「目的の四十日」日々の聖句

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私は何のために生きているのか
  Day  1 Day  2 Day  3 Day  4 Day  5 Day  6 Day  7
第一の目的 あなたは神の喜びのために造られた
  Day  8 Day  9 Day 10 Day 11 Day 12 Day 13 Day 14
第二の目的 あなたは神の家族となるために造られた
  Day 15 Day 16 Day 17 Day 18 Day 19 Day 20 Day 21
第三の目的 あなたはキリストのようになるために造られた
  Day 22 Day 23 Day 24 Day 25 Day 26 Day 27 Day 28
第四の目的 あなたは神に仕えるために造られた
  Day 29 Day 30 Day 31 Day 32 Day 33 Day 34 Day 35
第五の目的 あなたは使命のために造られた
  Day 36 Day 37 Day 38 Day 39 Day 40

私は何のために生きているのか

Day 1 — すべては神から始まる

なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は御子によって造られ、御子のために造られたのです。(コロサイ一・十六)

 「世界はふたりのために」という流行歌がありました。恋する若者たちがそのように感じる気持ちは分からないわけでもありませんが、これは、ずいぶん自己中心な歌です。「ふたりは世界のために」と歌った方が良いような気がしますが、キリストを知るまでは、私たちは皆、「世界は自分のためにある。自分が主人公である。自分の人生は、自分自身が決定し、自分自身の力で切り拓いていくのだと考えていたのではないでしょうか。

 かつてのヨーロッパやアメリカでは、人は神によって造られ、神から目的を与えられて生かされていることは当然のことであり、社会はこの信仰の基盤の上に成り立っていました。しかしポスト・モダンの時代となって、人々は、もはや神を人生の出発点として考えることをしなくなりました。神から独立した社会が成熟した社会であると考えるようになり、信仰は儀式の中だけに残るようになりました。

 そんな風潮の中で、「私は神によって造られ、神によって目的を与えられている。私の幸いはすべて神に依存している。」という信仰を貫き通すことは、決して簡単なことではありません。しかし、キリストがすべてのものの主であることを知り、信じている私たちにはそれができるのです。

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Day 2 — あなたは偶然に存在しているのではない

あなたを造り、あなたを母の胎内にいる時から形造って、あなたを助ける主はこう仰せられる。「恐れるな。わたしのしもべヤコブ、わたしの選んだエシュルンよ。」(イザヤ四四・二)

 私がはじめて手にしたキリスト教の本に、「あなたは偶然に生まれたのではない。神は、あなたが生まれる前からあなたを知っておられ、母の胎内であなたを形造ったのだ。」とありました。長い間、父親も、母親も不在の家庭で育った私には、これは大きな慰めでした。神が私の造り主であるということは、私の存在を支えてくれるものでした。

 私たちは、自分で自分を支えているとは言うものの、本当には自分の力だけで生きている人は誰もいません。この命も、それを支える空気も、水も、自分で造り出したものではないからです。すべて他から与えられたものです。また、私たちには家族や友人が必要です。他の人の助けを必要としない人は誰もいません。そして、それらすべてのもの、すべての人は神がお造りになったものなのです。自分が神によって造られたことを認めない人は、何を根拠ににして自分の存在を支えるのでしょうか。

 詩篇に「あなたの御手が私を造り、私を形造りました。どうか私に、悟りを与えてください。私があなたの仰せを学ぶようにしてください。」(詩一一九・七三)とあります。神が私を造られたのなら、神は私に目的をお持ちのはずです。自分が神によって造られたことを知る人は、神のみこころを求めて、熱心に神のことばを学びます。神に造られたことを喜ぶとともに、神のみことばを慕い求めましょう。

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Day 3 — あなたの人生を動かしているものは何か

志の堅固な者を、あなたは全き平安のうちに守られます。その人があなたに信頼しているからです。(イザヤ二六・三)

 「志の堅固な者」というのは、自分の意志を曲げない頑固な人という意味ではありませんが、真理のためには頑固さも必要です。迫害の時代のクリスチャンたちは「頑固」でした。彼らはローマ皇帝の権力をも恐れず、「イエスは主である。」との告白を貫き通しました。宗教改革者たちも「頑固」で、彼らは、福音の真理をゆがめようとするものに抵抗しました。この人たちは「真理のため」には「頑固」でしたが、「真理に対して」は実に柔らかい心を持ち、神に対して「従順」でした。ルターはウィッテンベルグ大学の教授でしたが、同時に忠実な聖書の生徒であり、彼は神が聖書によって語られたことにつねに従順であろうとしました。カルヴァンは、古典学者として平穏な生涯を送るつもりでしたが、「あなたが、改革者として立たなければ、神はあなたを滅ぼされるだろう。」というファレルの「脅迫」を通して語られた神の召しに従順に従いました。自分では真理のための「頑固さ」だと思っていても、もしその人のうちに真理への従順さがなければ、それはただの「頑固」にすぎません。

 ジョン・ノックスは、英国のメアリー女王の脅かしに対して、「私は神以外の何ものも恐れない。」と言いましたが、「志の堅固さ」は神への信頼から来るのです。決して自分の意志の強さを信じることからではありません。神に信頼することによって堅固な志(目的)を持つ者となりましょう。

2 日目      目次にもどる      4 日目

Day 4 — 永遠に生きる存在として造られた

世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行うものは、いつまでもながらえます。(第一ヨハネ二・十七)

 「世」はギリシャ語では「コスモス」と言い、それには「調和のとれたもの」という意味があります。しかし、聖書が「世」という言葉を使う時、多くの場合は、「神に背く罪のシステム」という意味で用いています。罪が世に入った後も「世」は「調和」を保っているように見え、美しく、魅力的で、永遠に続くかのように思われています。しかし、聖書は、それは永遠ではない、滅び行くものだと言い切っています。

 「世の欲」とは何でしょう。科学者たちが科学技術を高めて、未知の世界を知り、世界の起源と生命の神秘を解き明かしたいと願うことは、悪いこととはみなされず、個々人が仕事で成功して裕福な生活をするというのも、アメリカの社会では誉められこそすれ、問題視されることはありません。しかし、同じ章の十六節に、「世の欲」には「暮し向きの自慢」が含まれるとあるように、もし、そうしたことが人間の力を誇り、自分の満足を追及するためになされるなら、それもまた、滅び行く「世の欲」でしかないのです。

 「世の欲」は滅びても「神のみこころを行なう者」は滅びることはありません。「神のみこころを行なう者」とは、別のことばで言えば「神を愛する者」です。神への愛と世への愛は両立することはありません(第一ヨハネ二・十五)。神にささげられた愛だけがいつまでも残るのです。

3 日目      目次にもどる      5 日目

Day 5 — 神の視点から人生を見る

小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さいことに不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。(ルカ十六・七)

 「この世の子」の「ずる賢さ」には、しばしば唖然とさせられることがあります。彼らは要領よく世の中を渡り、得をしているように見えます。「光の子」は、たとえ損をしてもそれを見習うべきではありませんが、それに唖然とするだけでなく、そこからも学ぶようにと、主は言われました。「不正な管理人」からも学ぶべきことがあるのです。

 まずは、彼が自分を救うために「必死になった」ことです。主は、救われたクリスチャンにも、彼が持ったような危機感を持つようにと教えておられます。家族の救われること、自分の罪の赦されること、きよめられること、満たされることを、私たちはどれほど切実に願い求めているでしょうか。

 次に、彼は、自分の管理人としての立場を「活用」しています。手元にある借用証書を書き換えて負債者に恩を売ったのです。それは、あきらかな「職権濫用」ではありましたが、彼が、与えられた機会を逃さなかったことは見習わなければなりません。私たちは、私たちに与えられた立場や機会を主のために活用しているでしょうか。

4 日目      目次にもどる      6 日目

Day 6 — 人生は一時的な努めである

私たちは、見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。(第二コリント四・十八)

 私の子どものころ、日本でテレビ放送が始まりました。やがてテレビは各家庭に普及し、続いてカラーテレビの時代となり、今は、ハイビジョンの時代となりました。本を読んだり、ラジオを聞く時には、「ことば」に集中し、そこに書かれていることを考え、そこで語られていることを想像しなければ内容を良く理解できませんでしたが、テレビは直接視覚に入ってきますので、私たちの思考力や想像力をあまり要求しません。テレビの影響ばかりではないかもしれませんが、人々は物事の見えるものだけに目を留め、見えない面を深く思い見ることができなくなってきました。人物や物事を見る時も、その内面や本質ではなく、外面やうわべだけを見るだけで終わってしまうようになりました。

 しかし、信仰者は、見えないものを見ながら歩みます。聖書は、「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」(ヘブル十一・一)と言っています。信仰者は、見えるところが問題だらけであっても、それを解決してくださる見えない神を信じます。教会が弱く小さくても、この群れを愛して導いてくださる全能の神に信頼します。目に見えることだけで有頂天になったり、がっかりしたりするのは、信仰者の生き方ではありません。私たちは見えないものに目を留める信仰の訓練を怠ることのないようにしましょう。

5 日目      目次にもどる      7 日目

Day 7 — すべてのことの意味

というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。(ローマ十一・三六)

 聖書には人間の救いのドラマが書かれています。その舞台は、私たちの住む、この地球で、そこに登場するのは、神に造られ、神に愛された人々です。このドラマでは、いたるところで、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ四三・四)という神の愛のメッセージが語られています。それで、私たちはいつしか、このドラマの主人公は、私たち人間なのだと思うようになってしまいました。

 しかし、聖書のドラマの主人公は神です! 人間ではありません! 神に愛された人間ではなく、人間を愛してくださった神が主人公です。救いのイニシャティブ(主導権)は神が取っておられます。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛してくださったのです。神の救いの究極の目的は「神の栄光がほめたたえられる」

 ウェストミンスター小教理問答は、「人生の主な目的は何か。」という質問に、「人生の主な目的は、神の栄光を現わし、神を喜ぶことである。」と答えています。神のことばを学ぶことも、霊的に成長することも、金銭や時間をささげることも、奉仕や伝道に励むことも、人々を愛することも、究極的には「神の栄光」のためなのです。「人生の五つの目的」が目指すところも、また「神の栄光」です。

6 日目      目次にもどる      8 日目


第一の目的 あなたは神の喜びのために造られた

Day 8 — 神の喜びのために造られた

主は、ご自分の民を愛し、救いをもって貧しい者を飾られる。(詩篇一四九・四)

 私たちは、神が主であることを忘れ、いつしか自分を主人公にしてしまいます。私たちは、「人生の究極の目的は神の栄光を現わすことである。」ということをいつも肝に銘じていなければなりません。しかし、それと同時に忘れてはならないことは、神が、私たちに、その神の栄光にあずかるものになるように願っておられるということです。

 神は、人間を「神のかたち」に造ってくださいました。つまり、神の栄光を持つものとして造ってくださったのです。聖書は「あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。」(詩篇八・五)と言っています。

 人間は罪によってこの栄光を失いましたが、神は、イエス・キリストによって私たちを救い、私たちに再びその栄光を与えてくださいました。「主は、ご自分の民を愛し、救いをもって貧しい者を飾られる。」(詩篇一四九・四)や、「わたしは主によって大いに楽しみ、わたしのたましいも、わたしの神によって喜ぶ。主がわたしに、救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせ、花婿のように栄冠をかぶらせ、花嫁のように宝玉で飾ってくださるからだ。」(イザヤ六三・一)ということばは、そのことを指しています。

 天の父である神はご自分の子どもたちが汚く、貧しいものを身に着けているのを喜ばれません。私たちは、「この救いの衣」をしっかりと身につけているでしょうか。

7 日目      目次にもどる      9 日目

Day 9 — 何が神を微笑ませるのか

「主を恐れる者と、御恵みを待ち望む者とを主は好まれる。」(詩篇一四七・十一)

 今日の聖書には「主は好まれる」とありますが、このことばが好きでない人もいます。その人は、「ある者を好み、ある者を嫌うというのは、公平な神にふさわしくない。」と考えるのです。

 しかし、誰も、神に対して「あなたは、このような人を愛すべきだ。」と命じることはできません。愛とは、誰にも強制されない自由なものです。ましてや、神の愛は主権的な愛であって、誰も神の愛に注文をつけることはできません。神は「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ。」(ローマ九・十五.出エジプト三三・十九)と言っておられます。

 たいていの場合、互いに愛し合う者たちは、お互いに相手が何が好きかを知ろうとし、相手の好きなことを自分も好きになろうとします。そのように、神を愛するなら、私たちも、神が何を好まれるのかを知ろうとし、神が好まれるものを選ぼうとするはずです。神は、ご自分の主権に従って、自由に人を愛されますが、その愛は公平で、神の義にかない、私たちに祝福をもたらすものです。主が好まれることを選ぶのが間違いのない選択です。

8 日目      目次にもどる      10 日目

Day 10 — 礼拝の本質

また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器としてささげなさい。(ローマ六・十三)

 私が小学生のころ、学校の先生は「健全な肉体に健全な精神が宿る。」と言って、私たちに身体を鍛えるように教えてくれました。病弱で運動の苦手だった私には、耳の痛い言葉でした。自分の心がひねくれているのは、身体が弱いせいなのだと思っていました。しかし、クリスチャンになって、健康で頑丈な人たちが不健全なことをし、身体の不自由な人たちが素晴らしい精神を持っていることに気付きました。どういうわけだろうかと考えている時に、「健全な肉体に…」ということばは、もともとは「健全な肉体に健全な精神が宿れば理想だが、現実はそうではない。」というものだと知りました。

 肉体が精神に影響を及ぼすことは良く知られていることですが、同時に、精神が肉体に影響を及ぼすことも本当なのです。肉体的なものを「悪」とする思想もありますが、聖書は、人間のからだを神が造ってくださった「聖霊の宮」として尊んでいます(第一コリント六・十九)。からだそのものは中立的なものなのです。腕力のある人が、それを使って人をぶん殴ることもできれば、同時に、それによって倒れている人を助けてあげることもできます。私たちの手足が悪のために使われるのも、善のために使われるのも、私たちの神への信頼にかかっています。主に信頼する者は、自分の手足に振り回されるのでなく、手足を正しく用いることができるのです。

9 日目      目次にもどる      11 日目

Day 11 — 神の親友になる

主はご自身を恐れる者と親しくされ、ご自身の契約を彼らにお知らせになる。(詩篇二五・十四)

 神は「主」です。しかし、同時に神は、神を主として信頼する者の「友」となってくださいます。健全な信仰には、神を「主とする」ことと、神を「友とする」こととが矛盾することなく、融けあっています。

 神を「主とする」ことがなければ、その人の信仰は、自分の都合の良い時に神の助けを祈り求めるだけの「ご利益」的なもので終わってしまいます。結局のところ、神を人間の自己実現や成功を手助けする「しもべ」にしてしまうのです。また、神を「友とする」ことのない信仰は、神とのまじわりのない、外面的、形式的なものになってしまいます。そうした人のたましいは、神とのまじわりがないためにいつも渇いており、知識や活動はあっても、人格の成長がないのです。ダラス神学校のチャールズ・スウィンドール総長は「ある優秀な学生は、聖書の研究に没頭したが、信仰から離れてしまった。彼は、神のことばを愛したのでなく、聖書の『研究』を愛したからだった。」と。その著書に書いていますが、何を言おうとしているか、お分かりですね。

 個人の祈りの時や日曜日の礼拝が、神とまじわるということがないままの、単なる「お勤め」で終わってしまっていないでしょうか。「神とまじわる」ということは、ある日、ある時突然出来るようになるということではありません。それは、毎日の祈りの生活、毎週の礼拝を再検討して、神とのまじわりを意識的に求めることからはじまるのです。

10 日目      目次にもどる      12 日目

Day 12 — 神との友情を育む

神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。(ヤコブ四・八)

 私たちが救われたのは、私たちの側のどんな功績にもよりません。私たちが他の人にくらべて、真面目だったから、努力家だったから、人に親切だったから救われたというのではありません。神の一方的な恵みによるのです。行いからは決して救いは生まれてはきません。

 しかし、救いからは行ないが出てきます。救われた者が、救われる以前と同じでいられるわけがないからです。聖書に、「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(第二コリント五・十七)「私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。」(エペソ二・十)とある通りです。

 ヤコブの手紙が「行ない」を強調しているのは、「人は行ないによっては救われない。」ということと矛盾するものではありません。ヤコブが言っている「行ない」は、救われるための行ないではなく、救いの結果としての行ないのことだからです。それは神の恵みによる信仰の行ないです。そして、その信仰の行ないの中でいちばん大切なものは、手を洗いきよめ、心を清くして、神に近づくことです。そして、神が恵みをもって近づいてくださったことを知る人にはそのことができるのです。なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は御子によって造られ、御子のために造られたのです。(コロサイ一・十六)

11 日目      目次にもどる      13 日目

Day 13 — 神に喜ばれる礼拝

心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。(マルコ十二・三十)

 このことばは「すべての命令の中で、どれが一番たいせつですか。」という律法学者の質問に、主イエスが答えて語られたことばです。これは、申命記申命記六・四、五の引用です。この部分は、ユダヤの人々の間では「シェマー」と呼ばれ、子どもが物心ついた時に最初に教えるべきことばとされていました。ですから、ユダヤの人であれば誰もが知り、暗記していたことばでした。

 しかし、知っていることと、理解していることの間には大きな差があります。彼らはこのことばを唱えることはできても、これが、形式的に神を礼拝すること以上のことを教えていることを理解している人は少なかったのです。「律法学者」と呼ばれる人の多くは、聖書を宗教の規則集として考え、神が神を信じる者たちを「わたしの民」と呼び、ご自分を「あなたの神」と呼んでくださるほどの、神との生きた関係を見落としていたのです。

 イエスに質問した律法学者はイエスの言おうとされたことを理解したようです。しかし、「理解」と「実行」の間にも大きな差があります。主イエスはこの律法学者に「あなたは神の国に入っている。」とは言わず、「あなたは神の国から遠くない。」(マルコ十二・三四)と言われました。神の国に近づいたなら、主イエスのことばを信じ、それを実行しましょう。そこからもう一歩踏み出して、神の国に入ろうではありませんか。

12 日目      目次にもどる      14 日目

Day 14 — 神が遠く感じられる時

金銭を愛する生活をしてはいけません。いま持っているのもので満足しなさい。主ご自身がこう言われるのです。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」(ヘブル十三・五)

 信仰は単に心の平安、人生のよりどころを得るためのものではありません。生き馬の目を抜くような厳しい現実を生き抜くためのものです。私たちを失望させ、誘惑に引きずり込もうとするこの悪の世界の中で神のみこころを行いながら生きていくためのものです。信仰はたんなる「アクセサリー」ではなく、私たちの「いのち」です。

 最近 "Real Faith for Real Life" (「現実の生活に働く本物の信仰を」)ということばを目にしました。本物でない信仰は現実の生活に役に立ちません。「信仰は現実に役に立たない。」と言う人がいますが、それは、「本物でない信仰は現実に役に立たない。」と言うべきでしょう。

 ヘブル人への手紙は、信仰に生きた数多くの人々を「証人」として呼び出し(ヘブル十一章)、「信仰の創始者であり、完成者である」主イエス・キリストを指し示し、私たちに本物の信仰を持つように教えています。聖書の信仰者や、私たちと同世代の信仰の先輩たちは、困難に直面した時、「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」と約束しておられる神を信じ、神に頼りました。主は、本気で信じる者、まごころから信頼する者の信仰に答えて、約束のことばどおりに彼らとともにいてくださいました。彼らの信仰は現実に働く本物の信仰でした。私たちもそれに習いましょう。

13 日目      目次にもどる      15 日目


第二の目的 あなたは神の家族となるために造られた

Day 15 — 神の家族となるために造られた

神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。(エペソ一・五)

 最も純粋な霊である神から天使や人間、動物や植物、そして物質が生み出され、流れ出してきたのであって、人間は、高い次元の神と、低い次元の物質との中間にあり、精神を磨くことによって神になるのだという考え方は、どこの国にもありました。さまざまな宗教では、神と人間とは本質的には違わず、神は「大きな人間」であり、人間は「小さな神」であると教えています。

 しかし、聖書は、神と人間の間には大きな隔たりがあると教えています。神は創造者ですが、人間は被造物です。神は万物の支配者ですが、人間はそのしもべです。神は、その存在、知恵、知識、能力において無限のお方ですが、人間は有限の存在です。神から生まれ、「神の子」と呼ばれるお方は、イエス・キリストのほかありません。人間は、神から生まれたのではなく、神によって造られたものです。人間は生まれつき「神の子ども」ではないのです。

 ところが神は、イエス・キリストを信じる者を「神の子ども」としてくださいました。本来神の子ではないものを養子にしてくださったのです。これは、神がそれほどに私たちを愛しておられるということを言い表わしています。この神の愛にとどまる時、私たちは、神の御子イエス・キリストに似たものへと変えられていくのです。それは私たちが神になるという意味ではありませんが、それによって、より神を知り、神とまじわることができるのです。

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Day 16 — 一番大切なこと

律法の全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」という一語をもって全うされるのです。(ガラテヤ五・十四)

 主イエスは、「すべての命令の中で、どれが一番大切ですか。」という質問に、「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」と答えられただけでなく、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」とも言われました(マルコ十二・二八〜三一)。「律法」は神を愛することと、人を愛することのふたつを私たちに求めています。それは、神を愛することと、人を愛することには、切っても切れない深いつながりがあるからです。

 そのつながりとは何でしょうか。第一に、神を愛することを知って、はじめて本当の意味で人を愛することができるようになるということです。神への愛を知らない時の愛は、その人を愛することによって自分が利益を受けるため、あるいは、自己満足を得るためのものだったかもしれません。私たちは神を愛することによってはじめて、自己本位から離れた純粋な愛に近づくことができます。

 第二に、私たちは、目に見えない神への愛を、目に見える身近な人々を愛する愛によって表現するのです。「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。」(第一ヨハネ四・二十)とあります。神への愛と人への愛がしっかりとつながる時、愛は本物になるのです。

15 日目      目次にもどる      17 日目

Day 17 — あなたの属するところ

おおぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。(ローマ十二・五)

 キリストを信じる者たちは、「兄弟たち」(使徒二・三七)、「弟子」(同二・四一)や「信者」(同二・四四)、「仲間」(同二・四七)や「兄弟たち」と呼ばれていましたが、教会がアンテオケに出来た時から、「クリスチャン」と呼ばれるようになりました。これは一般の人々が、キリストを信じる人々をからかってつけたものですが、「クリスチャン」という名称には「キリストに属する人々」という意味があって、それは、キリストを信じる者たちの本質を言い表わしています。この名称は、キリストを信じる者がキリストに属するものである、信じるとは属することであるということを、私たちに自覚させてくれます。

 では、私たちはどのようにキリストに属しているのでしょうか。キリストのからだの器官としてです。からだの器官はどれも、頭脳の命令によって生かされています。どの器官もからだから切り取られては生きてはいけません。「クリスチャン」とは、そのようにキリストといのちの結合を持っている人のことを言います。教会の会員(メンバー)になるということは、単に教会の名簿に名前を連ねたり、教会の活動に加わることではありません。それは、「キリストのからだ」の「器官」(メンバー)になることです。キリストのからだである教会は、キリストとのいのちの結合を持っている人々、まことの「クリスチャン」によって成り立つのです。

16 日目      目次にもどる      18 日目

Day 18 — 人生を共に経験する

互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。(ガラテヤ六・二)

 主イエスが「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ十一・二八)と言われたように、人生で重荷を負っていない人は誰ひとりいないでしょう。主イエスのもとに来ようとしない人は、重荷のない人ではなく、自分の重荷に気づいていない人なのかもしれません。

 すべての重荷は、それを主イエスのもとにおろすまでは決して解決することはありません。しかし、そうした重荷を主のもとに持ち運ぶために「互いの重荷を負い合う」ことも必要です。主イエスは、「重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。」と言われただけでなく、「わたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。」(マタイ十一・二九)とも言われました。罪の重荷をおろした私たちに、主は、自己訓練の「くびき」や伝道の「重荷」を、共に負い合うべき「重荷」として、私たちに与えてくださっています。互いに重荷を負い合いましょう。

 しかし、注意しなければならないのは、他の人の「重荷」を負うことだけに目が向いて、自分自身の「重荷」から目をそらせるということです。他の人を助けることには一種の「自己満足」が伴い、人の賞賛を得ることもできますので、ついついそれに熱心になって、自分自身に与えられた課題に取り組むのを忘れてしまうのです。「人にはおのおの、負うべき自分自身の重荷があるのです。」(ガラテヤ六・五)ということばも肝に銘じましょう。

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Day 19 — 共同体を育てる

キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。(第一ヨハネ三・十六)

 私たちはキリストのからだの各器官としてキリストのいのちに生かされています。キリストのからだである教会は、キリストのいのちにあふれているところで、毎週日曜日の礼拝で、私たちは復活されたキリスト、キリストのいのちを祝います。罪に死んでいるこの世の只中で、キリストのいのちを宣べ伝えるのです。しかし、同時に、私たちは、この礼拝で十字架のことばを聞き、キリストの死を覚える聖餐を守ります。聖餐は「主の死を告げ知らせる」(第一コリント十一・二六)ものです。キリストのいのちを祝う場でキリストの死が語られるのは、キリストのいのちが私たちのものとなったのは、キリストの死によってであることを忘れないためです。

 聖書は、教会のまじわりにおいても、キリストの死を覚えているようにと教えています。聖書は兄弟愛を教えるのに「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。」と、キリストの死から説き起こしています。「それによって私たちに愛がわかったのです。」というのは本当です。キリストの死の意味が分かるまでは、愛は分かりません。キリストの死によって表わされた神の愛が分かる時、はじめて私たちは「兄弟のためにいのちを捨てる」ことがどういうことかが分かるようになります。キリストの十字架という原点に戻り「愛」を見つめなおしてみましょう。

18 日目      目次にもどる      20 日目

Day 20 — 壊れてしまったまじわりを回復する

あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。(ローマ十二・十八)

 「関係」の修復はどんな場合でも大切です。たとえ、そこになお「問題」が存在したとしても、「関係」の修復は試みる価値があります。「関係」の修復から「問題」の解決へと導かれることが多いからです。神は、私たちを救うのに、「関係」の修復からはじめられました。神が父であり、私たちが子どもであるという関係、キリストが花婿であり、私たちがキリストの花嫁であるという関係、聖霊が私たちの所有者であり、私たちが聖霊の宮であるという関係に、神は私たちを導き入れてくださいました。私たちが神の子どもらしくなくても、神は私たちをご自分の子どもとして扱い続け、神は、いったん結んでくださった関係を解消されはしません。むしろ、神は、私たちが神との関係の中に生きることによって、神の子として成長するよう願っておられます。キリストは、私たちがキリストとの関係の中にとどまることによって、キリストへの愛を育てるようにと命じておられ、聖霊は、私たちが聖霊との関係を保つことによって、私たちが罪からきよめられていくことを求めておられます。

 神は、私たちとの「関係」の修復によって、私たちの罪という「問題」の解決へと導いておられます。ですから、私たちも、神との「関係」の中にとどまり、自分の「問題」の解決へと導かれていきましょう。神が私たちに対してそうされたように、私たちも、他の人との「関係」の修復に努めていきましょう。

19 日目      目次にもどる      21 日目

Day 21 — あなたの教会を守る

そういうわけですから、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つこととを追い求めましょう。(ローマ十四・十九)

 ユダヤの人々は、朝も、昼も、夜も、「シャローム!」と言って挨拶をかわします。出会ったときの挨拶も「シャローム!」、別れる時の挨拶も「シャローム!」です。「シャローム」には「平和」「平安」「安全」「繁栄」という意味がありますから、出会う人々に「平安」を祈り、別れる人々に「安全」を祈るわけで、とても意味深い挨拶の言葉です。

 使徒パウロは、ユダヤ人でしたから、彼の手紙は「恵みと平安がありますように!」という挨拶ではじまっています。しかし、パウロにとって、「恵み」も「平安」も、挨拶の言葉以上の重みがありました。パウロが言う「恵み」は、キリストが神の子としての身分も立場も捨てて、私たちの罪を背負い、十字架に死なれたことを意味しています(第二コリント八・九)。そして、パウロが言う「平安」とは、キリストがその十字架によって生み出してくださった神との平和のことでした。「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」(ローマ五・一)とある通りです。

 使徒パウロが言う「平和」は、人間的なレベルで「仲良くする」という以上のものでした。パウロは自分の「平穏」を守るため妥協し真理をないがしろにはしませんでした。キリストによって与えられている「神との平和」を保ち、それを築き上げることを追求し、それを私たちにも命じています。

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第三の目的 あなたはキリストのようになるために造られた

Day 22 — キリストのようになるために造られた

私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。(第二コリント三・十八)

 「聖人」と呼ばれる人たちはみな、「キリストのようになりたい。」という強い願いに動かされていました。そして、それを求めて、自らに厳しい訓練を課したり、貧しい生活を強いたりしました。多くの人は、そのような厳しい訓練や貧しい生活が彼らを「キリストのように」したと思っていますが、実際は、聖霊が彼らを「キリストのように」したのです。

 では、聖霊は、どのように私たちを「キリストのように」してくださるのでしょうか。第一に、時間をかけることによってです。赤ちゃんが歩き出すのに一年以上かかるように、神の子どもとして生まれた私たちが霊的に成長するのにも時間が必要です。新聖歌(三七二)に「聖なる者と」という賛美があります。この賛美の英語の歌詞は "Take time to be holy." ですが、これは、年月が経てば自動的に「キリストのように」なるということではありません。霊的成長のために時間を割くように、具体的には、礼拝や学び、祈りや黙想のために時をささげ、それを有効に使うよう教えています。第二に、みことばによってです。「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。」(第一ペテロ二・二)とある通りです。

21 日目      目次にもどる      23 日目

Day 23 — どのように成長するのか

この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。(ローマ一二・二)

 「調子を合わせる」という言葉は「外側から形づくる」、「心の一新によって自分を変えなさい。」という言葉は、「内側から形づくる」という意味があります。この世は、私たちを外側から形づくろうとし、神は、私たちを内側から形づくるのです。

 「キリストのように」なることは、「クリスチャンらしく」振舞うこととは違います。私たちの目標は、「クリスチャンらしく」なることではなく、「キリストのように」なることです。人々は、私たちに「クリスチャンらしく」なることを期待するかもしれませんが、神が私たちに求めておられるのは「キリストのように」なることです。そして、それは、私たちの物の考え方、原理、生き方、価値観、人生観、世界観などといった内面のものが変化することによってはじめて可能なのです。

 私たちの心をほんとうの意味で新しくしてくださるのは、聖霊です。しかし、聖霊の働きを願い求めるのは、私たちの悔い改めであり、信仰です。悔い改めと信仰によって、私たちが内側から変えられていないと、私たちはキリストの姿を持つことができないばかりか、この世に形づくられ、この世の姿に戻ってしまいます。絶えず献身を新しくしながら、神によって造り変えられていく私たちでありたいと心から願います。

22 日目      目次にもどる      24 日目

Day 24 — 真理によって造り変えられる

もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。(ヨハネ八・三一、三二)

 永田町の国会議事堂の隣に立つ国会図書館の二階、中央出納台の上に Η ΑΛΗΘΕΙΑ ΕΛΕΥΘΕΡΩΣΕI ΥΜΑΣ というギリシャ語が刻まれていますが、これは聖書から取られたものです。一九四八年に制定された「国立国会図書館法」の前文にも、「真理が我らを自由にするという確信に立って、憲法の誓約する日本の民主化と世界平和とに寄与することを使命とする。」という一文があります。

 ギリシャ文の「真理」(ΑΛΗΘΕΙΑ)についている冠詞(Η)は、この真理が一般的な真理ではなく、特定の真理であることをさしています。主イエスはご自分を指して「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」(ヨハネ十四・六)と言われた時も、それは冠詞のついた「真理」でした。私たちを罪から自由にする「真理」は主イエスのほかありません。主イエスのことばを国の建物に刻んではいても、日本人の多くは、究極の真理であるイエス・キリストを知らないでいます。罪の刑罰から、また罪の力からも救い出してくださるお方、真理であるキリストを、日本人が知るように、また、日本人クリスチャンがみことばの真理によって日々、罪の力から解放され、「キリストのように」変えられていくように祈ろうではありませんか。

23 日目      目次にもどる      25 日目

Day 25 — 問題によって造り変えられる

神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。(ローマ八・二八)

 どんな分野においても、厳しい訓練や、痛み、苦しみを避けて、容易に目標を達成できる方法はありません。彫刻家が、自分の作品をより良いものに仕上げるため、それに鑢(やすり)をかけるように、神もまた、私たちを「キリストのように」するため、私たちを「試練」という鑢で削られることがあるのです。試練は刑罰ではなく訓練であり、神は試練という人生の訓練を通して私たちに良いものを与えようとしておられるのですが、私たちはそれを受け取る前に、試練に耐えられず、そこから逃げ出してしまうことがあります。

 神はそんな私たちを励ますために、このみことばを与えてくださいました。「神がすべてのことを働かせて益としてくださる。」というのは、大胆な宣言です。なぜ、そんなことを言うことができるのでしょうか。それは、私たちが「神のご計画に従って召された人々」だからです。神のなさることはすべて神のご計画にもとづいています。神はいきあたりばったりのことをなさいませんし、無意味なこともなさいません。神が私たちのために立てていてくださる計画は、私たちに平安と将来と希望を与えるためのものです(エレミヤ二九・十一)。愛をもって私たちのために最善を計画しておられる神、力をもってその計画を遂行される神を信じる私たちは、大胆にこのみことばを口にすることができるのです。

24 日目      目次にもどる      26 日目

Day 26 — 試練を通して成長する

試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。(ヤコブ一・十二)

 「試練」と「誘惑」とは違います。「試練」は神が私たちをきよめるために用いるものですが、「誘惑」はサタンが私たちを駄目にしようとして罪におびきよせるものです。神は「試練」をお与えになりますが、私たちを悪の道に「誘惑」なさることは決してありません。「だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのないお方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。」(ヤコブ一・十三、十四)とある通りです。「試練」からは逃げ出さず、それに耐えなければなりませんが、「誘惑」からはすぐさま逃げ出さなければなりません。「試練」にあう時には神を見上げて忍耐しなければなりませんが、「誘惑」に陥ってしまった時には、真剣に悔い改めなければなりません。

 「試練」と「誘惑」とをしっかり区別したうえで「試練」に耐え忍ぶものには、「いのちの冠」が与えられます。聖書は、私たちにやがて与えられる栄光を「朽ちない冠」(第一コリント九・二五)「義の栄冠」(第二テモテ四・八)「栄光の冠」(第一ペテロ五・四)などの言葉で表現しています。「死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。」(黙示録二・十)との約束を忘れずにいましょう。

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Day 27 — 試練に打ち勝つ

あなたがたの会った試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。(第一コリント十・十三)

 試練のただ中にいる時、私たちはまるで「ほら穴」に閉じ込められたように感じてしまいます。しかし、神によって与えられる試練は「ほら穴」ではなく、「トンネル」です。「ほら穴」には出口はありませんが、「トンネル」には必ず出口があるのです。まっすぐなトンネルなら、遠くに出口が見えますが、まがりくねったトンネルでは出口から差し込んでくる光が見えないので、そこを歩く時、まるでそれが出口のない「ほら穴」のように感じてしまうかもしれません。けれども忍耐をして歩き続けるなら、そこに光を見ることができます。

 もう、十年以上になりますが、会議に出席するため、はじめてハワイに行った時、ダイアモンドヘッドに登ったことがあります。急な登り坂を通って、真っ暗なトンネルに入りました。そこを手探りで進み、狭い通路をくぐり抜けなければならなかったのですが、その後、目の前に現れた素晴らしい光景は今でも忘れることはできません。

 神は、私たちを試練の道を通させますが、それは、神が私たちに、神が私たちの人生に対して持っておられる目的、神の救いの計画、また神ご自身の素晴らしさを見せてくださるためなのです。そのことを思って、試練のトンネルをくぐり抜けましょう。

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Day 28 — 時間がかかる

あなたがたのうちに良い働きをはじめられた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。(ピリピ一・六)

 多くの人が見落としがちなのですが、イエス・キリストによる救いには、「時制」というものがあります。救いには「過去・現在・未来」があるのです。私たちは、すでに救われており、今、救われ続け、そして、やがて救われるということです。救いには「開始」と、「成長」と、「完成」の段階があり、そのそれぞれに私たちのなすべきこと、かかわるべきことがあるのです。

 このように言いますと、「私は救いの完成に至ることができるのだろうか。」と不安になる人もあるでしょう。「私は何をやっても最後まで続かなかった。信仰もそうなるかもしれない。」と心配している人があるかもしれません。私にも、やり始めたけれども完成できなかったものがいくつもあります。健康上の理由や能力の不足、経済事情など、やり遂げることが出来なかった理由もさまざまでしたが、意志の弱さや、信仰や祈りの足らなさも、もちろんありました。しかし、私は、私の救いの完成については思いわずらっていません。救いが神のわざだと知っているからです。救いが人間のわざなら、自分の力でやり遂げなければならないものなら、未完成で終わるかもしれませんが、それが神のわざである限り、かならず完成に導かれるのです。そして、神は、そのような確信を持って神に信頼する信仰を、救いの完成のために用いてくださるのです。

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第四の目的 あなたは神に仕えるために造られた

Day 29 — 与えられた任務を受け入れる

私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。(エペソ二・十)

 ここで使われている「作品」という言葉は、「ポエム」という言葉のもとになった言葉で、そこには「芸術作品」という意味が込められています。私たちはたんなる「製品」ではなく、神が愛を込めてつくってくださった「作品」です。工場で大量に作られる製品は、どれも皆寸分違わず同じものですが、芸術作品はひとつひとつが違っています。たとえば大量生産される陶器類はどれも同じものですが、手作りの陶器には、どれひとつとして同じものはありません。神は、私たちひとりびとりを個性のあふれた、ユニークな作品として作ってくださっているのです。

 一般的な製品であっても、そこには制作者の特別な思いが込められているでしょうが、芸術作品の場合はもっとそうです。神は、キリストのいのちによって罪の中に死んでいた私たちを生かし、私たちをキリストの似姿に再創造してくださいました。芸術作品が作者の人となりを表わすように、神は、私たちを通して、神の栄光を表わそうとしておられます。芸術作品が、制作者のメッセージを伝えるように、神は、私たちを通して、ご自分の愛や恵みを伝えようとしておられます。神の作品である私たちがなすべき「良い行い」とは、私たちが神に造られたことを喜び、神のお心をその存在で表わすことなのです。

28 日目      目次にもどる      30 日目

Day 30 — 神に仕えるために造られた

働きにはいろいろの種類がありますが、神はすべての人の中ですべての働きをなさる同じ神です。(第一コリント十二・六)

 第一コリント十二・四〜六に「さて、御霊の賜物にはいろいろの種類がありますが、御霊は同じ御霊です。奉仕にはいろいろの種類がありますが、主は同じ主 です。働きにはいろいろの種類がありますが、神はすべての人の中ですべての働きをなさる同じ神です。」と書かれています。ここでは、賜物も、奉仕も、働き も、それぞれ見えるところは違っても、おひとりの御霊が与えるもの、おひとりの主に向かうもの、おひとりの神がなさるものであるということが強調されてい ます。そして、御父と御子と御霊はひとつなのです。この箇所は、賜物の違いで認め合わない、奉仕の違いで互いが自己主張をする、働きの違いで競いあうとい うことがあってはならないと教えています。

 「賜物」(カリスマ)は「恵み」(カリス)から出た言葉です。「賜物」は「恵みのあらわれ」であると言ってもよいでしょう。ですから、賜物のことで論争したり、賜物の違いによって互いに斥け合うようなことがあるとしたら、それは、神の恵みにかなわないことです。また、私たちの奉仕によって栄光をお受けになるのは主ただひとりであり、「奉仕」の名を借りてそれで自分が栄誉を受けようとすることも、「仕えられるためではなく、仕えるために」(マルコ十・四五)来てくださった主イエスにふさわしくないことなのです。賜物、奉仕、働きのすべてが神をあがめるものでありますように!

29 日目      目次にもどる      31 日目

Day 31 — 自分の形を理解する

それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。(第一ペテロ四・十)

 この聖句は、賜物に関して三つのことを教えています。第一に、「それぞれが賜物を受けている」ということばは、すべての人がかならず一つ以上の賜物を与えられているということを教えています。「私には賜物がありません。」と言うことができる人は誰もいません。自分の賜物を発見していないだけなのです。

 第二に、私たちは賜物の「所有者」ではなく、「管理者」であるということです。「あなたには、何か、もらったものでないものがあるのですか。もしもらったのなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのですか。」(第一コリント四・七)とあるように、それを自分のものとして誇る権利はありません。また、私たちには賜物の所有者としてそれを使う、使わないということを決める権利はないのです。賜物は、神から管理を託されたものであって、神がそれを必要とされるならそれを差し出し、もし、神が今はそれを必要とされないなら、次に必要な時のために賜物を養い成長させておくのです。

 第三に、「その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい」とあるように、霊的賜物は自分のためにではなく、他者のために用いるということです。お互いがお互いの賜物を必要としています。どんな豊かな賜物も、他者の益のためにという「しもべの心」で用いられないなら、コリント教会であったような混乱の原因となってしまいます。

30 日目      目次にもどる      32 日目

Day 32 — 神から与えられているものを用いる

あなたは熟練した者、すなわち、真理のみことばをまっすぐに説き明かす、恥じることのない働き人として、自分を神にささげるよう、努め励みなさい。(第二テモテ二・十五)

 私たちは、大量にモノを作りだし、それを消費する社会、効率が何よりも優先する社会、またおのおのが自己実現を目指してしのぎを削っている競争社会に生きています。そのような社会の中でクリスチャンまでもが、何かに忙しくしていなければならないかのように思い込み、教会での「奉仕」や「活動」に没頭することが「献身」であるかのように考えてしまうことがあります。確かに神は私たちを「奉仕」に召しておられます。しかし、人間は Human-doing ではなく Human-being です。何かができる、何かをするということに人間の価値があるのではなく、その人の存在そのものに、神を愛して生きる人生そのものに価値があるのです。

 旧約時代、ユダヤの人々は穀物のささげ物や動物の犠牲を神殿に持ってきました。しかし、心は神から遠く離れていて、それは、自己満足のためや他の人の賞賛を受けるためのものになっていました。それで神は「たとい、あなたがたが全焼のいけにえや、穀物のささげ物をわたしにささげても、わたしはこれらを喜ばない。あなたがたの肥えた家畜の和解のいけにえにも、目もくれない。」(アモス五・二二)と言われたのです。神が求めておられるささげものは、私たち自身です。それで、聖書は私たちに、「自分を神にささげるよう、努め励みなさい。」と命じているのです。

31 日目      目次にもどる      33 日目

Day 33 — 真のしもべはどのように行動するのか

私の弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら、まことに、あなたがたに告げます。その人は決して報いに漏れることはありません。(マタイ十・四二)

 偉大な主に対する愛は、「小さい者たち」への愛によって計ることができます。「小さい者たち」というのは、社会的に弱い立場にある人々、助けを必要としている人々のことを指します。もし私たちが貧しい人々やハンディを持っている人々を見下げるようなことがあるなら、主は、私たちを厳しく裁かれるでしょう。主は、審判の時、私たちに「おまえたちは、わたしが空腹であったとき、食べる物をくれず、渇いていたときにも飲ませず、わたしが旅人であったときにも泊まらせず、裸であったときにも着る物をくれず、病気のときや牢にいたときにもたずねてくれなかった。」(マタイ二五・四三)と言われることでしょう。

 助けを必要としている人はあまりにも多くどこから手をつけていいかわからないほどですが、それを言い訳けにせず、まずは、自分たちの回りの助けを必要としている人々、自分たちが助けてあげることができる人々のうちの「ひとり」に助けの手を差し伸べることからはじめましょう。誰も世界のすべての人を助ける力はありません。主も、世界のすべてを助けよとは言っておられません。身近な「ひとり」を助けるようにと教えておられます。マタイ十・四二でも、マタイ二五・四十でも、主は「小さい者たちのひとりに」したことは、主に対してしたことだと言っておられます。

32 日目      目次にもどる      34 日目

Day 34 — しもべのように考える

あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。(ピリピ二・五)

 主イエスは、奉仕する者に「しもべの心」を持つように教えられましたが、それは、人前で自分を卑下してみせるとか、謙遜ぶるとか、信念をまげて人の言いなりになるということではありません。使徒パウロはつねに自分を「イエス・キリストのしもべ」と呼びましたが、それは「私は、キリストのしもべであって、人間のしもべではない。」という主張でもありました(ガラテヤ五・一、六・十八など)。

 キリストのしもべが持たなければならない心とは、主が喜んでくださることを喜びとする心です。神のもとから下って、十字架に向かわれるイエス・キリストを動かしたのは、父なる神のみこころを行なうことを喜びとする心でした。ヘブル十二・二に「イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」とあるとおりです。

 奉仕は、私たちに喜びを与えます。自分が用いられている、誰かの役に立っているということはうれしいことです。ですから、知らず知らずのうちに自分を喜ばせるために「奉仕」に忙しくしてしまうということが起こりかねません。奉仕のほんとうの喜びは、主の喜びを喜ぶことです。そのような喜びで主に仕えることが「しもべの心」です。私たちがそのようなしもべになる時、主は「主人の喜びをともに喜んでくれ。」(マタイ二五・二三)とことばをかけてくださるのです。

33 日目      目次にもどる      35 日目

Day 35 — あなたの弱さの中に働く神の力

しかし、主は、「私の恵みは、あなたに十分である。というのは、私の力は、弱さのうちに完全に現れるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。(第二コリント十二・九)

 ある商人が持っていたふたつの皮袋がありました。商人は、家から市場に通う時にはいつも、両方の皮袋に水を一杯に入れ、それをロバの背中の右と左に乗せ、水に困らないようにしていました。ところが、ロバの左側に乗せられる皮袋はずいぶん古くなっていて、すこしづつ水が漏るのです。それで、ロバの右側に乗せられる新しい皮袋は、いつも、古い皮袋を見下げていました。古い皮袋も、「私は主人のお役に立たないだめな皮袋だ。」と卑下していました。商人は、寒い冬の間も、せっせと同じ道を通い、商売に励み、春がやってきました。するとどうでしょう。市場に通う道の右側には、一本の草もなく、花も咲いていないのに、左側には美しい花がずっと咲き続けているではありませんか。それは、左側の皮袋が漏らした水によって咲いたものでした。主人はその花を刈り取り、市場に持って行き、大変な収益をあげました。古くて、水漏れのする皮袋は、この時、自分の欠けたところが、主人の役に立ったことを喜びました。

 あなたは、水漏れのする皮袋のように、自分の弱さや欠けだけに目を留め、それを嘆いていませんか。そういう人は、弱さや欠けさえも用いてくださる主の恵みに、しっかりと目を向けて欲しいのです。

34 日目      目次にもどる      36 日目


第五の目的 あなたは使命のために造られた

Day 36 — 使命のために造られた

それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。(マタイ二八・十九、二十)

 私は、時々、「主は私たちに不可能なことをお命じになる。」と思ってしまうことがあります。主は「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。」と命じられましたが、身近な人たちでさえ、神のことばに耳を傾けようとしないのに、まして、言葉も文化も違う国の人がどうやって神のことばを聞くのだろうかと思ってしまいます。また、信じてもバプテスマとなると躊躇する人々に多く出会うと、「彼らにバプテスマを授けなさい。」という命令も難しく感じます。まして「彼らを教えなさい。」と言われても、教えられたくない人たちをどうやって教えるのでしょうかと、つい愚痴が口から出てしまいます。

 しかし、主は言われます。「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」主の命令には、この約束が伴っていたのです。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。」(マタイ二八・十八)と言われる主がともにおられるのです。主のどの命令にも、それを可能にする主の約束が伴っています。「それゆえ…見よ。」とのことばを絶えず自分に言い聞かせ、神の約束を見つめたいと思います。

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Day 37 — 自分のライフ・メッセージを分かち合う

むしろ、心の中でキリストを主としてあがめなさい。そして、あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。ただし、優しく、慎み恐れて、また、正しい良心をもって弁明しなさい。そうすれば、キリストにあるあなたがたの正しい生き方をののしる人たちが、あなたがたをそしったことで恥じ入るでしょう。(第一ペテロ三・十五、十六)

 キリストは、私たちを通してこの世界に何かを語りたいと願っておられます。私たちの人生の目的のひとつは、キリストのメッセンジャーとなることです。そして、この聖句は、キリストのメッセンジャーに必要な三つのことを教えています。

 第一は「キリストを主としてあがめなさい。」とあるように、キリストを主と信じる信仰です。キリストのメッセンジャーが、キリストの権威を確信していなければ、決して力をもってそのメッセージを伝えることはできません。

 第二に「説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。」とあるように、私たちの信じていることを、いつでもだれにでも説明できる用意です。自分が理解していないものを人に説明することはできません。実際的で、信仰的な聖書の学びが必要です。

 第三に必要なものは「正しい生活」です。どんな弁舌や論証よりも力あるものは、「正しい生活」です。キリストのメッセンジャーは、ことばだけでキリストのメッセージを伝えるのではなく、その生活によって伝えなければならないのです。

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Day 38 — ワールドクラス・クリスチャンになる

それは、あなたの道が地の上に、あなたの御救いがすべての国々の間に知られるためです。(詩篇六七・二)

 私たちの人生は「御救いがすべての国々の間に知られるため」に存在しています。聖書は「日から日へと、御救いの良い知らせを告げよ。その奇しいわざを、すべての国々の民の中で。」(詩篇九六・二、三)とも言っています。しかし、どのようにしたらキリストの救いを知らせることができるのでしょうか。どこから始めればよいのでしょうか。

 それは難しいことではありません。キリストの救いをどのようにして求めたか、どのようにしてそれを知り、信じたか、そして、救われた後、どのようにあなたの人生が変わったかを書くことから始まるのです。教会ではそれを「あかし」と呼んでいますが、あかしは自叙伝でも説教でもありませんので、長々と自分のことを語ったり、「あなたもキリストを信じてください。」などと言う必要もありません。キリストとの出会いの体験をあるがままに語れば良いのです。

 あかしを書き終えたら、まず教会でそれを話してください。教会には、キリストを信じる者やキリストを求める人が来ていますから、みんながそれを聞き入れてくれます。教会であかしができなければ、教会の外であかしをすることはできません。教会でのあかしは、教会の外でのあかしの練習だと思ってください。まだあかしを書いていない人がいましたら、四十日が終わるまでにあかしを書き終えてください。

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Day 39 — 人生のバランスを保つ

そういうわけですから、賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し、機会を十分に生かして用いなさい。(エペソ五・十五)

 神は、私たちに、能力と財産と時間をお与えになり、それらを賢く管理するように命じておられます。能力は、それぞれに違いますし、神がお任せになった財産にも多い少ないがあります。しかし、時間は、どこの誰にも平等に与えられています。宮殿で暮らす人にも路上で寝なければならない人にも、一日は二四時間、一週間は一六八時間で、違いはありません。

 しかし、この一日二四時間、一週間一六八時間をどう使うかは、人によって違います。それをゆったりと、豊かに使う人もあれば、朝から晩まで、年中せかせかしながら使う人もあります。喜びと感謝のうちに過ごす人もあれば、思いわずらいながら過ごす人もあります。それを有効に用いて何かを成し遂げる人もあれば、無為に時を過ごす人もあります。

 財産は失っても、また増やすことができますが、時間は一度失ったら取り返すことができません。財産よりも時間のほうが大切なことは、財産は十分の一ですが、時間は七日のうち一日、つまり七分の一をささげるよう命じられていることからもわかります。「機会を十分に生かして用いなさい。」は、原語を直訳すれば「時を贖う」となります。キリストが私たちを贖ってくださったほどに私たちを大切にされたように、私たちも時間を主のために大切にするようにと教えられているのです。

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Day 40 — 目的をもって生きる

ダビデは、その生きていた時代において神のみこころに仕えて後、死んで先祖の仲間に加えられ、ついに朽ち果てました。(使徒十三・三六)

 ダビデはイスラエルの歴代の王たちの間で最も高く評価されています。彼は、イスラエルの王たちの模範となりました。彼の後の王たちは、「ダビデのようであったか、なかったか」で評価されています(第二歴代誌二八・一、二九・三など)。ダビデは、自分の部下の妻を自分のものにし、その部下を戦場で死なせたという大きな罪を犯し、息子のひとりからクーデタを起こされるという政治上の失敗もありました。なのに、彼が後の時代の王たちの模範になったのはなぜでしょうか。

 それは、聖書がダビデの成し遂げたことよりも、彼の神への姿勢を評価しているからです。「ダビデ」という名には「神に愛された者」という意味がありますが、ダビデは、じつに神に愛され、また神を愛した人でした。神を愛したからこそ、彼はつねに神の前に謙虚になり、罪を悔い改め、失敗を乗り越えることができたのです。ダビデは「神を愛する」という最も大切な「人生の目的」に生きたので、「神のみこころ(目的)に仕えた」と言われているのです。

 この人生の目的を忘れると、私たちの一生は人からの評価を得るためにあくせくするだけで終わってしまいます。私たちは生涯を終える時、神からどのような評価をいただけるでしょうか。神の目的にかなった生涯を送るために、それを自分の生涯を閉じる日から考えてみるのが良いのかもしれません。

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