ルツの信仰

ルツ1:15-18

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1:15 そこでナオミは言った、「ごらんなさい。あなたの相嫁は自分の民と自分の神々のもとへ帰って行きました。あなたも相嫁のあとについて帰りなさい」。
1:16 しかしルツは言った、「あなたを捨て、あなたを離れて帰ることをわたしに勧めないでください。わたしはあなたの行かれる所へ行き、またあなたの宿られる所に宿ります。あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神です。
1:17 あなたの死なれる所でわたしも死んで、そのかたわらに葬られます。もし死に別れでなく、わたしがあなたと別れるならば、主よ、どうぞわたしをいくえにも罰してください」。
1:18 ナオミはルツが自分と一緒に行こうと、固く決心しているのを見たので、そのうえ言うことをやめた。

 66巻の聖書に、女性の名前で呼ばれる書物がふたつあります。ひとつは「エステル記」で、もうひとつが「ルツ記」です。「ルツ記」と「エステル記」では書かれた時代も内容も大きく違っていますが、両方とも、女性の信仰と従順、また勇気が描かれています。聖書には、ノア、アブラハム、ヨセフ、モーセ、ヨシュア、カレブなど、信仰の人々が数多く書かれていますが、同時に、女性たちの信仰についても多く語られています。女性が軽んじられていた古代ですが、聖書は、女性の信仰を、また、信仰に生きた女性たちを賞賛しています。信仰においては、男性も女性もなく、まことの信仰者は、その信仰によって神に受け入れられ、喜ばれ、他の人々や社会に大きな影響を与えることができると教えています。きょうはルツの信仰を学ぶのですが、ルツに信仰を証ししたのはナオミでしたから、ナオミのことから学ぶことにしましょう。

 一、ナオミの証し

 ナオミは、夫エリメレクと、ふたりの男の子、マロンとキリオンと一緒にベツレヘムに住んでいましたが、イスラエルに起こった飢饉のため、外国のモアブに、一家をあげて移住しましたが、夫がモアブの地で亡くなってしまいました。しかし、彼女は夫が亡くなったあとも、モアブの地で生活していました。ルツ1:4に、ナオミはモアブに10年住んだとありますから、10年のうちに息子たちも成長し、それぞれモアブの女性と結婚するようになっていました。嫁のひとりはオルパと言い、もうひとりがルツでした。ナオミはオルパとルツふたりの姑となったのです。

 「しゅうとめ」は漢字で「姑」(古い女)と書きます。ずいぶん失礼な漢字ですが、一般的には、姑と嫁との間には、様々な行き違いやトラブルが起こるものです。ナオミにとっては、オルパもルツもモアブの女性、外国人です。言葉の壁や習慣の違いも手伝って、いさかいが起こるのが常です。それにふたりの嫁を公平に扱うのは並大抵のことではありません。気を使っていても、一方に優しくし、一方につらくあたるようなことがないとは言えません。また、嫁ふたりが姑からよく思われようと張り合うようなことが起こらないともかぎりません。聖書には、親族の間でのそうしたトラブルが書かれています。しかし、ルツ記には、ナオミとオルパやルツとの間にトラブルがあったとは書かれていません。嫁のオルパやナオミは姑のナオミをとても慕っていました。ナオミの家族は、お互いが良い関係を持ち、幸いな家庭でした。聖書に書かれている人と人との美しい関係を読むとき、心が温かくなります。そして、その秘訣が神を信じる信仰にあることを知るとき、とても励まされます。

 「ナオミ」という名には「楽しみ」という意味があります。ナオミはその名のように、外国の地で夫を亡くすという大変なことに遭っても、それを乗り越えました。それは、たんにナオミが楽天的であった、積極的であったということではなく、彼女が主を自分の楽しみとする信仰を持っていたからだったと思います。詩篇にこうあります。「いと高き者よ、あなたによって、わたしは喜びかつ楽しみ、あなたの名をほめ歌います。」(詩篇9:2)「あなたはいのちの道をわたしに示される。あなたの前には満ちあふれる喜びがあり、あなたの右には、とこしえにもろもろの楽しみがある。」(詩篇16:11)この世の楽しみはやがて消え去ります。しかし、主を楽しみ、主を喜ぶことは決して消えることがありません。主を喜びとすることによって、人生は必ず切り開かれていくのです。実際、ナオミはこの後、ふたりの息子を亡くし、自分の不幸を嘆きますが、神への信仰を失うことはありませんでした。そして、その信仰によってナオミは、のちに、大きな祝福を受けるのです。

 ナオミはモアブの地に住みはしましたが、決してモアブの神々には心を寄せませんでした。むしろ、ふたりの嫁、オルパとルツにイスラエルの神、主がどんなに力があり、また、恵み豊かであるかを、言葉とともに、その生活においても示しました。ルツは「あなたの神はわたしの神です」(ルツ1:16)との信仰の告白にいたるのですが、ルツをこの告白に導いたのはナオミでした。しかし、ナオミは姑の権威で嫁に信仰を押し付けたのではありません。信仰はそのようなことで人に伝えられるものではありません。また、ナオミは「イスラエルの宗教」を守っていただけの人ではありませんでした。もしそうなら、イスラエルの宗教では異教徒を嫌いましたから、ナオミは異教徒の嫁たちを嫌ったり、軽蔑の目で見たりしたかもしれません。けれども、ナオミはまことの生ける神を知る人でしたので、異教徒の嫁に対しても優しく、また誠実に接しました。そして、それを通して、神のいつくしみを示したのです。

 イスラエルに住んだこともなく、イスラエルの宗教儀式を見たこともないルツにとって、神は「ナオミの神」でした。ルツは、自分に、いや自分ばかりでなく、もうひとりの嫁オルパにも公平に接してくれるナオミを通して神を知るようになったのです。よく「人を見ないで神を見なさい」という忠告を聞きますが、多くの人は、その人自身が神と出会うまでは、やはり、クリスチャンを見て、「あの人が信じている神なら、わたしも信じたい」と考えるものです。わたしたちも、他の人から「あなたの神を信じたい」と言ってもらえるようになりたいと思います。ナオミは夫とふたりの息子を亡くすという不幸に出逢いましたが、のちに、「七人の息子にまさる嫁」(ルツ4:15)と讃えられるようになる信仰の女性、ルツを、その証しによって勝ち取ったのです。家族や親しい人への伝道や証しは難しいと言われます。しかし、あきらめずに、祈り続け、証し続けましょう。ナオミは、神を証しするのに最悪と思えるような環境、状況にありましたが、神は、ナオミを通してルツを救ってくださいました。同じ神が、今も、わたしたちと共にいてくださいます。そのことを信じて、証しに励みたいと思います。

 二、ルツの信仰

 さて、次にルツの信仰について学びましょう。ふたりの息子を亡くしたあと、ナオミは、主がイスラエルを顧みて、飢饉を去らせてくださったことを知りました。それでナオミは故郷のベツレヘムに帰ることにしました。最初は、ふたりの嫁といっしょに帰るつもりでしたが、まだ若いオルパとルツの今後を考えてふたりを実家に帰らせることにしました。しかし、ふたりはそれを拒んで、「いいえ、わたしたちはあなたと一緒にまいります」と言うのです。それで、ナオミは「実家に帰り、再婚して幸せになりなさい」とふたりを説得しました。オルパのほうは、ナオミの説得を受け入れ、涙ながらにナオミのもとを去りました。ところがルツはナオミから離れようとはしませんでした。

 ナオミは再三ルツを説得し、「オルパといっしょに帰りなさい」と言うのですが、ルツは、オルパの後を追いませんでした。ナオミに対する愛情は、オルパもルツも同じだったでしょう。では、何がルツをナオミのもとに留めたのでしょうか。それは、主なる神に対する信仰でした。さきほど話しましたように、ルツはナオミから主なる神について聞きました。モアブには様々な神々がありましたが、主神は「ケモシ」と呼ばれる神でした。ケモシはわがままで、子どものいけにえを要求する残虐な神でした。ところが、ナオミから聞いたイスラエルの主なる神は、聖なるお方であり、ご自分の民に対して慈しみ深いお方でした。ルツは、この「ナオミの神」に心惹かれたのです。そして、ナオミについていくか、モアブに帰るかという決断を迫られたとき、ルツは、「ナオミの神」を「自分の神」として信じ受けいれたのです。

 ナオミは、オルパが去っていくのを見て、ルツに言いました。「ごらんなさい。あなたの相嫁は自分の民と自分の神々のもとへ帰って行きました。あなたも相嫁のあとについて帰りなさい。」これは、ルツを自分の国に帰るよう説得しようとしての言葉でしたが、この言葉がかえって、ルツの決心を強めました。「たとえオルパが自分の民と自分の神々のもとへ帰っていったとしても、わたしはそうしない。しゅうとめの民イスラエルがわたしの民、イスラエルの主なる神こそわたしの神です。」ルツは、そう決心し、モアブの神々と決別して、主なる神を「わたしの神」として受け入れたのです。

 旧約の時代に、イスラエル人でない人が、イスラエルの神、主を信じるというのは、驚くべきことでした。けれども、そうしたことがまったくなかったわけではありません。エリコの町のラハブも、カナン人でありながら、イスラエルの神を信じ敬った女性でした。主イエスは、エリヤの時代のシドン人のやもめの信仰や、シリヤの将軍ナアマンの信仰について話しておられます。これらの人々は、ルツと共に、やがて全世界の人々がイエス・キリストを通してまことの神に立ち返るようになる、そのさきがけとなったのです。

 「あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神です。」このルツの信仰の言葉を聞いたとき、ナオミはルツに対して、もう何も言うことができませんでした。ナオミとルツの二人はベツレヘムに向かいました。ナオミにとってベツレヘムは故郷ですが、ルツにとっては見知らぬ外国です。そこに何が待っているか、ルツには分かりませんでした。しかし、ルツは、信仰の一歩を踏み出しました。信仰は言葉で言い表わされるものですが、言葉だけのものではありません。「我は信ず、全能の父なる神、そのひとり子イエス・キリストを」という信仰の告白は、それをお題目として唱えることではありません。バプテスマは、たんなる水浴びの儀式ではありません。バプテスマは、一世紀のクリスチャンの信仰を、「わたしの信仰」として告白することです。彼らは、迫害によって命を奪われることがあっても、その信仰を決して取り消すことはしませんでした。ある人たちは、「教会では、イエス・キリストが人を救うと教えているから、わたしが教会に出入りしている間は、そういうこととして、受け入れよう」と考えるかもしれません。しかし、これはほんとうの信仰ではありません。信仰とは、たんに教えを教えとして受け入れることではありません。今、ここに生きる、このわたしが、神を「わたしの神」として信じ、イエス・キリストを「わたしの救い主」として受け入れること、そして、実際の生活の中で神に信頼し、キリストに従って生きることなのです。「信じる」とは「従う」ことです。自分の思いによってではなく、それを神に明け渡して、神のみこころに従って生きることです。

 神は言われます。「わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。」(出エジプト6:7, レビ26:12, エレミヤ7:23; 11:4; 30:22)このことは、わたしたちがイエス・キリストを信じて神の子どもとされることによって成就します。ルツが「あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神です」と言ったように、わたしたちも、神を「わたしの神」とし、イエス・キリストを「わたしの主」として受けいれ、信仰の一歩を踏み出しましょう。すでにその一歩を踏み出した者は、日々の歩みの中で、困難な時にはなおのこと、「あなたはわたしの神」と告白し、神への信頼のうちに一歩一歩を歩み続けましょう。

 (祈り)

 主なる神さま、聖書の信仰者たちの生きた実例をもって、わたしたちの信仰を励ましてくださることを感謝します。頼るものの何一つない中で、あなたに信頼し、あなたへの信仰を言い表わしたナオミやルツのように、わたしたちも、あなたへの信仰を言い表わし、信頼の一歩を踏み出すものとしてください。主イエスのお名前で祈ります。

11/5/2017