救いの完成

ローマ8:18-25

8:18 今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。
8:19 被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。
8:20 それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。
8:21 被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。
8:22 私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。
8:23 そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。
8:24 私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。
8:25 もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。

 先月、聖書の中心的な教えについて学びはじめ、「新生」「聖化」「神癒」という三つのことをお話ししてきました。今日は、「新生」「聖化」「神癒」に続く四つ目のこと、「再臨」についてお話しします。

 一、再臨の約束

 「再臨」というのは、イエス・キリストが再びこの地上に来られることを言います。イエスは二千年前、この地上に来てくださいました。ユダヤの国のベツレヘムに赤ん坊となって生まれました。三十歳を過ぎて、ご自分が神の子、救い主であることを、その教えと奇蹟によって人々に示しました。そして、私たちの罪のゆるしのため十字架で命をささげ、三日目に死人の中から復活しました。復活の後、多くの人々にご自分を示された後、天に帰りました。キリストは、今、父なる神のもとに帰り、父なる神の右の座について、そこで、私たちのためにとりなしをし、また、私たちを導いてくださっています。

 ヘブル人への手紙はこう言っています。「さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」(ヘブル4:14-16)これは読むたびに慰められるみことばですね。私たちは、この地上で、様々な事柄で苦しみ、心に痛みを覚えます。それをどこにも持っていくことが出来ず、暗い谷底に落とされたような気持になってしまい、四面楚歌、八方ふさがりという状況に落ち込むこともあります。もうどこにも歩く道がないかのように考えてしまったりします。しかし、そんな時も、信仰をもって見上げるなら、天が開いているのです。そこにキリストがいて、私たちを助けようとして待ち構えているのです。キリストは、天に留まり続けていたお方でなく、この地上に降りて来て、罪は別として、私たちと何一つかわらない苦しみや痛みを体験しました。だからこそ、キリストは、今、天にあっても、地上の私たちの苦しみ、痛み、弱さを知ってそれをあわれみ、いやし、強めることができるのです。いつ、どんな時でも、とりわけ、礼拝で天を仰ぐ時、そこに生きる苦しみにあえいでいる者たちをあわれみ、理解してくださる主イエスがおられるのを覚えるのはなんという慰めでしょうか。

 私たちは、この慰めを今、味わっていますが、将来、もっと素晴らしいことを体験します。それが再臨です。キリストは、天からもう一度降りてきて、私たちを天に迎えいれてくださるのです。聖書はそのことを何度も、何度も繰り返し約束しています。イエスは最後の晩餐の時、弟子たちに言いました。「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」(ヨハネ14:1-3)イエスは、最後の晩餐の時、弟子たちに世を去る時が来たことをはっきりと告げました。しかし、それは永遠の別れではありませんでした。イエスは、イエスを信じる者たちのところにもう一度帰ってくると約束されたのです。

 イエスがもう一度来てくださるというのは、イエスの復活のことをさしているとか、ペンテコステの日に聖霊が弟子たちに臨んだのが再臨なのだと言う人もありますが、そうではありません。イエスがよみがえって天に戻る時の様子が使徒の働きにこう書かれています。「こう言ってから、イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた。イエスが上って行かれるとき、弟子たちは天を見つめていた。すると、見よ、白い衣を着た人がふたり、彼らのそばに立っていた。そして、こう言った。『ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。』」(使徒1:9-11)天使は、イエスの復活の後に、イエスの再臨を約束しています。イエスの再臨の様子は、イエスが雲に包まれて昇天した時と同じように、神の栄光に包まれて、目に見える形で天から降りてこられるのです。弟子たちは、イエスの復活の後も、ペンテコステの日に聖霊を受けた後も、イエスの再臨を待ち望んできました。

 イエスについての約束、またイエスが私たちに約束されたことはどれも、すべて成就しています。イエスは聖書の預言のとおりに生まれ、聖書にしるされているとおりに十字架で死に、聖書に予告されていたように復活しました。イエスの約束のとおりに聖霊がくだり、教会が誕生しました。イエスを信じる者はその約束のとおりに救われ、永遠の命を受けています。福音が全世界に宣べ伝えられるとのことばの通り、キリストの福音は全世界に伝えられています。聖書のことば、イエスの約束はどれひとつとして、成就しなかったもの、守られなかったものはありません。ですから、イエスが再臨されるという約束もかならず実現するのです。イエスが再臨を約束されてからもう二千年が経ちました。まだその時が満ちていないのですが、時が満ちつつあることは、誰もが感じています。キリストの再臨の日がいつか、それは、私たちには知らされていません。しかし、再臨はかならずあり、その日は近づいているのです。聖書の一番最後にも再臨の約束があります。「しかり。わたしはすぐに来る。」(黙示録22:20)このイエスのおことばに、私たちも、「アーメン。主イエスよ、来てください。」とこたえましょう。

 二、再臨の目的

 キリストが今から二千年前、私たちの世界に来られたのは、私たちの救いのためでしたが、キリストが再び来られる時には何をなさるのでしょうか。聖書は、キリストが再び来られる時、その救いを完成してくださると教えています。

 私たちの救いは「新生」から始まりました。イエス・キリストを信じる時、私たちは神の子として生まれ、神からの新しい命によってあたらしく人生を生きなおすのです。この新しい命が霊的な面に表われるのが「聖化」で、それが肉体に表われるのが「いやし」です。しかし、私たちの聖化も、いやしも、この地上では完成しません。それはキリストの再臨の時、私たちがキリストの栄光にあずかる時―これを「栄化」と言います―、完成するのです。

 私たちはきよめられるにつれて、故意の罪から離れていくのですが、私たちが地上にいる間は、どんなにきよめられても、私たちから弱さや失敗がなくなることはありません。弱さは強められ、失敗は赦されますが、きよめられるにつれて、むしろ、自分の弱さをより自覚して神に頼り、失敗から学んでさらにきよめに向かうのです。きよめられるというのは、どんな誘惑にも決して会わないということではなく、神の助けによって誘惑に打ち勝っていくことなのです。私たちは新生によって罪の刑罰から救われ、聖化によって罪の力から救われますが、キリストの再臨の時、罪の存在そのものから救われるのです。

 神は、私たちの肉体をいやし、生活を祝福してくださるお方ですが、どんなに病気がいやされても、私たちは必ず死を迎えなければなりません。どんなに生活が祝福されても、世を去る時には地上の祝福は地上に置いていかなければならないのです。キリストの再臨の時、私たちは死にも勝利して、いやしが完成するのです。その時、私たちは「将来私たちに啓示されようとしている栄光」(ローマ8:18)に入ります。神の子とされた者に与えられる「神の子どもたちの栄光」(ローマ8:21)を受けるのです。キリストが復活した時に受けたのと同じ「栄光のからだ」を受けるのです。私たちの魂はすでにイエス・キリストの血によって贖われていますが、再臨の時には、私たちのからだも贖われるのです。「私たちのからだの贖われること」(ローマ8:23)とあるのはそのことを意味しています。ピリピ人への手紙には、このことが、もっとわかりやすく書かれています。「けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。」(ピリピ3:20-21)

 キリストの再臨の時には、私たちのからだが贖われるだけでなく、この世界全体が贖われるのです。私は、先週の木曜日、グッドサマリタン・ホスピタルで病院のチャプレンの研修を受けてきました。病気の方々をどのようにケアすれば良いかということを学びたいと思って行ったのですが、お話の内容は、期待していたのと違って「全体的いやし」ということについてでした。社会的ないやしやエコロジカルないやし、つまり、地球環境のいやしということがあって、私たちの精神的、また肉体的な健康が成り立つのだということを学びました。その時、私の心に、今日の聖書の個所が思い浮かびました。ローマ8:22に「私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。」とあります。私たちの住む地球は、水が濁り、空気が汚れ、有害な放射線が降り注ぎ、地球の健康状態はかなり悪化していています。学者たちは、このままなら、あと千年したら、地球は人の住めるところではなくなると言っていますし、ある人たちは千年ももたないだろうという人もあります。神は地球に人を置き、人間に地球を守り、正しくそれを治めるよう命じられたのですが、人間は罪を犯し、その罪が、人間の心や社会ばかりでなく、自然界をも損なってきました。ですから、この世界が回復するためには、まず人間が回復されなければならないのです。「被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいる」(ローマ8:19)というのはそういうことを言っています。私たちの救いが完成する時、自然界も、まったく新しいものになるのです。ローマ8:21に「被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。」とある通りです。神は、この世界全体の回復をすでに計画し、それをキリストの再臨によって実現してくださるのです。

 キリストの再臨の時に私たちの救いが完成するというのは、今、私たちが今持っている救いが不十分なものであるとか、将来の救いがあやふやものであるとかいうことではありません。神の救いは完全で、キリストが与えてくださった救いは、決して中途半端なものではありません。今、救われている者は、かならずその救いが完成するのです。今、受けている救いは、将来の救いを保証するものです。しかし、救いの完成にいたるまでには、なお、時が必要です。神は、イエス・キリストを信じた者がその瞬間に天国に移されるようには計画されませんでした。この地上で、聖化の恵みといやしの恵みに育まれてはじめて、キリストの再臨の時に与えられる栄化の恵みにあずかるようにと、定めてくださったのです。神の計画は万全です。神の恵みにはすべてが備えられています。神の救いの計画に身を任せて、再臨の時を待ちましょう。

 三、再臨の希望

 イエス・キリストがもういちど来て、私たちの救いを完成してくださる、これは私たちにとって大きな希望です。もし、この希望がなかったら、私たちは、この世界で何の目標も、解決も得られないまま終わってしまうでしょう。

 神はこの世を愛し、そのひとり子イエス・キリストを遣わしてくださいました。私たちは、イエス・キリストを信じて、新しい歩みをはじめました。神の愛を知り、人を愛すことを学びました。しかし、なお、罪が存在するこの世界で、さまざまな疑問に悩まされます。神が私たちを愛してくださっているのに、なぜ、この世には苦しみや痛みがあるのだろうか。神は正しいお方であるのに、なぜ、正しい者たちが苦しみ、悪者が栄えるのだろうか。ある人々は自分の思いどおりに歩んで、人を傷つけても罰せられないのに、ある人々は人を愛して控え目にしているのに、いつも傷を負う側に立たされるのだろうか。神を信じているという者がなぜ自らの命を絶ったり、とんでもない悪事に手を染めたりするのだろうか。どうして、ある人は健康で、豊かで、人生をエンジョイしているのに、ある人は、病気や障害を抱えて人生を送らなければならないのか。ある人は百歳までも生きるのに、なぜ、ある人は、人生の半ばで召されていくのか。古代から今にいたるまで、私たち人類は、こうした人生の疑問の中に生きてきました。

 もし、キリストの再臨が無ければ、私たちのクエッション・マークは永遠にクエッション・マークのまま終わります。しかし、キリストは、再臨の時、私たちの一切の疑問を解決してくださいます。キリストは、その時、すべての人を正しく裁き、報いを与えます。正しい者には栄光を、悪者には恥を与えるのです。正しいことのために苦しめられた人には栄光の冠がさずけられ、地上で恵まれなかったものには、天で最高の待遇が待っていることでしょう。聖書に「その日に、主イエスは来られて、ご自分の聖徒たちによって栄光を受け、信じたすべての者の…感嘆の的となられます。」(テサロニケ第一1:10)とあります。キリストは「感嘆の的になられる」のです。キリストが天から降りてきて、私たちを迎えてくださる時、私たちのクエッション・マークはエクスクラメーション・マークに変わるのです。

 第二次大戦中、ユダヤ人はホロコーストを体験しました。ナチスから逃れて、かろうじて生き延びた人々も、食べ物がなく飢えと闘わなくてはなりませんでした。しかし、そんな中でも、ユダヤの人々は、過越しの祭りを祝うことを忘れませんでした。過越しの祭りは、過去の神の救いを感謝するだけでなく、将来の神の救いを待望するものだったからです。ある家で、過越しを守ろうとしましたが、ろうそくがありません。それで、父親がバターを燃やしてろうそくの代わりにしました。それを見た子どもが、「お父さん、うちには食べるものが無いのに、どうしてバターを燃やすの」と聞きました。父親は、言いました。「息子や、人は食べものが無くても生きていける。しかし、希望なしには生きていけないんだよ。このともし火は、私たちに希望を教えてくれるのだ。」そうです。人は、希望なしには生きていけません。私たちはキリストの再臨の希望によって生きることできます。パウロは、「私たちは、この望みによって救われているのです。」(ローマ8:24)と言っています。キリストの十字架も、復活も、多くの人が目にし、聖霊の働きも、信じるものはそれを体験しています。しかし、再臨は、将来のことですから、当然誰も目にしていません。しかし、目にしていないから、ないのではありません。パウロはこう言っています。「目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。」(ローマ8:24-25)聖書が私たちに教え、励まし、勧めているように、信仰に忍耐を加えましょう。その時、私たちは失望に終わることのない希望(ローマ5:1ー5)を手にすることができるのです。キリストが救い主であり、きよめ主であり、いやし主であることを知っている者は、キリストが王の王、主の主であることを信じ、このお方がもういちど来てくださる日を待ち望むのです。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたは二千年前、キリストをしもべの姿でこの世に遣わし、私たちのために救いを成就してくださいました。イエス・キリストによって、私たちは今、新生の恵み、聖化の恵みにあずかっています。あなたは、今度は、キリストをそのあるがままの姿、王の王、主の主の姿でもう一度、私たちのところに遣わしてくださいます。その時、私たちの救いが完成します。あなたはこの希望を私たちの人生のともしびとして与えてくださいました。この地上でさまざまな試練と困難に遭う時、この希望にしっかりと立つことができますよう、私たちを助けてください。この希望に生かされ、この希望を他の人にわかちあう私たちとしてください。やがて来てくださるキリストのお名前で祈ります。

2/16/2003