聖霊を信ず

ローマ8:23-27

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8:23 それだけでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだが贖われることを待ち望みながら、心の中でうめいています。
8:24 私たちは、この望みとともに救われたのです。目に見える望みは望みではありません。目で見ているものを、だれが望むでしょうか。
8:25 私たちはまだ見ていないものを望んでいるのですから、忍耐して待ち望みます。
8:26 同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。
8:27 人間の心を探る方は、御霊の思いが何であるかを知っておられます。なぜなら、御霊は神のみこころにしたがって、聖徒たちのためにとりなしてくださるからです。

 一、神の霊

 使徒信条の聖霊に関する項目は「我は聖霊を信ず」だけです。父なる神については「天地の造り主、全能の父なる神」と言い、イエス・キリストについては「我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず」で始まって、「かしこより来たりて生ける者と死にたる者とを審きたまわん」まで、英語では、69の単語が使われています。ところが、聖霊については、"I believe in the Holy Spirit." と、たった六つの単語しか使っていません。なぜでしょうか。聖霊が、父なる神や御子イエス・キリストにくらべて大切ではないからでしょうか。いいえ、決してそうではありません。

 聖霊について、ごく短くしか書かれていないのは、使徒信条の他の部分で聖霊について、すでに、触れられていたからです。聖霊は、聖書では「神の霊」と呼ばれています。使徒信条は「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」で始まりますが、神が天地を創造されたとき、「神の霊」は、当然、そこにおられました。創世記1:2に「地は茫漠として何もなく、闇が大水の面の上にあり、神の霊がその水の面を動いていた」とあるように、「神の霊」、聖霊も世界の創造にかかわっておられたのです。ですから、「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」という言葉の中にすでに聖霊の働きが含まれていたのです。

 「我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず」という部分も同じです。そのすぐあとに「主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ…」という言葉があるように、聖霊はイエスを世にもたらしたお方として紹介されています。聖霊はイエスのバプテスマの時に現れ、イエスを満たしています。イエスがなさった奇蹟、力あるわざはどれも聖霊によるものなのです。イエスが「しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです」(マタイ12:28)と言われた通りです。

 このように、私たちは父なる神の全能のお力のうちに、また、イエスのご生涯とみわざのうちに、すでに聖霊を見ていたのです。ですから、父について、御子イエスについて語られたあとでは、「我は聖霊を信ず」という言葉だけでも、聖霊がどのようなお方かを言い表すことができたのです。「我は聖霊を信ず」という言葉は、聖霊が、全能の「神の霊」であり、イエス・キリストのうちに満ちておられたお方であるということを告げています。

 二、キリストの霊

 使徒信条は、父を信じ、御子を信じ、聖霊を信じると言っています。この順序は大切です。なぜなら神を知り、信じることができるのは、「神の霊」に満ちた御子イエスによってであり、御子イエス・キリストを知り、信じることができるのは、「キリストの霊」である聖霊によってだからです。

 私たちは、イエス・キリストを知るまでは、「神」というお方を漠然としてしか知りませんでした。日本では、自然のひとつひとつが神です。太陽や月などの天体も、山や森、川や海なども、それ自体が神で、人々はそれを拝んできました。一般の人よりすこしすぐれたところがあれば、そういった人もまた神として祀られてきました。そういうわけで日本には数多くの神々がいるのです。クリスチャンが「私は神さまを信じています」と言っても、「ああ、そうですか。いいことですね。ところで、どの神さまですか」ということになります。

 韓国では「神さま」を「ハナニム」と呼びます。「ハナ」というのは「ひとつ」という意味ですから、神を、「おひとりさま」と呼ぶのです。日本語で「おひとりさま」というと少し違った意味になりますが、この場合は「唯一のまことの神」という意味です。神はおひとりであって、「どの神さま?」と問う必要はないのです。韓国にクリスチャンが多いのは、神についての概念がはっきりしているからかもしれません。

 使徒信条は、「全能の父なる神を信ず」と言い、続けて「その独り子を信ず」と言っています。つまり、私たちの信じる神は「イエス・キリストの父なる神である」と言っているのです。「どの神さまですか」という質問に対する一番良い答えは「イエス・キリストの父なる神」という答えです。

 ヨハネ1:18に「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである」とあります。神は完全に聖なるお方、この世界を超え、人間の認識能力を超えたお方です。罪ある人間には神を見ることはできないのです。神は天体望遠鏡でも、電子顕微鏡でもとらえることはできません。どんなスーパー・コンピュータによっても分析できません。神は物質でも、原理でもありません。生きておられるご人格です。人格だけが神を現すことができ、人格だけが神を知り、信じることができます。それで、神の御子は「イエス」という名を持った人間となり、この世で人々と共に生き、見えない神を見える姿で現してくださいました。

 イエスは「わたしを見た人は、父を見たのです」(ヨハネ14:9)と言い、弟子たちは、イエスについてこう言いました。「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて。」(ヨハネ第一1:1)この言葉の通り、イエス・キリストは、私たちがその声を聞き、その姿を見、そして手で触れることができる神となってくださったのです。私たちは、イエス・キリストのご人格、みわざ、教えの中に神を見ます。神をイエス・キリストの父として知り、神とはこういうお方だと、はっきり言うことができるのです。それはなんと幸いなことでしょう。

 そして、もっと幸いなことは、聖霊が私たちの内側に住んで、私たちが神とキリストとを信じることができるようにしてくださったということです。「信じる」ことは「知る」ことから始まります。私たちはよく言います。「頭では分かるんだけど、なかなか信じることができないんですよ。」しかし、信仰を持てないでいるのは、「分かったつもり」でいるだけで本当には分かっていないからかもしれません。信仰を持ちたいなら、指導者からきちんと聖書を教えてもらい、本気で学ぶ必要があります。

 しかし、信仰はたんに神がおられることを認めればよい、イエス・キリストについての何らかの知識を持っていればよいというものではありません。信仰は人格である私が、偉大な人格である神に信頼すること、人格と人格の関係です。そして、神とキリストと「私」とを信頼関係の中に結びつけてくださるのが、もうひとりのご人格である聖霊なのです。別の言い方をすれば、聖霊が私たちの内面の最も深い部分、私たちの「霊」に働きかけ、「霊」である神への信頼を呼び覚ましてくださるということです。

 イエス・キリストを信じた者は皆、聖霊によって教えられ、信仰の目を開いていただき、信仰の告白に導かれたという体験を持っています。イエスは言われました。「父が持っておられるものはすべて、わたしのものです。ですからわたしは、御霊がわたしのものを受けて、あなたがたに伝えると言ったのです。」(ヨハネ16:15)キリストは神の御子であり、神の代理人です。そして、聖霊は「キリストの霊」であり、キリストの代理者です。この聖霊に頼るとき、私たちはさらに神を知り、より深くキリストを信じることができるようになります。ですから、使徒信条が「我は聖霊を信ず」というとき、それは、「私は、聖霊によって、神とキリストを信じる者とされました」ということを言い表しているのです。

 三、祈りの霊

 キリストは神の御子として神を現し、聖霊は「キリストの霊」として、私たちの内側でキリストを示してくださいます。聖霊は神とキリストの代理者ですが、同時に、聖霊は、キリストを信じる者の代理人でもあるのです。キリストが神の代理者として、人間に神を示しただけでなく、人間の代理人ともなって、十字架で身代わりの死を遂げ、復活し、天でこの世界のために父なる神にとりなしておられるのと同じです。神を代理し、同時に人間を代表するというのは、祭司に与えられた務めです。神であり、人であるお方、人となられた神であるイエス・キリストだけが、この祭司の務めを完全に果たすことができるのですが、聖霊もまた、キリストと同じように祭司の務めを果たしてくださっています。

 それは、ローマ8:23に書かれています。「同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。」私たちは、あまりにも苦しいことがあると、「天の父よ」と祈りはじめても、その後に祈りが続かないことがあります。ただうめくだけ、涙を流すだけということがあります。しかし、聖霊は、私たちのうめきと共にうめいてくださる。言葉にならない祈りであっても、私たちの心が神に向かうとき、聖霊が私たちのかわりに祈ってくださるのです。

 祈りは、言葉数が多ければよいというものではないと思います。スラスラと祈ることができることが、信仰深さを表すとは限りません。ほんとうに神に近づき、そのきよさや恵みに心が打たれ、ただ「主よ」としか呼ぶことができなくなることもあるのです。人間の言葉が退き、深い沈黙の中で祈るということもあります。「霊で祈る」とは、そういう状態を指します。そこでは聖霊が、信仰者の霊と共に祈っておられるのです。

 神のお心の中にあるすべてを知っておられる聖霊は、同時に、私たちの思いのすべてを知っていてくださいます。私たちはどんなに頑張っても、完全にみ心にかなう祈りはできません。聖霊なしには、私たちの祈りは、自分勝手であったり、的外れであったり、足らなかったりします。けれども、神のみ心と人の思いの両方を完全に知っておられるお方が、とりなし祈ってくださるとき、私たちの祈りは神のみ心にかなったものとなるのです。「私はちゃんと祈ることができる」などと、自分の祈りに信頼するのではなく、聖霊が祈ってくださることを信じ、とりなしてくださることに信頼して祈りましょう。それが「聖霊によって祈りなさい」(ユダ1:20)と言われていることなのです。

 聖霊は、神ですから、私たちが聖霊に祈るのが当然なはずです。ところが聖霊は、あえて、人間の側に立って、人間と共に父なる神に祈ってくださるのです。仲介者というものは、双方に平等でなければなりませんが、神と信仰者との仲だちをしてくださる聖霊は、人間的な言い方をすれば、信仰者のほうに肩入れをし、信仰者の側に立って働いてくださるのです。ですから、「我は聖霊を信ず」とは、私のすべてを知りながら、私のためにとりなし、徹底して私の側に立ってくださり、私の助け主となってくださる聖霊に頼りますという、信仰の告白なのです。聖霊は「神の霊」として、私に父とキリストを教えてくださる。「キリストの霊」として私をイエス・キリストへの信仰に導いてくださる。そして「祈りの霊」として、私の祈りを、日々の信仰の生活を助けてくださる。私たちは、そのことを、「我は聖霊を信ず」と言うことによって言い表しているのです。きょうも、「我は聖霊を信ず」と告白し、聖霊によって神を知り、キリストに従う生活へと導かれていきましょう。

 (祈り)

 主なる神さま。聖霊は、あなたのお心、命、存在そのものです。あなたは、聖霊を、イエス・キリストを通して私たちの内に住まわせ、私たちのすべてを知り、私たちのあらゆる必要を満たす助け主としてくださいました。どんな困難の中でも聖霊こそ私の助け主と告白しながら、聖霊と共にあなたを呼び求める者としてください。主イエス・キリストのお名前で祈ります。

5/12/2019