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問うこと、答えること
— やさしい信仰問答 —

はじめに

 ニコデモは「人は老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか。」と問い、主イエスから「まことに、まことに、あなたに告げます。人は水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。」との答えを得ました(ヨハネ3:4-5)。サマリヤの女性は主イエスとの問答の中で「わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」(ヨハネ4:14)「神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」(ヨハネ4:24)との真理のことばを聞いています。

 ペンテコステの日に使徒ペテロの説教を聞いた人々は「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか。」と問い、「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。」との答えを得ました(使徒2:37-38)。ピリピの牢番は使徒パウロとシラスに「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか。」と問い、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」(使徒16:30-31)との答えを得ています。

 人々は問うことによって答えを得、求めることによって救いを受けました。聖書は「だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。」(マタイ7:8)「あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。」(ヤコブ1:5)と約束しています。神は私たちの「問い」に愛をもって答えてくださるお方です。

 教会は古代から「教理問答」や「信仰問答」によって人々に救いの真理を教えてきました。今日でも、Frequent Asked Questions(FAQ)あるいは「良く尋ねられる質問集」によって、ものごとが分かり易く説明されているように、「問答形式」は人々の理解を助けてきました。しかし、「教理問答」や「信仰問答」が「問答形式」をとっているのは、たんに、理解を助けるだけでなく、人々に「問う」心を、「問う」態度を教えるためでもあるのです。謙虚に、また、熱心に問う者が答えを得るのです。

 私たちは神に「問う」ことによって答えを得ますが、同時に神もまた私たちに問いかけておられます。主イエスは弟子たちに「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」と問い、使徒ペテロは「あなたは、生ける神の御子キリストです。」と答えました(マタイ16:15-16)。主イエスは正しく答えた使徒ペテロに「あなたはペテロ(岩)です。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。」(マタイ16:18)と言われました。教会はじつに、神の問いに聞き、それに答える者の上に立つのです。

 ここにしるした信仰の問答が、FAQ集として救いの真理について基本的な情報を与えるだけでなく、問うことと答えることの大切さを教え、主イエス・キリストの教会が建て上げられていくために用いられるなら、これにまさる幸いはありません。

神の存在

問1 神は存在するのですか。

 神は存在されます。しかも、神は、存在するもののひとつではなく、存在そのもの、存在の源です。この世界と人間は神によって存在させられているに過ぎず、それは神の御手のわざです。神が手を引かれるとすべてのものは無に帰してしまいます。神はご自分を「わたしは『わたしはある。』という者である。」(出エジプト3:13)と呼ばれました。神は、ご自分で存在しておられる「有って有る」お方ですが、人間は「有って無き」がごとき者なのです。

問2 どうしたら神の存在を知ることができるのですか。

 神がおられることは、論理的にさまざまな方法で証明できますが、神の存在を確信するのにいちばんよい方法は「神さま、あなたがおられることを示してください。」と神に祈ることです。人格である神を知るのは、理性だけでできるものではありません。私たちも、人格的に神に近づくことによって、はじめて神を知ることができるのです。神は、創造と聖書を通してご自分を人間に示しておられますが、なによりも、イエス・キリストによって最も完全にご自分を表わしておられます。イエス・キリストを通して神を知る者は、たんに神が「存在」されるだけでなく、どんな困難なときも、神が自分のために「臨在」しておられることを確信することができるようになるのです。

神を信じるとは

問3 神を信じるとはどうすることですか。

 神を信じるとは、神を愛することです。神は人間を真実に愛しておられるので、人間にも真実な愛を求められるのです。

 キリストは「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」(マタイ22:37)というのが、いちばん大切な戒めであると教えました。キリストは弟子ペテロに「わたしを愛しますか。」と尋ねています。使徒パウロは「いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。」(コリント第一13:13)と言い、「主を愛さない者はだれでも、のろわれよ。」(コリント第一16:22)とさえ言っています。

 聖書のように「神は愛です。」(ヨハネ第一4:8)と教えるものは他にはないので、多くの人が神と人との関係が「愛」の関係であることを理解できないでいます。「さわらぬ神にたたりなし。」ということわざのように、日本の神々は「恐れ」の対象ではあっても、「愛」の対象ではありませんでした。神を信じるためには、神の愛を正しく知る必要があります。神は、ご自分を私たちの「父」(マタイ7:11)として、イエス・キリストは私たちの「友」(ヨハネ15:13-14)として示され、「父と子」、「友と友」の間に必要な「愛」について教えておられます。

 ですから、神との関係は、戒律を守り、儀式を行い、善行をしていさえすれば、それで保つことができるものではないことがわかります。きよい神の前にへりくだって罪を悔い改めること、神の愛を信じて神に立ち返ることによって、私たちは神との関係に入ることができます。神と人との関係は、真実な愛によってのみ結ばれます。神に愛され、神を愛すること、それが神を信じるということです。

罪とその結果

問4 なぜ人は神を愛さないのですか。

 人に罪があるからです。神は罪を憎み、罪は神を憎むので、神は罪を愛することがなく、人は神を愛することがないのです。

問5 罪とは何ですか。

 罪とは、神の定めを犯すことです。人は、神の定めを、無視したり、不注意に扱ったり、怠慢であったり、故意にそれに逆らったりして罪を犯します。

 神の定めからはみ出してしまうことばかりでなく、神の定めた基準に達しないことも罪です。たとえば、フリーウェーで、制限速度を超えて車を運転すれば違反になりますが、あまりにも遅いスピードでノロノロ運転をしても違反になるのと同じです。聖書は「なすべき正しいことを知っていながら行なわないなら、それはその人の罪です。」(ヤコブ4:17)と教えています。人は、間違ったことをして罪を犯すだけでなく、正しいことをしないことによっても罪を犯します。聖書は「すべての人は、罪を犯したので、神の栄光に達しない。」(ローマ3:23別訳)と言っています。人は、積極的にだけでなく、消極的にも罪を犯し、神が定めた基準に達することができないでいるのです。

問6 罪はどんな結果をもたらしますか。

 罪は死をもたらします。それは、霊的な死であり、肉体の死であり、また永遠の死です。

 アダムとエバは罪を犯した時、霊的な死を体験し、神を恐れて身を隠しました。やがて、彼らの子、アベルの死によって肉体の死を見ることになりました。神が、罪を犯したアダムに「あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。」(創世記3:19)と言われたとおりです。聖書は、また、罪を悔い改めない者に対して永遠の死があることを告げています(黙示録20:14-15)。

十字架による救い

問7 罪と死から救われる道はあるのですか。

 あります。それはイエス・キリストです。キリストは「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」(ヨハネ14:6)と言われました。

問8 キリストはどのように救いの道を開いてくださったのですか。

 私たちの罪の身代わりとなって十字架で苦しみを受け、死ぬことによってです。キリストの苦しみと死は、たんなる模範でも殉教でもありません。私たちが受けなければならない罪の刑罰を私たちに代わって受けてくださったものです。「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」(コリント第二5:21)

問9 キリストの十字架はどんな結果をもたらしますか。

 キリストの身代わりの死は、神の前に私たちの罪を覆い、私たちを正しい者にしてくれます。「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」(ローマ4:25)

 キリストの十字架は、私たちの贖(あがな)いのためです。私たちは、キリストが支払われた代価によって、罪と死の奴隷から買い戻されます。「ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない子羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」(ペテロ第一1:18-19)

 キリストの犠牲によって、神の怒りはなだめられ、神との和解が成り立ちました。それによって、私たちは、神を愛し、喜ぶことができるようになるのです。「神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。」(ローマ3:25)「もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。」(ローマ5:10-11)

キリストの復活

問10 今から二千年前のキリストの十字架がどうして、現代に生きる私を救うことができるのですか。

 キリストは、死から三日目に復活され、今も生きておられるので、いつの時代の、どの人をも救うことがおできになるのです。「しかし、キリストは永遠に存在されるのであって、終わることのない祭司の務めを持っておられます。したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。」(ヘブル7:24-25)

問11 死んだようになっていた人が息を吹き返したということと復活とはどう違うのですか。聖書には、キリストによって生き返らせてもらった人たちのことが書いてありますが、それと復活とはどう違うのですか。

 死んだようになっていた人が息を吹き返すのは、たんなる「蘇生」です。復活は蘇生とは違い、キリストは、ほんとうに死なれ、そして、復活されたのです。キリストによって生き返らせてもらった人たちは死ぬ以前の姿に戻っただけで、また死にました。しかし、キリストは、死に勝利し、死ぬことのない栄光のからだに復活されました。ですから、キリストは、復活の後、閉じられた部屋に自由に出入りしたり、瞬間的にさまざまな場所に現れたり、雲に乗って天に帰ることができたのです。キリストは復活によって永遠の神の御子であることを示されたのです。「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。」(へブル13:8)

問12 キリストを信じる者も、同じように復活するのでしょうか。

 そうです。天に帰られたキリストは再び地上においでになります。その時、キリストにある者たちは、キリストと同じように復活のからだを与えられ、キリストとともにいるようになります。「聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。」(コリント第一15:51-53)

キリストの再臨

問13 キリストがふたたび来られるとは、復活して弟子たちに現れたことではないのですか。

 そうではありません。キリストが天にのぼられた後、もういちどそこから降りてこられます。キリストの昇天を目の当りにした弟子たちに、天使は「あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」(使徒1:11)と告げています。

問14 キリストの昇天から十日して弟子たちに聖霊がくだりましたが、聖霊の降臨がキリストの再臨なのですか。

 いいえ。聖霊は、キリストに代わる「もうひとりの助け主」で、私たちにキリストをさししめしてくださいますが、聖霊はキリストご自身ではありません。「キリストの再臨」とは、キリストご自身が、もういちどこの世に来られることです。その時、私たちは、栄光のうちにおいでになるキリストと同じ姿に変えられます。聖書はそれを「からだの贖い」と呼び「そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。」(ローマ8:23)と言っています。聖霊の降臨がキリストの再臨ではありません。聖霊が、私たちにキリストの再臨を待ち望ませているからです。

問15 キリストはいつ来られるのですか。

 それは誰にも知らされていません。しかし、キリストがふたたび世に来られる時の前兆は知らされています。キリストの再臨を否定し、心に留めていない人々には、キリストの再臨は、ノアの洪水のように、あるいは盗人がやって来る時のように、突然のこととしてやってきますが(テサロニケ第一5:1~3)、キリストの再臨を真剣に待ち望んでいる人には、心待ちにしていたことの成就の日として、迎えることができるのです。「しかし、兄弟たち。あなたがたは暗やみの中にはいないのですから、その日が、盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもだからです。私たちは、夜や暗やみの者ではありません。ですから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして、慎み深くしていましょう。」(テサロニケ第一5:4~6)と勧められている通りです。

信仰の奥義

問16 私たちの信仰は、キリストがなさったことと深くかかわっているのですか。

 そうです。私たちを救う「良い知らせ」とは、キリストにかかわること、キリストのなさったことに他なりません。聖書は「この福音は、神がその預言者たちを通して、聖書において前から約束されたもので、御子に関することです。」(ローマ1:2-3)と言っています。ですから、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネが書いた新約の最初の四つの書物は、「キリストの伝記」や「キリストの教え」とは呼ばれず、「福音」と呼ばれるのです。

問17 その中でも、中心的なことが、キリストの十字架、復活、そして、再臨なのですか。

 その通りです。これは「信仰の奥義」と言われ、

“Christ has died, Christ is risen, Christ will come again.”
(キリストは死なれ、よみがえられ、ふたたび来られる。)
という賛美は「信仰の奥義」を言い表しています。

問18 使徒たちは、この「信仰の奥義」を伝え、人々はそれを信じたのですか。

 そうです。使徒パウロは「兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。…私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。…キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。」(コリント第一15:1-5)と言っています。

 初代のクリスチャンがキリストの復活と再臨の信仰に生きていたことは、次のように描写されています。「また、あなたがたがどのように偶像から神に立ち返って、生けるまことの神に仕えるようになり、また、神が死者の中からよみがえらせなさった御子、すなわち、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスが天から来られるのを待ち望むようになったか、それらのことは他の人々が言い広めているのです。」(テサロニケ第一1:9-10)

 この「信仰の奥義」を伝えることが「伝道」であり、それを堅く保つことが「信仰」なのです。

真理の柱

問19 「信仰の奥義」はどのようにして私たちに伝えられたのですか。

 教会によってです。神は、「信仰の奥義」が変わりなく伝えられるために教会を建ててくださいました。教会は迫害に耐えて聖書を守り、異端(間違った教え)と戦い、人々を教えることによって「信仰の奥義」を守ってきました。教会のこの役割りについて、聖書には「神の家とは生ける神の教会のことであり、その教会は、真理の柱また土台です。」(テモテ第一3:15)と書かれています。

問20 教会で信仰を教えるのは誰ですか。

 神は信仰を教える教師として「使徒、預言者、伝道者、牧師」を教会にお与えになりました。聖書が「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。」(エペソ4:11)と教えているように、これらの人々はキリストご自身によって立てられた人たちです。ですから、聖書に「みことばを教えられる人は、教える人とすべての良いものを分け合いなさい。」(ガラテヤ6:6)とあるように、「教えられる人」は「教える人」を、その務めのゆえに尊敬しなければなりません。

問21 サンデースクールの教師やスモールグループ・リーダも教会で信仰を教えるのではありませんか。

 聖書は「教える人であれば教えなさい。」(ローマ12:7)と言って、牧師以外の人々がその信仰の量りに応じて、与えられた賜物に従って、他の人を教えることを勧めています。しかし、そうした人々を整え、導くのも牧師の務めであって(エペソ4:12)、それなしには教会は正しい教えを保つことはできません。

母なる教会

問22 では、教会が私たちの信仰を育てるのですか。

 そうです。教会は、まるで母親のように霊の糧を与え、守り、導き、信仰者を育てます。ですから、教会はしばしば「母なる教会」と呼ばれます。それで古代から「教会を母とするのでなければ、神を父とすることはできない。」と言われてきました。

問23 すると、クリスチャンにとって教会に属することは無くてならないことなのですか。

 そうです。「クリスチャン」という言葉には、「キリストに属する者」という意味があります。教会は「キリストのからだ」ですから、教会に属することなくキリストに属することはありえないからです。それで、古代から「信じることは属することである。」と言われてきました。

問24 どのようにして教会に属するのですか。

 主イエス・キリストへの信仰を言い表し、バプテスマ(洗礼)を受けることによってです。バプテスマ(洗礼)を受けた者は礼拝を守り、聖餐にあずかることによって教会に属し続けます。

問25 教会はどのようにして、そこに属する者の信仰を育てるのですか。

 教会はみことばと聖礼典、そして祈りによって信仰者を育てます。神は、これらのものによって私たちに恵みを伝えてくださるので、これらは「恵みの手段」と呼ばれています。

 聖書は「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。」(ぺテロ第一2:2)「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」(ヨハネ6:35)「彼はいつも、あなたがたが完全な人となり、また神のすべてのみこころを十分に確信して立つことができるよう、あなたがたのために祈りに励んでいます。」(コロサイ4:12)と教えています。

みことばに生きる

問26 みことばによって養われるために、私たちはどんなことができますか。

 第一にみことばを聞くこと、第二にみことばを読むこと、第三にみことばを学ぶこと、第四にみことばを覚えること、第五にみことばを実行することです。

問27 「みことばを聞く」とはどうすることですか。

 礼拝で聖書の朗読を聞き、その解き明かしである説教を聞くことです。

問28 より良く説教を聞くにはどうしたら良いでしょうか。

 礼拝の聖書箇所とその前後を、あらかじめ良く読んでおくと説教を理解するのに助けとなります。また、「主よ。お話しください。しもべは聞いております。」(サムエル第一3:9)と祈りながら礼拝を待ち望みましょう。コルネリオは、ぺテロに「いま私たちは、主があなたにお命じになったすべてのことを伺おうとして、みな神の御前に出ております。」(使徒10:33)と言いました。みことばに対して「聴く」姿勢が必要です。

問29 「みことばを読む」とはどうすることですか。

 聖書を、毎日、順序正しく読むことです。聖書は気ままに読むべきものではありません。また、それは文学や教訓としてではなく、キリストを指し示し、証言するもの(ヨハネ5:39)として読まれるべきです。ピリポがエチオピアの役人に聖書を解き明かしたとき、「口を開き、この聖句から始めて、イエスのことを彼に宣べ伝えた」(使徒8:35)とあるとおりです。

問30 「みことばを学ぶ」とはどうすることですか。

 個人で、グループで聖書を研究することです。多くの場合、聖書が聖書を解釈します。難しい聖書があった場合、それに関連している箇所を参照することによって、

えを見つけることができます。いつでも、聖書全体の文脈の中で聖書を学ぶのです。不明な部分があったらそのままにしておかないで、かならず牧師に質問して指導を得るようにしましょう。

問31 「みことばを覚える」とはどうすることですか。

 聖書の大切な節をその箇所とともに暗記することです。暗記することによって、みことばを黙想し(詩篇1:2)、それを心にたくわえることができます(コロサイ3:16)。

 いったん暗記しても忘れることがありますが、いちど覚えたものなら、聖霊が必要なみことばを思い起こさせてくださいますし、箇所を覚えていれば、聖書を開いて確かめることができます。一度も覚えたことのないみことばは思い出すことも、聖書で確かめることもできません。

 みことばを暗記するとき、ただ機械的に覚えるだけでなく、その箇所の意味を理解しておくことが大切です。

問32 「みことばを実行する」とはどうすることですか。

 みことばが教えていることを、神の助けにより実行することです。賛美すること、感謝すること、悔い改めること、祈ること、また、なすべきことがあれば、それを実行に移すことによって、私たちはみことばの力を体験することができます。

 聖書は「また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。」(ヤコブ1:22)と教えています。

聖礼典

問33 聖礼典とは何ですか。

 主イエス・キリストご自身によって定められ、命じられた、恵みの手段で、そこでは水やパン、またブドウ酒など目に見えるものが用いられます。主イエスは「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父と子と聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。」(マタイ28:19-20)と命じてバプテスマ(洗礼)を定め、「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行ないなさい。…この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行ないなさい。」(コリント第一11:24-25)と命じて、聖餐を定められました。

問34 バプテスマ(洗礼)は何を表わしていますか。

 罪の赦し(使徒2:38、22:16)、聖霊による生まれ変わり(ヨハネ3:5、テトス3:5)、キリストとの結合(ローマ6:3-5)などを表わしています。バプテスマを受ける者は、それによって自分の罪を悔い改め、キリストへの信仰を告白し、神と教会への忠誠を誓います。神はバプテスマを受ける者に、罪の赦しと、神の子どもとしての身分を宣言してくださいます。

問35 バプテスマ(洗礼)は、なぜ「父と子と聖霊の御名によって」授けられるのですか。

 父、御子、御霊の働きによって、私たちは救われるからです。バプテスマ(洗礼)によって、父なる神が私たちを子としてくださり、御子が罪の赦しを与え、聖霊が私たちを新しく生まれ変わらせてくださるからです。また、私たちはバプテスマ(洗礼)によって、おひとりの神が父であり、子であり、聖霊であることを信じ、「三位一体」の神への信仰を言い表すのです。

問36 聖餐は何のために行われるのですか。

 聖餐は、神の子羊であるキリストが、罪の贖いのための犠牲となって十字架で死なれたことを記念し、感謝し、キリストの再臨を待ち望んで、その日までキリストを宣べ伝えるために行われます(コリント第一11:26)。キリストは、聖餐にあずかる者に、ご自分のいのちと、臨在を分け与えてくださいます(ヨハネ6:35)。

問37 なぜ、これらは「聖」礼典と呼ばれるのですか。

 バプテスマで用いられる「水」、聖餐で使われる「パン」と「ブドウ酒」はそれぞれ人の手によって作られ、用意された日常的なものですが、神はそれらをみことばと祈りによって聖別し、神の救いのわざを伝えるものとして用いてくださるからです。神は、みことばとともに、聖礼典によっても主イエス・キリストの救いのみわざを私たちに告げ知らせておられるので、聖礼典は「見えるみことば」と呼ばれます。

問38 どのようにして聖餐にあずかれば良いのですか。

 聖餐は「聖」なるものですから、自分の信仰と生活を吟味し、悔い改めと謙虚さ、そして飢え渇きをもって、主の食卓に近づくべきです。

祈り

問39 祈りとは何ですか。

 祈りとは、神を思い、神に語りかけ、神に聴くことです。私たちは祈りによって神を賛美し、神に感謝し、神の前で悔い改め、願い、人々のためにとりなします。

問40 祈りは、かならず口に出さなければならないのですか。

 かならずしも口に出さなくても、心の中で祈ることができますが、心のさまざまな思いによって祈りが妨げられないために口に出して祈ることは良いことです。口に出して祈らなければ他の人といっしょに祈ることはできません。口に出して祈れないときは、祈りを文字で書くことができます。祈りを歌うとそれは賛美になります。しかし、口に出して祈る祈りがすべてではなく、黙想や観想によって心の祈り、霊の祈りをすることは、祈りを深めるのに良いことです。

問41 祈りのとき注意しなければならないことは何ですか。

 主イエスが教えておられるように、「偽善者の祈り」(人に見せようとする祈り)、「異邦人の祈り」(まことの神を知らないで祈ること)を避けることです(マタイ6:5-8)。主イエスは神の愛を信じて熱心に祈ること(マタイ7:7-11)、目を覚まして祈っていること(マタイ26:41)、失望せずに祈ること(ルカ18:1)を教えられました。使徒パウロは「すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。」(エペソ6:18)、「絶えず祈りなさい。」(テサロニケ第一5:17)と教えています。

問42 なぜ祈りのときに「キリストの名によって」と付け加えるのですか。

 それは、キリストが、私たちの祈りを父なる神の右の座でとりなしていてくださるからです(ローマ8:34、ヘブル4:14-16)。祈りはキリストを通して父なる神に届き、祈りの答えもまたキリストを通して私たちに届きます。キリストご自身が「またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。」(ヨハネ14:13-14)「あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。…その日には、あなたがたはわたしの名によって求めるのです。」(ヨハネ16:23-26)と言っておられます。

問43 キリストの名を呼ぶことも祈りとなるのですか。

 主の名には私たちを救う力がありますから(使徒4:12)、主の名をまごころを込めて呼ぶことは、それ自体が祈りとなります。聖書は「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」(ローマ10:13)と教え、古代のクリスチャンは

“Lord Jesus Christ, Son of God, have mercy on me.”
(主イエス・キリスト、神の御子、私を哀れんでください。)
との祈り(Jesus Prayer)を繰り返し祈りました。この祈りはもっと短く"Jesus"(「イエスさま」) とだけ祈ることもできます。

問44 聖書に「聖霊によって祈りなさい。」(エペソ6:18)とありますが、「聖霊によって祈る」とはどういうことですか。

 聖霊は、キリストを信じる者を神のこどもとして生まれ変わらせ、神のこどもたちに神のこどもとしての確信を与え、神を「父よ。」と呼ばせてくださいます(ローマ8:15-16)。また、私たちがどう祈ったらよいかわからないときも、私たちに代ってとりなしをしてくださいます(ローマ8:26)。自分の力に頼ることなく、聖霊の力と導きを求め、聖霊に助けられて祈ることが「聖霊によって祈る」ことです。

問45 「聖霊により、キリストの名によって、父なる神に祈る」ことによって、私たちは「三位一体」の神を覚えるのですか。

 そうです。私たちの信仰生活はすべて「三位一体」の神によって支えられており、父、御子、御霊を覚えるためにあります。したがって、祝福の祈りも「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。」(コリント第二13:13)と祈られます。神が「三位一体」であることは「奥義」であり、知性だけで理解できることではありません。しかし、私たちは祈りの中で「三位一体」の神との交わりを持つことができるのです。

問46 祈りの最後に「アーメン」と唱えるのはなぜですか。

 「アーメン」とは「真実です。そのとおりです。」という意味です。私たちはこう唱えることによって、まごころから、真実を込めて神に祈るのです。また、人間の真実は完全なものではありませんので、「アーメン」と唱えることによって、神が、ご自身の真実によって、私たちの祈りを聞いてくださるようにと願うのです。

主の祈り、使徒信条、十戒

問47 祈りのお手本はありますか。

 あります。聖書には信仰者の祈りが数多くしるされており、詩篇は全体が祈りです。また、イエス・キリストご自身が、こう祈るようにと教えてくださった祈り(主の祈り)があります。この祈りを暗記し、その意味を学び、くりかえし祈ることによって、私たちは、よりよく祈ることができるようになります。

天におられるわたしたちの父よ、
み名が聖とされますように。
み国が来ますように。
みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。
わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。
わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。
わたしたちを誘惑におちいらせず、
悪からお救いください。

問48 主の祈りの他に何を暗記して学べば良いでしょうか。

 使徒信条は、私たちの信仰の基本となるものです。くりかえし学び、そこで告白されている内容を良く理解する必要があります。

天地の創造主、全能の父である神を信じます。
父のひとり子、わたしたちの主イエス・キリストを信じます。
主は聖霊によってやどり、おとめマリアから生まれ、
ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、
十字架につけられて死に、葬られ、陰府(よみ)に下り、
三日目に死者のうちから復活し、
天に昇って、全能の父である神の右の座に着き、
生者(せいしゃ)と死者を裁くために来られます。
聖霊を信じ、聖なる普遍の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、
からだの復活、永遠のいのちを信じます。
アーメン。

問49 使徒信条はどのように学べば良いのですか。

 使徒信条はバプテスマ(洗礼)のときの信仰告白としてつくられたものです。ですから「私は信じる」ということばで始まっています。自分自身の信仰の告白とすることが大切です。

問50 生活の基準となるものは何ですか。

 それは十戒です。十戒も暗記し、良く学び、実践しましょう。

序 文 わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。
第一戒 あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
第二戒 あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。
第三戒 あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。
第四戒 安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。
第五戒 あなたの父と母を敬え。
第六戒 殺してはならない。
第七戒 姦淫してはならない。
第八戒 盗んではならない。
第九戒 あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。
第十戒 あなたの隣人の家を欲しがってはならない。

問51 十戒はどのように学べば良いのですか。

 十戒には「しなさい」という戒めと「してはいけない」という戒めの二種類がありますが、どちらも、私たちに何をなすべきで、何をなすべきでないかを教えています。人は何もしなければ罪を犯さないのではなく、なすべき義務を果たさない「怠り」の罪もあることを忘れてはいけません。また、十戒は、形をとってあらわれたものばかりでなく、内面の罪についても戒めています。十戒は主イエスと使徒たちの教えの光によって学ぶ必要があります。

問52 信仰の問答はこれで終わるのですか。

 この問答はこれで終わります。しかし、真理を求める者は、たえず神に問い続けなければなりません。そして神から答えをいただくのです。神もまた、私たちに真理をもって問いかけてこられます。私たちはそれにまごころから答える責任があります。信仰の問答は、神と信じる者の間で、これからも続けられていきます。信じる者は神に問うことによって真理を知り、神に答えることによって真理を自分のものにするのです。