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  バプテスマについて

バプテスマについて教会のニュースレターに連載したものを紹介させていただきます。ご参考になればさいわいです。



なぜバプテスマを受けるのですか?

 誰しも、自分がバプテスマを受けた日を覚えています。それは素晴らしい体験でした。他の人がバプテスマを受けるのを見る時、自分のバプテスマの時を思い出します。宗教改革者マルティン・ルターは、悪魔の誘惑にあった時、机の上に「私はバプテスマを受けている」と書いて、それに打ち勝ったと言われています。私たちの信仰の原点ともいえるバプテスマを、あなたはどのように理解していらっしゃいますか。ある人は、バプテスマの儀式そのものが人を救うかのように考え、別の人は、バプテスマはあってもなくても良いと考えます。とにかくバプテスマを授ければ良いのだと主張する牧師もいれば、バプテスマの前後に、しっかりした弟子訓練が必要だと唱える牧師もあります。いったい何が聖書の教えで、私たちの教会にとって、何が最善なのでしょうか。これから数回、バプテスマについてご一緒に考えてみましょう。これからバプテスマを受けたいと考えておられる方にも、すでに受けた方にも役立つことと思います。

 バプテスマの儀式が私たちを救うのでも、クリスチャンにするのでもありませんが、バプテスマはクリスチャン生活のスタートになくてならないものです。救いは、ただ神の恵みにより、イエス・キリストの十字架と復活を通して、聖霊の働きにより、わたしたちのものとなります。そこに人間の努力や善行、悟りや儀式も入り込む余地はありません。この救いを受け取るのは、ただ信仰によってです。「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たではなく、神の賜物である。決して行いによるのではない。」(エペソ2:8,9 )とあるとおりです。私たちは行いによって救われるのではありませんが、救いから行いが生まれてきます。「わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。」(エペソ2:10)キリストを信じるとはキリストに従うことです。そしてキリストは私たちにバプテスマを命じています(マタイ28:19 )。あなたがイエス様を本当に信じており、愛していらっしゃるなら、イエス様の望まれることをするはずではありませんか。バプテスマを躊躇する理由はいくつもあり、困難もいろいろあるでしょう。しかし、主にあってそれらを解決して、バプテスマを目指して行く時、あなたは主に喜ばれるものとなることができるのです。



バプテスマは人を救いませんか?

 私は前回「バプテスマの儀式が私たちを救うのでも、クリスチャンにするのでもありません」と書きました。これに対して、「イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう」(使徒2:38)「この水はバプテスマを象徴するものであって、今やあなたがたを救うのである」(1.ペテロ3:31)「わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである」(ローマ6:4 )などの箇所から、バプテスマが人を救うのではという意見が当然出てくることでしょう。

 これらのみことばは、バプテスマはあってもなくても良いものでなく、大変重要なものであることを教えています。しかし、これらの箇所で言われているバプテスマとは、単なるバプテスマの儀式だけでなく、バプテスマの儀式が示しているイエス・キリストの救いのみわざ、バプテスマを受ける人が持っている信仰をも含めたものです。たとえば、使徒2:38では、「バプテスマを受けなさい」という勧めの前に、「悔い改めなさい」と教えられています。バプテスマは悔い改めの表現であって、悔い改めのない、単なる儀式としてのバプテスマは人を救うことはできないのです。バプテスマは、1.ペテロ3:31で言われているように、「からだの汚れを除く」きよめの儀式ではなく、神に対する悔い改めと主イエスに対する信仰を表すものなのです。聖書の言う、私たちを救うバプテスマとは、イエス・キリストの死と復活を信じる信仰に基づいたものなのです。

 エチオピアの宦官は、キリストのことを聖書に基づいて学び、「わたしは、イエス・キリストを神の子と信じます」と告白してからバプテスマを受けました(使徒8:35-38 )。ピリピの牢番は、「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」との勧めにしたがって、「神のことばを聞き」(32)、「神を信じる者となって」(34)、「バプテスマ」を受けたのです。あなたが儀式としてのバプテスマになにか特別な力があるように思って、それによって自分の人生が変わるのではないかと期待しても、おそらく、何も得られないでしょう。その前にバプテスマが示すイエス・キリストを、神のことばに従って知り、罪の悔い改めをもって、彼を信じることに心を向けてほしいのです。



バプテスマは何を表わしますか?

 バプテスマや主の晩餐は、説教が「聞かれるみことば」と言われるのに対して、「見えるみことば」と言われています。この二つの礼典は神の救いのみわざを私たちに見えるかたちで伝えてくれるからです。では、バプテスマは、神の救いのわざの何を言い表そうとしているのでしょうか。

 第一に、それは罪のゆるしを表わしています。アナニヤがサウロ(パウロ)にバプテスマを授ける時、「すぐ立って、み名をとなえてバプテスマを受け、あなたの罪を洗い落としなさい」と言っています(使徒22:16)。バプテスマの水は私たちを罪からきよめるキリストの血潮を思い起こさせます(1.ヨハネ1:7 )。

 第二に、それは聖霊による生まれ変わりを表わします。「わたしたちの行った義のわざによってではなく、ただ神のあわれみによって、再生の洗いを受け、聖霊により新たにされて、わたしたちは救われたのである」(テトス3:5,6 )。

 聖霊による新生は、キリストの十字架と復活に基づいています。したがってそれは、第三に、キリストとともに死ぬこと、キリストと共によみがえることを表わしています。「すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである」(ローマ6:4 )。キリストの死によって私たちの古い性質が死に、キリストの復活によって私たちは新しい性質を持ち新しい歩みができるのです。

 第四に、バプテスマは私たちが神の民とされたことを表わします。コロサイ2:11,12 には、旧約時代の割礼と新約のバプテスマとが結びつけられています。旧約時代割礼が神の民のしるしであるように、バプテスマも私たちが神の救いにあずかり、神のものとされたことを表わすのです。

 第五に、バプテスマは、私たちが神の民とされたばかりでなく、キリストのからだの一部にしていただいたことを表わします。「わたしたちは皆…一つの御霊によって、一つのからだとなるようにバプテスマを受け、そして皆一つの御霊を飲んだからである」(1.コリント12:13)。バプテスマはキリストのからだ、教会につながることを表わすのです。



バプテスマは何によって成り立つのですか?

 バプテスマはイエス・キリストの救いを表わすものです。しかし、儀式としてのバプテスマが自動的に、それが表わしている救いを、私たちに与えるわけではありません。もし、そうだとしたら、教会は、通りに面したところにバプテストリー(洗礼槽)を置いて、道行く人々にどんどんバプテスマを受けさせれば良いということになります。バプテスマはその儀式だけでは成り立ちません。それを成り立たせているものがあるのです。それは第一に、神のことば、聖書であり、次に、バプテスマを受ける人の告白のことば、信仰と悔い改めです。

 バプテスマは聖書によって、それが何を意味するのか教えられなければ、単なる儀式になってしまいます。バプテスマや聖餐は「見えるみことば」と言われますが、私たちがそこにイエス・キリストの救いのみわざを見ることができるためには、まず、神のことばによって、バプテスマが何を意味するのかが教えられていなければなりません。宗教改革の時、マルティン・ルターは、人々が神のことばの知識なしに聖餐にあずかるのに心を痛めて、「十戒」、「使徒信条」、「主の祈り」を教え、この学びを終えたものでなければ、聖餐にあずかってはならないと言いました。ルターの『小教理問答』には、「洗礼」、「告白」、「聖餐」についても教えられています。バプテスマは、神のことばの教えがともなって、はじめて意味を持つのです。

 バプテスマが成り立つためにもうひとつ必要なものはバプテスマを受ける人の信仰告白です。もちろん、「信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである」(ローマ10:15 )とあるように、信仰告白も神のことばなしにはありえませんが、神は、神のことばを受け入れた者に、告白のことばを求められるのです。「すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる」(ローマ10:9)。エチオピアの宦官はピリポから神のことば、イエス・キリストの福音を聞きました。彼は「わたしは、イエス・キリストを神の子と信じます」と告白し、バプテスマを受けました(使徒8:35-37 )。バプテスマは、そこに神のことばと私たちの信仰の告白とが出会う時、私たちにキリストの救いを見せるものとなるのです。



誰がバプテスマを受けることができますか?

 バプテスマについて学ぶ時に必ず聞かれるのは「誰がバプテスマを受けることができるのですか」「バプテスマを受ける資格は何ですか」という質問です。これに答えるのに、まず、明らかにしておきたいことは、バプテスマは決して何かの資格を授けるものではないということです。今まで見てきましたように、バプテスマはイエス・キリストの救いを表わすものであって、それ以外のもの、それ以上のものを何か人に与えることはありません。救いを持っている人だけがバプテスマを受けることができます。持っていないものを、持っているかのように表わすとしたら、バプテスマは偽りになってしまいます。バプテスマを受ける人に必要なのは、その人がイエス・キリストの救いを受けているということです。

 「もっと立派な人間になってから、バプテスマを受けます」「聖書を全部読んでからでなければ、バプテスマを受けません」等ということも良く聞きます。私たちが立派な人間になったら、神様は私たちを救ってくださるのでしょうか。それとも、イエス・キリストの救いとはたかだか「感じの良い人になること」「家庭の問題が解決すること」に過ぎないのでしょうか。そうではなく、あなたを古い罪の束縛から解放して、キリストとともに生きる新しい人に造り変えることなのです。あなたの聖書の知識は乏しいかもしれません。しかし、聖書が神のことばであり、あなたを生かすものであることを知っています。あなたの生活にはまだ解決されていない問題があるかもしれません。しかし、魂の問題は既に解決されており、今は、主とともに自分の問題に取り組むようになりました。あなたが生まれ変わったクリスチャンならバプテスマを受けるのを妨げるものはないのです。

 いったいバプテスマを受ける、受けないというのは、何を基準に誰が決めるのでしょうか。バプテスマを受けようとする人が、私には「資格」があるとか、私はまだまだだと言えるようなものなのでしょうか。バプテスマは、イエス・キリストに謙遜に服従して「授けていただく」ものではないでしょうか。「私はまだまだ」と言う言葉は謙遜そうに見えますが、実は、主が望んでおられることを、自分の考え、自分の気持ちで後回しにするという高慢な思いがその背後にある場合が多いのです。神様に思いを点検していただき、本当に柔順なものとさせて頂きましょう。



バプテスマを受けることは教会員になることなのですか?

 バプテスマを受ける人は、それによって、その教会のメンバーになるのです。バプテスマは、私たちが神の子として新しく生まれることを意味しています(ヨハネ1:12、3:5 、2.コリント5:17、テトス3:5,6 )。赤ちゃんが家族の世話を必要とするように、霊的に新しく生まれた者も、神の家族の世話を必要とします。バプテスマはそれを受ける人が、この神の家族の中で育てられていくことを言い表わし、それを授ける教会が、この人を世話し、導く責任を持つことを意味します。教会のメンバーシップを持つということは、たんに組織上のことでなく私たちが神の家族の一員とされたという霊的な真理と、主にある兄弟姉妹の信頼関係を表わしているのです。ですから、バプテスマを受けようとする人は、神様への信仰ばかりでなく、神様がその人に与えてくださった神の家族のまじわりとしての教会に対するコミットメントを求められるのです。バプテスマの準備の段階で教会生活について学び、バプテスマの時に教会員として最善をつくすことを誓約するのです。

 すべての教会は完成を目指して苦闘しています。どの教会に行っても、何かのつまづきを見るでしょう。あなたが理想とする教会にめぐり合うまでバプテスマを受けないというなら、生涯の中でその時が来ないかもしれません。しかし、あなたの教会が、神のことばに立ち、キリストの愛に生きようとしている教会であるなら、そのメンバーとなって、その中であなたの信仰を成長させ、あなたの賜物を用いるべきではありませんか。私たちは皆、家族の中で訓練され、成長してきました。両親や兄弟のいない家族の中で育てられた場合、子供の健全な成長が肉体的にも、精神的にも妨げられることがあるように、まじわりの中にいないクリスチャンは霊的に正しく成長することができないのです。

 「バプテスマは受けたいが、教会員になりたくありません」とおっしゃる方があるなら、その方はまだバプテスマの意味をよくお分かりになっていないと、私は思います。「すべてイエスのキリストであることを信じる者は、神から生まれた者である。すべて生んでくださったかたを愛する者は、そのかたから生まれた者をも愛するのである」(1.ヨハネ5:1 )とのみことばを学び直す必要があるように思います。



バプテスマのためにどんな準備が必要ですか?

 私たちの教会では、バプテスマを受ける人に、メンバーシップ・クラスのガイドブックを学んでいただくことになっています。普通は6週間のコースで、礼拝後の時間に学んでいますが、各々の事情に応じて、もう少し時間をかけたり、ウイークデーにクラスを設けたりしています。6週間のクラスの内容は次のとおりです。

 第1週 キリストの救いについて
 第2週 クリスチャンの成長について
 第3週 クリスチャン生活について
 第4週 クリスチャン・スチュワードシップについて
 第5週 教会について
 第6週 聖霊の賜物について

 このクラスの目的は、まず第一に、キリストの救いについて正しい理解をもっていただくことにあります。誰によって、何から救われ、今、救われてどうなったのかを知り、救いの確信に立つことは、バプテスマを受ける人にとって無くてならないことだからです。クラスの中で覚える6つの暗誦聖句は、あなたの信仰の確信のためにきっと役に立つことでしょう。

 第二に、クリスチャン生活、教会生活のABCを学ぶことです。聖書を読むこと、祈ること、礼拝を守ること、献金をすること、奉仕をすること、伝道すること、交わりをすること等を、宿題をしながら学びます。

 第三は、救いの「あかし」を書くことです。文章を書くということは、決してたやすいことではありません。原稿用紙を見ただけでめまいをしてしまう人もあるかもしれません。そのような方には、できるだけのお手伝いをします。「あかし」は、自分の人生に神様がしてくださった救いの恵みの証言であり、イエス様を自分の救い主、主と告白するものです。ですから、文章が整っていさえすればそれで良いというものではありません。それは、まず、真実なものであること、次にキリストの救いの体験がはっきり語られていること、そして、聞く人々とともに神様の恵みを感謝できるものであることが必要です。「あかし」を用意しているうちに、私たちは、自分のうちになされたキリストの救いを整理して考え、これからの信仰生活のために、はっきりした道筋を見ることができるようになるのです。



バプテスマを受けた人をどう導くべきですか?

 バプテスマを受ける前は一所懸命、教会に通い、準備会に出てきたのに、バプテスマを受けた後、教会から離れてしまったという話しをよく聞きます。それには、バプテスマを受けた人と、バプテスマを授けた教会との両方に、バプテスマについての誤解があるからだと思われます。バプテスマを信仰生活の目標とするなら、バプテスマを受けてゴールインしてしまったと考え、バプテスマの後の信仰生活が続かなくなってしまうのです。バプテスマはゴールではなく、そこから信仰生活が始まるスタートラインなのです。また、ある人は、バプテスマを受ければ自動的に問題が解決したり、強い信仰が持てるのではないかと期待します。しかし、バプテスマは、私たちに即座の解決を与えるものではありません。バプテスマを受ける前に、悔い改めて解決しておかなければならないこと、バプテスマを受けてから、時間をかけて取り組んでいかなければならないことがあるのです。

 このことは、バプテスマを受けた人を迎える教会員のひとりひとりもよくこころに留めておかなければなりません。バプテスマを受けるまでは、何かと気にかけ、導いてきたのに、バプテスマを受けたとたんに、「もう一人前のクリスチャンになったのだから、大丈夫だろう」と手を引いてしまうということがあります。バプテスマを受けたばかりの人は、まだまだ、「キリストにある幼な子」で、これからさらに、みことばの糧をうけて、成長していかなくてはなりません(1.ペテロ2:1,2 )。私たちは、バプテスマを受けた方々を引き続いて、導いてあげなければなりません。私は、ある教会で、バプテスマを受ける人と、その人をサポートする人達とが一緒に前に出てバプテスマ式が行われるのを見たことがありますが、とてもいいことだと思いました。バプテスマを受けた方には、その後も学びと教会の交わりが必要です(ヨハネ15:1-5)。

 今まで、8回にわたってバプテスマについて学んできました。ご質問があれば、ぜひ、牧師までお知らせください。バプテスマを受け、教会員になるということの中には、牧師と信徒の良い関係を築きあげていくということが、含まれていると思います。神様は、牧師と信徒との良い関係を築こうとするその努力を通してあなたの信仰を祝福してくださるのです(ガラテヤ6:6 )。