神の怒りといつくしみ─詩篇第六篇

 試練は信仰を強くします。けれども、試練は自分から求めるものではありません。ある人が、「私の信仰を強めるために、神様、私に試練を与えてください。」と祈ったとたんに、次から次へと試練がおしよせてきて、今度は、「神様、よく分かりました。イエス様が教えてくださったように、『試みに会わせないでください』と祈るべきでした。」と祈ったという話を聞いたことがあります。神は、愛とあわれみに満ちたお方ですから、試練の中でも私たちをささえ、「のがれる道」(汽灰螢鵐10:13)も備えていてくださるのですが、やはり、私たちは、自分の弱さを知って、「試みに会わせないで、悪よりお救いください」と祈るべきでしょう。

 詩篇六篇でもダビデは、試練の中で、神に救いを求めています。ダビデは、自分の身に起こった苦難を神の自分に対する怒りであると理解しています。ダビデの良心に咎めを感じるものが何かあったのでしょう。神を恐れるダビデは、神の怒りが、決してあなどれないものであることを知っていました。神は、あわれみ深いお方ですが、決して甘いお方ではなく、きよく、正しいお方であって、人間の罪、社会の悪を徹底して嫌われるお方であることをダビデは知っていたのです。だからこそ、ダビデは真剣になって「主よ、あなたの怒りをもって、わたしを責めず、あなたの激しい怒りをもって、わたしを懲らしめないでください。」と神に訴えたのです。神を甘く見ていたら、こんな真剣な祈りは生まれなかったでしょう。

 罪に対して怒り、それを裁くのは神ですが、罪人をあわれみ、それを赦すのも神です。ダビデは、「主よ、かえりみて、わたしの命をお救いください。あなたのいつくしみにより、わたしをお助けください。」と、神にしがみつきます。この時のダビデは、悪いことをして父親からお仕置きを受けている子どものようです。親と子の間に本当の愛情があれば、子どもは、父親の権威を恐れながらも、なお、父親の愛情を確信して、「お父さん、ごめんなさい。ぼくをゆるして!」と叫び、父親のふところに飛び込んで行くことでしょう。ダビデも同じように、神のいつくしみを信じていました。ですから、自分を懲らしめる神の手から逃げ出すことなく、むしろ、その手の中に救いを求めていきます。神を恐れる者、神の怒りを、神の厳しさを知る者だけが、本当の意味で、神のいつくしみとあわれみとを深く知ることができるのです。