様子が描かれています。主はこの叫びに対して、神は「あなたがたと同じしもべ、また兄弟たちで、あなたがたと同じように殺されるはずの人々の数が満ちるまで、もうしばらくの間、休んでいなさい。」と言われました。正しい者は、世の終わりまで苦しみ続けることが定められています。悪が栄えて、その頂点に達する時まで、私たちは「主よ。いつまでですか。」と訴え続けなければならないでしょう。

 神がこのようにさばきの時を遅らせておられるのは、神が正義に対して熱心でないとか、私たちに対して無関心であるとかということではありません。それは使徒ぺテロが言うように、主は「ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられる」(ぺテロ第二3:9)からです。私たちは、この神のあわれみ、忍耐によって救われました。神は、神のあわれみと忍耐によって救われた者たちが神の忍耐にあずかるようにと望んでおられます。神は、私たちに、最後の審判と救いの日まで、「主よ。いつまでですか。」と問いつづけることを求めておられるのかもしれません。