怒ることがあっても─詩篇第四篇

 サムエル・バトラーという人が、クリスチャンをからかって、"How holy people look when they are sea-sick!" (船酔いになったら皆敬虔そうに見える)と言いましたが、敬虔な人とは青白い顔をした人というのは大きな誤解です。クリスチャンはキリストの命に生かされ、元気で溌剌としています。また、敬虔な人というのは、できるだけ感情を持たないものだとも思われていますが、そうでしょうか。感情は、人間にとってなくてならないものです。それは、造り主である神が、神のかたちとして人間に与えてくださったものです。神ご自身が感情豊かなお方であり、人となられた神、イエス・キリストも「喜怒哀楽」を表わされました。クリスチャンは聖霊の喜びに満たされると共に、怒るべきものに対しては怒ります。キリストも、不真実に対して、不信仰に対して、不義に対して怒られたからです。クリスチャンは希望のない悲しみに沈むことはありませんが、愛する人を失った悲しみを感じ、他の人の苦しみに共感して共に泣き、自分の罪に悲みます。そして創造主が与えてくださった良きものを心から楽みます。

 敬虔さ、きよさというのは、人間の感情を殺して無感情になることではありません。むしろ、神に近づくにつれて、私たちの感情は豊かなものになっていくのです。きよめとは、私たちが神に造られた本来の姿をとりもどしていくことであり、それは、「人間的」(肉的)なものを取り除きはしますが、決して「人間らしさ」を損なうものではありません。

 ですから、「クリスチャンは怒るべきではない。」ということはできません。「怒り」は私たちにとって自然な感情、神に造られた感情の一部だからです。それは、神の真理を守るため、他の人のコントロールから自分を守るために必要なものでさえあります。しかし、怒りをどう表現するか、それをどう処理するかについて注意深くなければなりません。それを間違えると、他の人を傷つけ、自分を傷つけ、神に対して罪を犯してしまします。詩篇4:4は「あなたがたは、怒っても罪を犯してはならない。床の上で静かに自分の心に語りなさい。」と教えています。夜休む前に、神の前に今日一日の自分の怒りを持ち出して、それを点検し、捨てるべきものは捨て、委ねるべきものは委ねなさいと教えています。この節はエペソ4:26にも引用され、「怒ることがあっても罪を犯してはならない。憤ったままで、日が暮れるようであってはならない。」とあります。いずれにしても翌日まで怒りを持ち越さない、これが怒りの正しい処理方法です。