貧しい者の望み─詩篇第九篇

 聖書で言う「貧しい者」とは、経済的に貧しいというだけでなく、苦しみに会い、よるべのない人のことを言います。そのような人は、神以外に頼るものがないので、神の前にへりくだって歩みます。イエスはそのような人を「心の貧しい人」と呼びました。イエスが「心の貧しい人はさいわいです。」と言われたように、神は「貧しい者の叫びをお忘れにならない」(12節)ので、自分の弱さや、限界をわきまえて神に信頼する者は、決して神から見放されることはないのです。

 「貧しい者は決して忘れられない」(18節)というステートメントは大胆なステートメントです。私たちが目に見るところでは、貧しい者たちは、世から忘れられていくからです。お金や権力のある人は、自分の名前のついた建物や施設、団体や会社を残し、その名前は何世代にわたって覚えられます。特別な才能、能力のある人も、その名前がいつまでも覚えられるでしょう。ごく一般の人々の名前は、長くは覚えられず、ましてやホームレスの人々の名前を知る人はいないでしょう。彼らは、ホームレスであるばかりが、ネームレスなのです。世は忘れても、しかし、神は、貧しい者たちを忘れることはありません。

 ルカの福音書16章に、病気で、金持ちの食卓のおこぼれで生きるしかなかった貧しい人が出てきます。彼には、家族も、親族も、友人もなかったようで、犬が来ては彼のからだのできものをなめるだけでした。彼は死にました。その遺体は、おそらくは、当時の習慣にしたがって、谷間に投げ捨てられたことでしょう。彼の名を知る者もなく、彼のことを思い出す人もいませんでした。しかし、彼にはラザロという名があり、彼は御使いによって「アブラハムのふところ」に携えあげられたとイエスは言っておられます。貧しい者、そして、その貧しさのゆえに神に頼る者は、この世で認められず、人に忘れられたとしても、神には覚えられているのです。

 神が、貧しい者を決してお忘れにならず、覚えていてくださる。―これこそが、「悩む者の望み」(18節)です。この世では、金銭も、権力も、能力もない人には希望がないと思われています。コネやツテを無くし、健康を損ない、社会的信用を無くしてしまったら、もう絶望しか残っていないと言われます。しかし、神を信じる者には、希望はなくならないのです。悩み、苦しむ者のよりどころは「希望」しかありません。神はどんな場合でも、貧しい者、悩む者、神により頼む者をお忘れにりません。だから、どんな場合でも、私たちは希望に生きることができるのです。