アバ、父

ローマ8:14-17

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8:14 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。
8:15 あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。
8:16 私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。
8:17 もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。

 父の日は母の日に比べて忘れられがちな日です。現代、家庭で父親の存在の重みが軽くなっているせいかもしれません。東急百貨店が公募した「父の日川柳」にこんな句がありました。

父の日の 父を残して  みな出掛け
父の日に 自分で丸を  付けておく
父の日は 笑ってあげる 親父ギャグ
脇役の  パパが主役に 躍り出る
父へいく 彼のお下がり エコロジー
ちょっと寂しい句ばかりでしたが、聖書では父親はとても重んじられており、家族に対して祭司の役割を果たすものであると言われています。祭司は、神と人との仲立ちとなる人で、神に対しては人々を代表し、人々に対しては神の代理となります。旧約時代、父親は家族に神のことばを教え、家族のために、とりなして祈りました。父親のこの大切な努めは新約の時代にも受け継がれ、現代も変わりませんし、将来も変わらないでしょう。なぜなら、私たちの神は「父」なる神だからです。エペソ3:14-15に「こういうわけで、私はひざをかがめて、天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの名の元である父の前に祈ります」とあるように、神は、あらゆる家族の「父の父」であり、父たちを立て、支え、励ましてくださるお方なのです。

 一、父なる神

 神が父であるというのは、クリスチャンにとっては、ごく当たり前のことなのですが、他の宗教の人々、とくにイスラムの人々には、とんでもない教えなのだそうです。スコット・ハーンという聖書学者が、イスラムの学者と公開討論会をすることになり、その準備のために、イスラムの学者と話し合いをしていたとき、ハーン博士が「父なる神は…」と口にしたとたん、イスラムの学者は、すぐに怒りを表わして、「神、アッラーは、すべてを超越したお方であり、神を人間になぞらえてはいけない」と言いだしたそうです。ハーン博士が「イエス・キリストは神の御子であって…」と言うと、「神は人ではないから、子を持つなどありえない」と反論され、「キリストを信じる者もまた神の子どもとなって神の愛を受ける」と語ろうとすると、「神はすべての者の主(マスター)であって、人間はしもべ(サーバント)に過ぎない。人間が神を『父』と呼ぶなど、冒涜である」とまくしたてられたそうです。

 結局、ふたりの話は平行線のまま終わり、公開討論会もキャンセルされましたが、スコット・ハーン博士は、そのことから、イスラムの人が神を厳格なマスターとし、自分をサーバントとしてひたすらに服従することに対して、クリスチャンが神を父と呼び、父の愛を受け、父の愛に答える神の子どもであることがどんなに素晴らしいことかをより一層感謝したと言っていました。私はこの話を「アッバかアッラーか」という、CD に収録された講演で聞きました。

 「アッバ」というのは、アラム語で「父」という意味です。今朝の箇所にも「アッバ」という言葉が出てきます。

神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。(14-15節)

 クリスチャンは神を「父」と呼ぶのですが、実は、そのことの中に、キリストを信じる信仰の本質が凝縮されています。それは、第一に、神がイエス・キリストという御子を持つ「父」であること、第二に、イエス・キリストが神の御子であり、子なる神であるということ、そして、イエス・キリストを信じることによって、私たちもまた神を父とすることができるということです。これは、他のどこにもない、聖書だけが持っている教えであり、イエス・キリストを信じる信仰によってだけ、体験することができる特権です。「父なる神さま」「天のお父さま」と祈るとき、神が父のような大きな愛で私たちを慈しんでくださるということを信じて感謝するというだけでなく、イエスこそ、生ける神の御子キリストであるという信仰を、私たちは言い表わしているのです。「父よ」と唱えるとき、それを習慣や決まり文句にしないで、神がイエス・キリストの父であり、また、私の父であるということがどういうことなのかを深く考えてみたいと思います。そのことがよく分かり、まごころからの信頼をもって神を「父よ」と呼ぶ者になりたいと思います。

 二、神の子ども

 では、私たちがどのようにして神の子どもとなって神を「父よ」と呼ぶことができるのかを考えてみましょう。

 神は、本来はイエス・キリストの父なる神です。イエス・キリストだけが父から生まれたお方で、神を「父よ」と呼ぶことができるただひとりのお方です。私たち人間は、神のことばを聞き、神に祈ることができる存在ですが、神から生まれたのではなく、神によって造られたもの、被造物にすぎません。創造者(Creator)と被造物(creature)の間には、決して乗り越えられない隔てがあります。しかし、イエス・キリストは、その隔てを突き破って、私たちが神を「父よ」と呼ぶことができる道を開いてくださいました。

 どのようにしてそのことをしてくださったのでしょうか。それは、人間のどんな考え、思い、想像をはるかに超えた、特別なことでした。キリストは神の御子であるのに、被造物である人間となられました。クリスマスの日に母マリヤから生まれ、イエスと名付けられました。イエスは、人となられた後も聖く、偉大な神の御子であったのに、罪人の友となって人々を助け、教え、導かれました。そして、そのご生涯の最後に、十字架の上で人の罪を背負い、人の身代わりとなって神の裁きをその身に受けられました。キリストの十字架、そこにはこの世にふたつとない、神の深い愛、私たちを救う力ある愛が示されています。十字架のことばを聞くたびに私たちはその愛に満たされます。

 十字架で死なれたキリストは、十字架から三日目、イースターの日に、死に打ち勝って復活されました。イエスは、その復活によって、信じる者が神の子どもとして生まれ、永遠の命を持つことができるようにしてくださったのです。イエスの十字架は、身代わりの死でした。イエスは十字架の上で私たちすべての罪を引き受け、罪人となり、いや罪そのものとなり、神の裁きを代わりに引き受けてくださいました。同じようにキリストの復活も私たちのためのものでした。キリストは復活によって、死ぬべき人間に永遠のいのちを与え、罪の奴隷である人間に、ご自分が持っておられる神の子の身分を分け与えてくださるのです。イエスはその十字架と復活によって、ご自分の身分と立場と、私たちの身分と立場とを交換して、私たちを救ってくださったのです。

 この救いを、イエス・キリストは、その苦しみのご生涯によって成し遂げられました。イエスが痛められたお心、お身体、そして霊のすべては、私たちの救いのためでした。イエスは全能なのだから、簡単に人を救うことができ、まるで機械を操作するように、人を神の子どもにすることができるというのではありません。イエスは全人格をかけて私たちを救ってくださったのです。ですから、私たちも、自分の全人格をかけてイエスに信頼するのです。信仰によってイエスと結びつくとき、イエスの救いが私たちに届き、私たちは神の子どもとされます。ヨハネ1:12-13にこう約束されています。

しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。

 「神の子どもとされる特権」とありますが、私たちが神の子どもとされるのはまさに「特権」です。世の中の王や国家の首長でさえ、誰もが簡単に話しかけたり、近づいたりすることはできません。彼らは公でも、プライベートなときでも、厳重に警護されています。けれども、王や大統領の子どもであれば、「お父さん」と呼んでその膝の上に飛んで行って抱かれることができるでしょう。同じように、王の王、主の主である神に、私たち被造物、罪人は簡単に近づくことはできません。しかし、イエス・キリストによって神の子どもの身分を与えられるなら、その人は神の子ども、天の王の王子であり、王女です。いつでも、どんな場合でも、神を「父」と呼んで神に近づき、助けを願い、導きを求めることができるのです。皆さんはこの特権をすでに得ているでしょうか。それを活用しているでしょうか。

 最後に実際にあったことをお話して今朝のメッセージを閉じましょう。

 ベン・ホッパーはテネシー東部の丘のふもとの町で生まれました。ベンの母親は結婚せずに彼を産みました。今はそうでないかもしれませんが、この時代にはシングル・マザーとその子供はのけものにされたり、非難されたりしました。他の親たちは、自分の子供を未婚の母の子どもと遊ばせないようにしました。

 ベンが大きくなるにつれて、他の子供はベンに「お前の父さんは誰なんだ」などといった質問をしました。小学生時代、ベンは遊び時間にはひとりで自分の席に座っていました。プレーグラウンドで他の子どもたちからいじめられないためでした。ランチもひとりで食べていました。

 この丘のふもとの町では、何か変わったことがあると、たちまち大きなニュースになりました。ベンが12歳になった、ある夏のこと、新しい牧師が町にやって来ました。ベンはこの若い牧師について、とても良い評判と、この牧師が、誰にも、その人が神に愛されていることを感じさせてくれるということを聞きました。ベンはそれまで一度も教会に行ったことがありませんでしたが、ある日曜日、教会に行って、その牧師から話を聞こうと思い立ちました。ベンは教会に遅く行って、後ろの席にそっと座り、礼拝が終わらないうちに帰りました。

 週を重ねるにつれ、世を救うために、ひとりの御子をお遣わしになった、愛の神について聞くことに、ベンは、不思議にも心惹かれていきました。6回目の日曜日のメッセージにベンは心がいっぱいになり、早く帰るのを忘れてしまいました。礼拝が終わると皆がベンのまわりに集まり、ベンはそこから抜け出せなくなりました。やっとの思いで抜け出そうとしているとき、誰かがベンの肩に手を置きました。振り返って、見上げてみると、新しい牧師がにっこり笑っていました。牧師は、ベンが一番聞きたくない質問をしました。「君は誰の子どもだい?」

 皆が静かになりました。ベンは皆の目が自分に向けられているのを感じて心が沈みました。ベンは思いました。「この人も、そうじゃなかった。この牧師は違うと思っていた。ぼくはどうやってここから抜け出せるんだろうか。」ベンが何かを言おうとしたとき、その牧師はにっこり笑って、「君が誰の子どもか知ってるよ。家族もみんなここにいるじゃないか。君は神の子どもだよ。」牧師はベンの背中をたたいて言いました。「君は神から大きな資産を受け継いでいるんだよ。さあ、行って、それに恥じない生活をしなさい。」

 その日からベンの生涯は変わりました。テネシーの町の小さな田舎の教会で、彼はキリストを信じる決心をしました。後に、彼はテネシー州の知事になり、二期努めました。彼はたんなる「父なし子」ではありませんでした。彼は天の父の子どもでした。

 ベン・ホッパーのように、自分がキリストにあって神の子どもであることを知るなら、私たちの人生は変わるのです。この「父の日」に、父親であるおひとりびとりが、父の父である神に、子どものような信頼を寄せることができるよう祈ります。誰であっても、神を父なる神として信頼していくとき、必ず、父なる神の愛と力が私たちの人生に染み渡ってくるのです。そのことを、この週も豊かに体験していこうではありませんか。

 (祈り) 

 主イエス・キリストの父なる神さま、あなたがたんに御子の父であるだけでなく、御子を信じる者たちを「わたしの子どもたち」と呼んでくださる、私たちの父ともなってくださったことを感謝します。まだバプテスマに至っていない方々が一日も早くあなたの御子イエスを信じる信仰へ、神の子どもとされる喜びへと導かれますように。そしてあなたを「われらの父よ」と祈る喜びに至ることができますように。御子イエス・キリストのお名前で祈ります。

6/16/2013