あなたのただ中に

ゼパニヤ3:14-17

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3:14 シオンの娘よ。喜び歌え。イスラエルよ。喜び叫べ。エルサレムの娘よ。心の底から、喜び勝ち誇れ。
3:15 主はあなたへの宣告を取り除き、あなたの敵を追い払われた。イスラエルの王、主は、あなたのただ中におられる。あなたはもう、わざわいを恐れない。
3:16 その日、エルサレムはこう言われる。シオンよ。恐れるな。気力を失うな。
3:17 あなたの神、主は、あなたのただ中におられる。救いの勇士だ。主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与える。主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる。

 この時期、いたるところでクリスマスの曲が流れています。ショッピング・モールで流れるクリスマス・キャロルは、クリスマスを祝うためではなく、財布の紐をゆるめるためかもしれませんが、それでも、クリスマスの曲を聞くとやはり、うれしく、楽しい気持ちになります。"Joy to the World" という賛美のように、ほとんどのクリスマスの賛美は、「喜び」を表わす軽快なメロディで、「喜び」を歌っているからです。

 クリスマスの「喜び」は私たちを浮かれた気分にするものではありません。それは、どんな時にも、ふつふつとの心に湧き上がってくる深い喜びです。病気の時も、経済的に苦しい時も、問題を抱えている時も、子どもに振り回されている時も、他の人と衝突してしまった時も、自分の至らなさに嘆いている時でも、この喜びは、私たちを支えてくれるものです。

 今朝は、クリスマスの喜びについて、それが、「成就の喜び」、「回復の喜び」、また「臨在の喜び」であることをご一緒に考えてみましょう。

 一、成就の喜び

 クリスマスの喜びは第一に「成就の喜び」です。ゼパニヤ書3:16に「その日、エルサレムはこう言われる。シオンよ。恐れるな。気力を失うな」とあります。神が約束した救いの日が来る。そのとき、人々は神の約束の成就を見て喜ぶ、と預言しているのです。

 聖書は、その始めから、神の救いの日が来る、救い主がやって来ると預言しています。最初の預言は創世記3:15にあります。「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」これは救い主がひとりの女性から生まれること、人々の敵意の的となり十字架に追いやられること、しかし、救い主は、その死によって死を滅ぼし、敵意を取り除くことが示されています。

 この預言がエバに与えられて、いったいどれほどの長い年月が経ったことでしょうか。今から二千年前、救い主イエスは、マリヤからお生まれになってこの預言を成就しました。最初の人アダムは神への不従順によって世界に死をもたらしましたが、最後のアダムであるイエスは、十字架の死に至るまで、神に従順に従い、信じる者にいのちをもたらしてくださいました。また、エバは神のことばを疑い、誘惑に乗り、そのきよさを失ってしまいましたが、マリヤは、「おことばどおりこの身になりますように」(ルカ1:38)と、神のことばを受け入れ、きよい神の御子を産みました。神の御子は「イエス」と名付けられ、「ご自分の民をその罪から救ってくださる方」(マタイ1:21)となられました。クリスマスは、アダムとエバの時代から約束されていた救いが成就した日だったのです。

 神は、この救いをより具体的に示すため、イスラエルをお選びになりました。神は、イスラエルを、モーセによってエジプトから、ヨシュアやダビデによってカナンの王たちから救い、それによって神の救いがどんなものであるか、救い主がどのようなお方かをあらかじめ示されたのです。やがてイスラエルはアッシリヤに、ユダはバビロンに滅ぼされます。いったん復興するのですが、イエスの時代にはローマ帝国の属国となり、大きな苦しみの中にありました。人々は、苦しみの中で、神の救いの日と救い主の到来を待ち望みました。

 ゼパニヤが「その日」について預言したのは、ユダの国がバビロンに滅ぼされる20年前のことです。ユダはバビロンに滅ぼされて70年してから復興するのですが、ユダの復興は、まだ最終的な救いの時ではなく、それからさらに500年してイエス・キリストによって救いが成就したのです。人々は、何世代にもわたって救いを待ち望み、ついに、イエスの誕生によって、神の救いを見たのです。苦しみが大きければ大きいほど、また、苦しみの期間が長ければ長いほど、その苦しみに耐えた後に受ける喜びは、何倍もの大きな喜びになります。クリスマスの喜びは、そんな忍耐の後に受けた大きな喜びだったのです。

 かつての子どもたちは、お正月や誕生日にならないと、欲しいもの買ってもられえませんでした。誕生日が来るまで、お正月になるまで我慢したものです。今は、多くの子どもたちが、欲しいものを、欲しい時に買ってもらえるようなったので、子どもたちも、何かをもらってもあまり喜ばない、それを大事に使わないことが多くなったように思います。大人も、お金がなくてもクレジットカードで簡単に物を買えてしまいますので、何年も、何ヶ月もお金を貯めて欲しいものをやっと手に入れるということがなくなり、忍耐の後に手に入れる喜びもなくなりました。

 物は簡単に手に入っても、私たちに本当に必要なもの、たましいの救いや喜びは、物を手に入れるようなわけにはいきません。私たちの救いは決して自分の力によって手に入れられるものではなく、それはキリストが成し遂げてくださった救いの御業によるものです。けれども、だからと言って、救いは「棚から牡丹餅」のようにやってくるものではありません。救いを受け取るためには、自分は罪人であり、自分で自分を救うことがでいない無力な者であることを認める、悔い改めから始まらなければならないからです。人間にはプライドがあって、どうにかして自分の力に頼ろうとするのですが、一旦、自分の無力を認めることができたなら、そのあとは、全能の神に自分を任せる信仰が必ず伴ってきます。信仰の階段は、まず、自分の内面に降りていくことから始まります。そのことは「モノ」の世界に浸りきっている現代人には難しいことかもしれませんが、神の言葉が信仰の階段を導いてくれます。神のことばを学び続け、忍耐深く、一歩づつ、信仰の歩みを進めていきましょう。そのとき、私たちは主の救いを見ることができ、思っても見なかった大きな大きな喜び、深い喜びを発見するのです。

 聖書に「今は恵みの時、今は救いの日」(コリント第二6:2)とあるように、今は、すでに、主イエスの救いが成就しており、イエス・キリストを信じる者は、その恵みと救いの中に入れられています。しかし、キリスト者が不信仰になって、そこから迷い出て、救いの喜びを失ってしまうこともあります。そんな日々は、とても重く、長く感じられるものです。しかし、旧約の信仰者たちは、何年も、何百年も、神の救いの日を待ち望んだのですから、私たちも決してあきらめず、その日を待ちましょう。神は、忍耐して待った分だけ、大きな喜びで私たちに報いてくださるのです。

 二、回復の喜び

 クリスマスの喜びは、第二に「回復の喜び」です。ゼパニヤが3:16で預言した「その日」はユダの国の復興の日のことでした。復興、回復というからには、ユダの国がいったん滅びたのです。ゼパニヤがこの預言の言葉を書き記したのは、ユダの王ヨシヤの治世の末期です。ヨシヤはユダの国に信仰の復興をもたらし、ユダは一時的に持ち直しました。ゼパニヤは人々がユダの国がまだ大丈夫と思っていたときに、ユダの国の滅亡を告げました。ゼパニヤが1章で「主の日は近い」(1:7)と言った「主の日」とは、主がユダの不信仰と不道徳、不法と不正を裁く日、「主の怒りの日」(2:2-3)のことでした。1:10-11には、「その日には、──主の御告げ。──魚の門から叫び声が、第二区から嘆き声が、丘からは大いなる破滅の響きが起こる。泣きわめけ。マクテシュ区に住む者どもよ。商人はみな滅びうせ、銀を量る者もみな断ち滅ぼされるからだ」とあります。ゼパニヤのこの預言の後ヨシヤ王は、エジプトとの戦いで亡くなり、ヨシヤ王の死後、ユダの国はまたたく間に滅亡に突き進んでいきました。神の怒りの日は、ゼパニヤの預言どおり、エルサレムに臨みました。

 しかし、3章で言われている「その日」は回復の日のことです。3:11−13にこう書かれています。

その日には、あなたは、わたしに逆らったすべてのしわざのために、恥を見ることはない。そのとき、わたしは、あなたの中からおごり高ぶる者どもを取り去り、あなたはわたしの聖なる山で、二度と高ぶることはない。わたしは、あなたのうちに、へりくだった、寄るべのない民を残す。彼らはただ主の御名に身を避ける。イスラエルの残りの者は不正を行なわず、偽りを言わない。彼らの口の中には欺きの舌はない。まことに彼らは草を食べて伏す。彼らを脅かす者はない。
神は、捕虜となって外国に曳かれていったイスラエルの人々を祖国に連れ戻したでなく、人々が神の裁きを受ける原因になった高慢、不正、偽り、欺きを人々から取り除き、霊的にも復興してくださるのです。神は、イスラエルを赦し、受け入れてくださるのです。ですから、1:11で「泣きわめけ」と言われていたのに、3:14では「シオンの娘よ。喜び歌え。イスラエルよ。喜び叫べ。エルサレムの娘よ。心の底から、喜び勝ち誇れ」と言われているのです。ゼパニヤ書はとても短い書物ですが、それにしても、わずか数行のうちに、神の裁きから神の救いへ、神の怒りから神の恵みへとテーマが移っています。それは、神がたとえ、人の罪に対して怒ることがあっても、その罪のために苦しんでいる人々に対して、すぐさまあわれみの心を動かしてくださるお方であることを教えています。

 詩篇30:5に「まことに、御怒りはつかの間、いのちは恩寵のうちにある。夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある」とあります。実際的にも、精神的にも、問題を抱え、重荷を背負っている人でも、日中忙しく働いているときには、それを忘れることができます。しかし、仕事が一段落して、ふと我に返ると、あの問題が、この重荷が、再び心を占領してしまうのです。皆さんにも、そんな体験はありませんか。だから、多くの人は、いつも自分を忙しくして気を紛らわせようとするのですが、それには何の解決もありません。けれども、神の前に涙を流し、抱えている問題の解決を神に訴え、自分の重荷を神に委ねて祈るなら、神は、必ず、次の日を、今日と同じにはなさいません。「夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。」涙の種は、喜びの刈り入れとなるのです。

 神は、放蕩息子の父親のようなお方です。あの父親は、放蕩息子が親からもらった財産を使い果たし、親の顔に泥を塗るようなことをしました。なのに、父親は息子を心配し続け、自分のところに返ってくるのを待っていました。そのように、神も、私たちが神のもとに立ち返るのを、私たちの回復を待っていてくださるのです。父親が、息子の過去を一切赦し、彼に靴を履かせ、晴れ着を着せ、指輪をつけさせ、もとどおりの息子として受け入れたように、神は、神に立ち返る者に、神の子どもとしての身分を、特権を、まじわりを与えてくださるのです。父親の家で肥えた子牛をほふっての宴会が始まったように、神は、罪びとの回復を、天で、天使たちと共に大いに喜んでくださるのです。

 主イエスは言われました。「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」(ルカ19:10)神の御子が人となられたのは、神から遠く離れていた私たちを神のもとに連れ戻すためでした。このクリスマス、私たちのからだは教会に来ており、礼拝堂の座席を温めています。しかし、その心はほんとうに、この愛の神のお心のうちにあるでしょうか。神は、回復の神です。私たちは、大きなことでなくても、ほんのささいなことでも信仰をなくしやすいものです。さまざまなことで希望がくじかれ、愛を失ってしまいます。そんな私たちは、日毎に、日曜日ごとに、また、聖餐を守るたびに、神に立ち返り、神によって信仰を回復していただかなくてはなりません。そうするなら、神はかならず、私たちに回復の喜びを与えてくださいます。このクリスマス、私たちも、失われた自分が見出され、失くしかけていた信仰が息を吹き返す、そのような喜びにあずかりたいと思います。

 三、臨在の喜び

 クリスマスの喜び、それは「臨在の喜び」です。「臨在」(presence)は「存在」(existence)とは違います。神の存在は悪霊でも知り、認めています。ヤコブ2:19に「あなたがたは、神はおひとりだと信じていますか。りっぱなことです。ですが、悪霊どももそう信じて、身震いしています」とあります。信仰とは、たんに神の「存在」を認めることではなく、神の「臨在」を信じ、それを喜ぶことです。

 では、「臨在」とは何でしょう。それは、神が、私たちのために、私たちと共に、私たちのただ中にいてくださるということです。「臨在」は神がくださる恵みの中で最高のものであり、信仰者のたましいが求めてやまないものです。神は、信じる者に知恵や力、平安や慰め、祝福や導きなどをくださいますが、「臨在」の恵みでは、知恵や力、平安や慰め、祝福や導きなどの与え主そのものを、いただくのです。これこそは、信仰者の特権、最も深い喜びです。

 ゼパニヤ3:14-17には、二度も「主は、あなたのただ中におられる」と言われています。しかも、「イスラエルの王」(15節)として、「救いの勇者」(17節)として、神の民と共にいてくださるのです。たとえ、神が私たちの身近におられたとしても、それが、私たちを懲らしめるため、私たちを裁くためであったとしたら、私たちには何の慰めにも、力にもなりません。しかし、主が、「私はあなたの王だ。私は、あなたと一緒にいてあなたを守る」と言われたら、どんなに心強いでしょうか。「私は救いの勇士だ。あなたの罪はもう赦されている。私はあなたを受け入れた。私は、あなたと一緒にいて、あなたを敵の手から救い出す」と言われたら、もう、飛び上がって喜ばずにはおれません。

 クリスマスの喜びは、神が、私の裁き主としてでなく救い主として、敵としてでなく味方として来てくださり、私を赦し、受け入れ、私を喜ぶために来てくださったことにあるのです。「主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与える。主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる。」(3:17)だから、聖書は私たちに「喜び歌え。…喜び叫べ。…喜び勝ち誇れ。」(3:14)と言うのです。

 クリスマスはイエスの誕生日ではありません。イエスの誕生日がいつであったかは誰も知りません。ヨセフとマリヤは人口調査のため、ガリラヤから生まれ故郷のベツレヘムに来ていましたから、そこで生まれたイエスの名と誕生日は、その時の人口調査に記録されたかもしれません。けれどもイエスの誕生日が何月何日かということは大切なことではありません。もっと大切なことは、神が人となって私たちのただ中にいてくださったということです。クリスマスのお祝いは、プレジデント・デーとは違います。プレジデント・デーはジョージ・ワシントンやアブラハム・リンカーンの誕生日にあやかって、仕事を休むだけのものです。クリスマスはイエスの誕生日を祝うものではなく、イエスの誕生そのものを祝うものです。神の御子が人となって生まれてくださったことによって、ゼパニヤ書をはじめ、聖書がそろって預言しているように、神が私たちと共におられ、私たちの神となり、私たちが神の民、またその子どもとなるという約束が成就したからです。

 クリスマスの喜び、それは主が、私たちのただ中に、私たちの救い主、私たちの救い主としておられるという喜びです。主は私たちを赦し、受け入れてくださったのですから、私たちも主を、私たちの心のうちに迎え入れましょう。主が私たちを愛しておられるのですから、私たちも主を慕いましょう。主が私たちのただ中にいてくださるのですから、私たちも主の内に留まっていましょう。主が私たちを喜んでくださるのですから、私たちも大いに主を喜ぼうではありませんか。そのようにして、クリスマスの喜びを一杯に味わいたいと思います。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたは、人類に長い間約束してこられたことを、御子のお生まれによって成就してくださいました。御子は、あなたから離れていた私たちを、あなたのもとへと連れ戻してくださいました。また、あなたは、「あなたのただ中にいる」と誓ってくださいました。このクリスマス、あなたがくださる成就の喜び、回復の喜び、臨在の喜びを、豊かに与えてください。私たちの身近なところで、困難に耐えている人々を、あなたの臨在をもって励まし、慰めてください。共にいてくださる主、イエス・キリストのお名前で祈ります。

12/16/2012