キリストのからだ

 アメリカには、どの町にも、また、どの通りにも教会が多くあります。交差点の四つ角に、それぞれ別の教会が向かいあって教会が建っていることも珍しくありません。しかも、そのほとんどが史跡や観光のための教会ではなく、活発に活動している教会です。日本ではめったに教会に足を向けなかったかたがたも、アメリカでは「講演会があって教会に行ってきた。」「教会のバザーで買い物をしてきた。」など、気軽に教会に足を運ぶことが多いかと思います。教会は、アメリカでは、日本にくらべて、人々に親しまれ、また、コミュニティとの関わりを深く持っているようです。

 しかし、多くの人は「教会」と言うと、「教会堂」のことと考えています。屋根の上に高い尖塔を持ち、内部はステンドグラスを通しての光の中で、パイプオルガンの音が響いている場所、教会について、そんなイメージを抱いているようです。しかし、教会は、最初から、そんな建物を持っていたわけではありませんし、すべての教会が、建物を持っているわけでもありません。初代教会には、教会堂がありませんでしたから、大きな家を借りて集まっていました。聖書には、教会の「家主」についての言及があります。ベイエリアには、一般の民家や公共の施設、あるいは、ウェアハウスで礼拝をしている教会も多くあります。『人生を導く5つの目的』の著者リック・ウォレン牧師の教会も、25年前アパートの一室から始まって、各地の学校を借りながら転々とし、やっと現在の大きな教会堂を建てることができたのです。

 教会にとって、多くの人が共に集まることのできる建物は、大切なものですが、たとえ建物がなくても、教会は存在します。教会は建物そのものではなく、その建物を利用している人々が作っている「共同体」のことだからです。ですから、ほんとうの意味で教会を知り、教会に加わるというのは、教会の建物に足を運ぶこと、教会の行事に出席するだけではなく、一歩進んで「共同体」としての教会の中に入ることによってなされるのです。

 教会は、同好会でも、互助会でもありません。教会は人間の結びつきでできあがっているところではありません。そうした、人間の結びつきは、いつかは壊れていくでしょう。教会は「キリストのからだ」と呼ばれるように、キリストがかしらで、キリストを信じる者が、そのからだの器官である、実際の「キリストのからだ」です。ひとりひとりがまず、キリストとつながって、それから、キリストを通して、キリストのからだの部分、部分として、お互いがつながっていくところです。聖書に「なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシャ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。」(コリント第一12:13)とあるように、キリストへの信仰を言い表すことによって、また聖霊の働きによって「キリストのからだ」に結びあわされるのです。教会を外側から眺めるだけでなく、教会を「キリストのからだ」として見ることが出来るなら、教会を正しく知り、教会に属することの素晴らしさが分かってくるのです。