ルツの従順

ルツ記2:1-10

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2:1 さてナオミには、夫エリメレクの一族で、非常に裕福なひとりの親戚があって、その名をボアズといった。
2:2 モアブの女ルツはナオミに言った、「どうぞ、わたしを畑に行かせてください。だれか親切な人が見当るならば、わたしはその方のあとについて落ち穂を拾います」。ナオミが彼女に「娘よ、行きなさい」と言ったので、
2:3 ルツは行って、刈る人たちのあとに従い、畑で落ち穂を拾ったが、彼女ははからずもエリメレクの一族であるボアズの畑の部分にきた。
2:4 その時ボアズは、ベツレヘムからきて、刈る者どもに言った、「主があなたがたと共におられますように」。彼らは答えた、「主があなたを祝福されますように」。
2:5 ボアズは刈る人たちを監督しているしもべに言った、「これはだれの娘ですか」。
2:6 刈る人たちを監督しているしもべは答えた、「あれはモアブの女で、モアブの地からナオミと一緒に帰ってきたのですが、
2:7 彼女は『どうぞ、わたしに、刈る人たちのあとについて、束のあいだで、落ち穂を拾い集めさせてください』と言いました。そして彼女は朝早くきて、今まで働いて、少しのあいだも休みませんでした」。
2:8 ボアズはルツに言った、「娘よ、お聞きなさい。ほかの畑に穂を拾いに行ってはいけません。またここを去ってはなりません。わたしのところで働く女たちを離れないで、ここにいなさい。
2:9 人々が刈りとっている畑に目をとめて、そのあとについて行きなさい。わたしは若者たちに命じて、あなたのじゃまをしないようにと、言っておいたではありませんか。あなたがかわく時には水がめのところへ行って、若者たちのくんだのを飲みなさい」。
2:10 彼女は地に伏して拝し、彼に言った、「どうしてあなたは、わたしのような外国人を顧みて、親切にしてくださるのですか」。

 一、神の導き

 イスラエルにあった飢饉を避けてモアブに移り住んだナオミは、そこで夫に先立たれたばかりか、ふたりの息子までも亡くしました。そんなとき、ナオミはイスラエルの飢饉が去ったと聞き、故郷のベツレヘムに帰ることにしました。ナオミは、モアブ人のふたりの嫁、オルパとルツを説得して、実家に帰るように勧めました。オルパは、ナオミの言葉に従って実家に帰りましたが、ルツは、どこまでもナオミについていくと言い張りました。それで、ナオミはルツを連れてベツレヘムに帰っていきました。

 ベツレヘムに帰っても、夫エリメレクの地所は人手に渡り、ナオミとルツには生計を立てる手段がありませんでした。それで、ルツは「落ち穂拾い」をすることになりました。旧約の律法にこうあります。「あなたがたの地の穀物を刈り入れるときは、その刈入れにあたって、畑のすみずみまで刈りつくしてはならない。またあなたの穀物の落ち穂を拾ってはならない。貧しい者と寄留者のために、それを残しておかなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。」(レビ23:22)生活に困っている人たちは誰の畑であっても、落ち穂を拾って自分のものにすることが許されていました。ナオミとルツがベツレヘムに到着したのは、ちょうど大麦の収穫の時でしたので、ルツは、当分の間の食べ物を得るため落ち穂拾いに出かけたのです。

 そして、ルツが行った畑は、ナオミの夫エリメレクの親族のひとりボアズの畑でした。ルツ記は「彼女は“はからずも”エリメレクの一族であるボアズの畑の部分にきた」(3節)と言っています。ルツは、ベツレヘムに来たばかりで、おそらくナオミの夫エリメレクの親戚については何も聞いていなかったでしょう。ボアズがその親戚の中でも有力な人物であることは知らなかったのです。まさに、ルツは「はからずも」、偶然に、親族の畑で落ち穂拾いをし、その所有者から親切を受けることになったのです。このことは、ルツにとってはまったくの偶然でしたが、しかし、そこには、神の不思議な導きがありました。ルツがボアズから受けた親切をナオミに話したとき、ナオミはこう言いました。「生きている者をも、死んだ者をも、顧みて、いつくしみを賜わる主が、どうぞその人を祝福されますように。その人はわたしたちの縁者で、最も近い親戚のひとりです。」(ルツ2:20)ナオミは、ルツがボアズの畑に行ったのは決して偶然ではない、その背後に神がおられ、神が導いてくださったのだということを悟りました。

 神が世界を、またわたしたちの人生を導いておられることを「摂理」と言います。愛の神は、その全能の力で、その量り知れない知恵によって信じる者の人生を導いてくださっているのです。あの時、偶然だと思ったことも、あとで振り返ってみると、神の計画であり、備えであったと分かることが多いかと思います。中世の神学者トマス・アクィナスは「神は、ものごとが偶然起こるように定められた」と言いました。人の目には偶然と思えることも、神にとっては偶然ではない。神は、わたしたちが偶然と思えるようなことがらを通してでも、わたしたちの人生を導いておられる。これは、そうしたことを言っている言葉です。わたしたちにとって好ましいことが起こったときには、その背後に神の恵みがあるのですから、神に感謝しましょう。逆に、好ましくないこと、困難なことや、悲惨なことが起こったとしても、そこにも神のご計画があって、「神は、…万事を益となるようにして下さる」(ローマ8:28)のですから、摂理の神を信じ、困難や問題を乗り越えていきたいと思います。

 二、人の信仰

 神は、ルツを親族のボアズに出会わせてくださいました。それは偶然ではなく、そこには神の導きがありました。わたしたちの人生は、神の導きのもとにあります。しかし、それは、わたしたちが、人生という舞台で、まるであやつり人形のように踊らされているということではありません。神は、決してそのようにはなさいません。人に自由や意志をお与えになったのですから、神は、人の自由や意志を無視なさることなく、常に人と関わり、人とともにものごとをなさるのです。歴史を導かれるときには、国々がどのように神に従うかをご覧になって、ものごとを決められます。ヨナの宣教によってニネベの人々が悔い改めたとき、神はニネベを滅ぼすことをお止めになりました。病気で死ぬと宣告されたヒゼキヤ王が、熱心に神に祈ったとき、神は彼に15年の寿命を加えてくださいました。神は、人の祈りを聞き、人の信仰にこたえ、人とともに働かれるお方なのです。

 さきほど引用したローマ8:28はこう言っています。「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。」神が「万事を益となるようにして下さる」のは、「神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて」なのです。口語訳以外の翻訳では「召された者たちのために」となっていますが、そう訳されていても、そこには「召された者と共に」という意味が含まれています。信仰者は神が「ご計画に従って召された者たち」です。そうであるなら、信仰者は、神の計画というベルトコンベアに乗って、自動的にゴールに到達するのかというと、決してそうではありません。信仰者は、罪と死と滅びから救い出してくださった神に愛されていることを知って、こんどは「神を愛する者」へと変えられ、神を愛することの中で、神のご計画に従って、祝福のゴールへといたるのです。神は、ご自分の御子をわたしたちの罪の身代わりになさるほどに、わたしたちを愛してくださいました。信仰とは、この愛を受けとることです。そして、このわたしを愛してくださった神を愛し返すことです。神に愛され、神を愛するという、愛の関係の中で、人生における神の計画が進んでいくのです。

 ナオミは、ルツがボアズに出会ったことに、神のご計画を見出しました。ナオミは、イスラエルの人でしたから摂理の神への信仰がありました。ルツには、ナオミが持っていたような洞察はありませんでしたが、ルツには「あなたの神はわたしの神」と告白した、神への信仰がありまた。しゅうとめであると同時に、信仰の先輩であるナオミに対する従順さがありました。ルツは、モアブの神々からまことの神へと立ち返ったばかりで、主なる神についてイスラエルの人々が持っていたような知識を持っていませんでしたが、ルツにはナオミから教えられるままに、素直に神に従うという「従順」があったのです。

 ルツは、その従順によって「あなたの神はわたしの神」という信仰の告白がほんものであったことを証明しました。ルツのこの信仰と従順は、ボアズの耳にさえ入っていました。それでボアズはルツに「あなたの夫が死んでこのかた、あなたがしゅうとめにつくしたこと、また自分の父母と生れた国を離れて、かつて知らなかった民のところにきたことは皆わたしに聞えました。どうぞ、主があなたのしたことに報いられるように。どうぞ、イスラエルの神、主、すなわちあなたがその翼の下に身を寄せようとしてきた主からじゅうぶんの報いを得られるように」(ルツ2:11-12)と言ったのです。ボアズのルツに対する親切は、たんに彼女が素敵な女性だったからとか、かわいそうな身の上だからというのでなく、彼女の信仰と従順に感心してのことだったのです。

 信仰と従順とは一体で、別々のものではありません。 “Trust and Obey”(新生讃美歌510)という賛美のおりかえしに “Trust and obey, for there’s no other way; To be happy in Jesus, but to trust and obey.”(信頼と服従こそ、他にないイエスにある幸いの道)とある通り、信仰は「信頼」と「服従」から成り立ちます。神への信頼がなければ神に服従することはできませんし、服従がなければ、神への信頼を表わすことはできません。神に信頼する者は、自分の思い通りのことを果たそうとしたり、自分の好む道を選ぶのでなく、神の言葉、神の導きに従おうとします。日頃、何も考えないで習慣的にしていることでも、「神さま、これでいいのでしょうか」と、みこころを問い直してみませんか。それが服従の道です。「信頼」と「服従」、このふたつを右足、左足のようにして歩み続けていく、それが信仰の生活です。

 ルツにはこの従順さがありました。だからこそ、神がとりはからってくださったボアズとの出会いが、のちに大きな祝福となっていったのです。神はわたしたちの日常の中に働き、わたしたちをさらなる祝福に導こうとしておられます。日常の中で、小さなことであっても、神とその御言葉、みこころに従順な者となり、神の祝福を受ける者となりたいと思います。

 (祈り)

 主なる神さま、ルツは、その従順によって、あなたの導きの中に生き、大きな祝福を受けました。そのように、わたしたちもあなたへの従順な心と歩みによって、あなたの恵みの中を歩き続けることができるよう、助け、導いてください。主イエスのお名前で祈ります。

11/19/2017