父よ!

ローマ6:12-17

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8:12 ですから、兄弟たち。私たちは、肉に従って歩む責任を、肉に対して負ってはいません。
8:13 もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです。
8:14 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。
8:15 あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。
8:16 私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。
8:17 もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。

 イスラエルのオリーブ山に「主の祈りの教会」があります。そこには、旧約聖書のことばであるヘブル語、イエスが語ったアラム語、新約聖書のことばであるギリシャ語、教会のことばであるラテン語、またスペイン語、イタリア語、フランス語、英語など、80以上のことばで主の祈りを書いたタイルのパネルが、教会の壁一面にはめ込まれています。もちろん、日本語もありました。日本語のものは「天においでになるわたしたちの父よ」となっていました。「天の父よ」というのは、ヘブル語では「アビヌー シェバシャバイム」、アラム語では「アブン デバシャマヨ」、ギリシャ語では「パテール ヘモーン ホ エン トイス ウラノイス」、ラテン語では「パテル ノステル クイ エン チェリス」と言いますが、すべて「父よ、われらの」という順で言葉が並んでいます。「主の祈り」の最初の言葉は「父よ」であり、神への呼びかけで祈りが始まっているのです。

 神への呼びかけの言葉は「神さま」、「主よ」など、さまざまあるのですが、主イエスは「主の祈り」を教えるとき、「父よ」と祈れと教えました。なぜ、イエスはそう祈るように教えたのでしょうか。私たちが「父よ」と祈ることにはどんな意味があるのでしょうか。三つのことを心に留めたいと思います。

 一、神は人格である

 第一に、神に「父よ」と呼びかけるのは、神が人格を持ったお方だからです。

 最近、家庭内でも親と子が、夫と妻が、携帯電話や電子メールでコミュニケーションをとるようになりました。母親が二階にいる息子の携帯に電話して、「ご飯だよ」と呼びかけたり、妻が夫に「メールをだしといたから会社で読んでね」などと言ったりするそうです。家で顔を合わせているのに、会話のない夫婦や親子が増えてきていると聞きます。携帯電話や電子メールなどが発達したので、そうなったのか、それとも、携帯電話や電子メールが人と人とのコミュニケーションをかろうじてつなぎとめていてくれているのか、くわしいことは分かりませんが、近年、あらゆるものがどんどん「非人格化」されていることは、皆さんも感じていることでしょう。その結果、人々は、「神は人格である」というごくあたりまえのことが分からなくなっているようです。

 人格には知性と意志と感情とがありますが、聖書は、神がそのすべてを備えておられることを教えています。神はこの世界を原子の世界から大宇宙にいたるまで、みごとな調和をもって造られました。物理学や生物学など、自然科学を研究している人の多くが、神がどんなに豊かな知恵と知識をもって世界を造られたかに、驚き、恐れ、そして、神をほめたたえています。また、神はこの世界のために計画を立て、人類の歴史を導き、私たちひとりびとりに働きかけてくださっています。神は意志をもった方です。さらに、神は喜び、怒り、悲しみ、楽しまれる方、喜怒哀楽の感情を持った方です。

 ルカの福音書15章に「放蕩息子」のたとえ話があります。放蕩息子の父親は、ふたりの息子を持っていましたが、弟のほうが親の財産をもらって家を飛び出してしまいました。しかし、父親は弟息子のことを毎日心配し、早く帰ってくるように願っていました。弟息子は落ちぶれて帰ってくるのですが、父親は大喜びで自分から走り寄って息子を受け入れました。それで弟息子の帰還を祝っての宴会が始まるのですが、そこに放蕩息子の兄が仕事から帰って来て、「あんなやつを家に迎え、宴会をするなんて、とんでもない」と父親を批判しました。父親は、その批判に困りながらも、懸命に兄を説得しようとした、というのが、放蕩息子のお話のあらすじです。イエスは、放蕩息子の父親によって、罪びとの悔い改めを心待ちにし、それを喜んでくださる父なる神のお心を教えておられるのです。神は、この父親のように、私たちひとりびとりのことを心配し、喜び、また、困惑さえしてくださるお方なのです。ある人は、こういった箇所は、神を「擬人化」したもの、神をあたかも人間であるかのようになぞられたものであると言いますが、そうではありません。神はほんとうに、喜び、悲しみ、怒り、嘆く方なのです。人間は、この人格を持った神の「かたち」に、「神に似たもの」に造られたので、人間もまた知性を持ち、意志を持ち、喜怒哀楽の感情を持つようになったのです。神が人間になぞらえられているのでなく、人間が神になぞらえて造られのです。神は、すべての人格を持つものの父、人格のみなもとです。

 ですから、祈りとは、人格である神に、人格をもって呼びかけるものなのです。イエスがマタイの福音書6:7-8で「異邦人の祈り」を真似てはいけないと警告されたのは、「異邦人の祈り」が人格をもった神への人格的な呼びかけでないからです。それは神を、コインを入れると品物が出てくるベンダー・マシーンのように考えています。人間の願いをできるだけ多く注ぎ込めば、自動的にその願いが叶うと信じているのです。祈りは神との「対話」です。しかし、神を人格として認めない祈りは「対話」ではなく「独り言」になってしまいます。イエスは私たちに「父よ」と呼びかけることによって、神が人格であり、祈りが神と人とが心と心を通わせあうものであることを教えようとされたのです。

 二、私たちは神の子

 第二に、神を「父よ」と呼んで祈るのは、すべての人間は、広い意味では神の子どもだからです。

 メキシコのティファナの町を歩くと、土産物店の人たちは、日本人だと見ると、「スズキサン、シャチョーサン、ヤスイデスヨ」と呼びかけられます。中には「オトーサン、オカーサン、オニーサン、オネーサン」と呼びかけてくる人もあります。みなさんも、見知らぬ人から「オトーサン」などと、あまりにもなれなれしく呼びかけられると、気持ち悪いと思うでしょう。もし、私たちが神と縁もゆかりもないのに、神を「父よ」と呼んだなら、神も気を悪くなさると思います。しかし、イエスは、神を「父よ」と呼んでいいのだ、神は私たちに喜んで「子よ」と返事してくださると教えてくださいました。なぜなら、すべての人は、神に造られたものとして、広い意味で神の子どもであり、すべての人が、神を「父よ」と呼ぶことを許されているからです。

 ルカの福音書3章にイエスの系図がありますが、それはイエスからさかのぼって、アダムで終わっています。そしてアダムについて「このアダムは神の子である。」と書かれています。アダムには父も母も、先祖もありません。アダムは最初の人間だからです。アダムは神によって造られました。神がアダムの親代わりの役割を果たし、アダムを生み、守り、育てたわけですので、聖書は「アダムは神の子である。」と言っているのです。そして、もし、アダムが神の子であるなら、アダムの子孫であるすべての人間もまた、アダムを介して神の子どもであると言うことができるのです。

 使徒の働き17章で、使徒パウロは、ギリシャ哲学者のひとりパルメニデスの「私たちもまたその子孫である。」ということばを引用して、「そのように私たちは神の子孫ですから、神を、人間の技術や工夫で造った金や銀や石などの像と同じものと考えてはいけません。」と言っています。パウロが「私たちは神の子孫」と言ったのは、ギリシャの神話や日本の神話のように、神々が地上に降りてきて、人間に子どもを生ませたということではありません。神は創造者ですが、人間は被造物にすぎません。神は永遠・無限・普遍のお方ですが、人間は限りあるものです。しかし、人間は、他の動物とは違って、神のかたちに造られました。人間は神のご性質の一部をいただき、神を表すものとして造られているのです。そうであるのに、人間が自分の手で金や銀、石などにかたちを刻んでそれを神としてあがめるのは、まったくおかしいことではないかと、使徒パウロは論じているのです。偶像礼拝は、神の無限の栄光を汚すばかりか、人間に与えられた神のかたちを損なうのです。使徒パウロは、人間が神から特別に造られた存在であり、人間が神のご性質の一部を分けあたえられているという意味で、すべての人は神の子どもであると言っているのです。

 確かに、人間は、神の子として、神のかたちに造られました。しかし、罪を犯して、与えられた神のかたちを損なっています。名前ばかりは「神の子」ではあっても、すこしも「神の子」らしくない、悪くすると動物以下になってしまうことさえあります。そして「神の子」として受け継ぐべき、神の国を失ってしまっています。ちょうど、放蕩息子のようです。すべての人は広い意味では「神の子」ではあっても、父なる神のもとに立ち返って、父の家で「神の子」として生きるのでなければ、失われた存在になってしまうのです。心からの愛をもって神を「父よ」と呼び、神から「子よ」と呼んでいただける、深い意味での「神の子」になる必要があるのです。そして、そのことを可能にしてくださったのが、イエス・キリストと聖霊です。

 三、イエスと聖霊によって

 第三に、私たちが神を「父よ」と愛を込めて呼ぶことができるのは、神の御子イエスと聖霊によってです。

 人間は、罪を犯し、罪の奴隷となってしまいました。イエスが世に来られたのは、人間を罪から救い出して、父なる神のもとに連れ戻し、人間がもう一度、神の子どもとしての身分や性質を取り戻すためでした。しかし、罪ある者が罪の償いなしで、何事も無かったかのように平気で神のもとに戻ることはできません。きよい神に受け入れられるためには、罪の償いが必要です。旧約時代には、罪の償いは動物の犠牲によってなされました。犠牲の動物が人間の罪を背負い、その身代わりに血を流し死んでいったのですが、新約の時代にはイエスが「世の罪を取り除く神の子羊」となって十字架でその血を流し死なれました。このイエスの血が人間の罪を償い、人間を罪の奴隷から買い戻すのです。他のものは、どんなものも罪の償いとはならず、贖いとはなりません。ただひとり罪のないお方であるイエスの犠牲だけが人類を救うのです。

 イエスは、ほんらいの意味で、ただひとりの神の御子です。イエスだけが神を「父」と呼ぶことができるお方です。しかし、イエスは人間を愛するあまり、その身分を捨て、十字架の上で罪びととなられ、罪びとの身代わりとなって死んでいかれました。イエスは、ご自分の神の子としての身分、立場を人間に差し出し、ご自分は罪びととなり、神から見捨てられたものとなって死なれたのです。イエスは復活ののち、「わたしは、わたしの父またあなたがたの父、わたしの神またあなたがたの神のもとに上る。」(ヨハネ20:17)と言われましたが、イエスは、その十字架と復活による救いによって、イエスの父が同時に「私たちの父」にしてくださったのです。

 私たちがイエスを信じるとき、聖霊もまた、私たちのうちに住んで、私たちが心から「父よ」と神を呼ぶことができようにしてくださいます。今朝の聖書は「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、『アバ、父。』と呼びます。」(ローマ8:15)とあります。これは、私たちが神を「父よ」と呼んで、神の子としての自由と喜びの中に生きるのは「聖霊によって」だと教えているのです。

 人は、イエスを信じて罪の赦しを受けます。罪の奴隷であった者が、そこから解放され、自由になります。神の子になって、神との愛の関係の中に入れられます。しかし、イエスを信じて神の子とされているのに、神に向かって素直に「父よ」と呼ぶことができないことがあります。ある程度の年齢になって養子にもらわれたこどもが、自分の両親になかなか「お父さん」「お母さん」と言えず、両親に甘えることができないのと似ています。神との交わりは回復されているのに、もうすでに神の子になっているのに、まだ、奴隷のときの束縛が心に残っているのです。しかし、聖霊は私たちをそうした束縛からも解放してくださいます。聖霊は私たちをあらゆる恐れやためらいから解放して、神を「父よ」と呼んで神に信頼できるようにしてくださるのです。聖霊は、私たちが実質的に神の子としてくださるお方です。私たちが霊的に成長して、神の子どもらしくなっていくのを助けてくださるのです。

 この箇所の少し後に、「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。」(ローマ8:26)ということばがあります。私たちが祈るとき、いやどう祈ったらよいかわからないときも、聖霊が共に祈ってくださるというのです。これは、なんと大きな励まし、深い慰めでしょうか。事実、私たちの祈りは、私たちだけの祈りではなく、イエスと聖霊とともに祈るでもあるのです。「天にまします我らの父よ」という祈りは、主イエスが教えてくださった祈りなので「主の祈り」と呼ばれているのですが、これを祈るのは弟子なのだから「弟子の祈り」と呼んだほうがよいという人もいます。しかし、よく考えてみると、この祈りは、主イエスなしには祈れない祈り、聖霊によらなければささげられない祈りです。「主の祈り」では、主が私たちと共に祈ってくださるのです。主の祈りにかぎらず、愛と信頼を込めて「父よ」と呼ぶすべての祈りは、主イエスと聖霊とが共に祈ってくださる祈りなのです。それに励まされ、神を「父よ」と呼び続けていきましょう。

 (祈り)

 主イエスの父、それゆえに、主イエスに贖われた者たちの父よ。あなたは、あなたの子とされたことの保証として、信じる者に聖霊を与えてくださいました。聖霊は、私たちに神の子の自由と喜びを与え、私たちを、父に愛され、父を愛する愛の関係の中に入れてくださいました。まごころを込めて、あなたを「父」と呼び、あなたとの愛の関係の中に生きるために、私たちは、聖霊の助けを願い求めます。神の子の喜びを失っている人々がありましたら、その人に聖霊による喜びを与えてください。あなたが「父」であることをまだ知らない人々が、ひとりでも多く神の家族に加えられ、共に「父よ」と祈ることができますよう導いてください。御子イエスのお名前によって祈ります。

2/7/2010