だれが私を

ローマ7:14-8:2

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7:14 私たちは、律法が霊的なものであることを知っています。しかし、私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です。
7:15 私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。
7:16 もし自分のしたくないことをしているとすれば、律法は良いものであることを認めているわけです。
7:17 ですから、それを行なっているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。
7:18 私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。
7:19 私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。
7:20 もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。
7:21 そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。
7:22 すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、
7:23 私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。
7:24 私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。
7:25 私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。
8:1 こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。
8:2 なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。

 一、名付けることの力

 ステップ1は、こう言っています。「私たちは、自分の依存症にたいして無力であることと、自分の生活が自分の手に負えないものになってしまっていることを認めました。」ステップ1では、自分に問題があり、自分ではそれを解決できないでいることを認めます。この文章では「依存症」という言葉を使っていますが、「依存症」という言葉のかわりに、そこに自分の依存症の名前を入れてみてください。あなたが、どうしてもそこから離れることができないものや、本当の問題の解決の代わりにそこに逃げているものがあるなら、それがあなたの「依存症」です。ある人にとってはそれは「アルコール」であり、ある人には「タバコ」、ある人には「ギャンブル」、ある人には「食べ物」、ある人には「買い物」、ある人には「怒り」、ある人には「思い煩い」であるかもしれません。自分の依存症に名前をつけることを、12ステップでは「ネーミング」と言いますが、名前をつけることは、問題の解決にとても効果があります。聖書では、神がアダムのところにいろんな動物を連れてこられたとき、アダムがそれに名前をつけたことがしるされています(創世記2:19)。アダムは、動物に名前をつけることによって、自分には神から世界を治める権威が与えられていることを言い表しました。神は、アブラムを「アブラハム」、ヤコブを「イスラエル」と名付けましたが、これは、神のアブラムやヤコブに対する支配権を表わしています。バビロン王は、ユダヤから連れてきたダニエル、ハナヌヤ、ミシャエル、アザルヤにベルテシャツァル、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴという名前をつけましたが、これもまたバビロン王の征服した民族に対する支配権を表わしています。

 依存症は、私たちの人生を支配するものです。しかし、もし自分の依存症に名前をつけることができたなら、私たちは依存症の上に立ち、そこからの解放の第一歩を踏み出すことができるようになります。「私の問題はアルコールへの依存です。」「私には神よりも人に認められようとする過剰な自己顕示欲があります。」「私の問題は人を支配したくなることです。」などと、自分の依存症を特定することができたら、依存症の下に屈服するのでなく、依存症の上に立つことができるようになるのです。そのためには問題を問題として認めること、現実を現実としてごまかさずに直視することが必要です。最近、政治家や官僚、大学教授や大企業の経営者などといった、社会的な地位や教養のある人たちが、お金やセックスのことで犯罪を犯し、それがニュースにとりあげられています。この人たちは、その地位を築きあげるために必死に努力し、また知識を得るために励んできたのでしょうが、自分自身の内面の問題には取り組んで来なかったのでしょう。目先の成功を追い求めても、こころの問題の回復、人格の成長に取り組まなかったのです。この世の成功を手にしても、人生の失敗者になったのです。そのようなことがないように、私たちもしっかりと自分の問題に向き合い、それに取り組みたいと思います。自分の問題に向き合うこと、それが回復への第一歩です。

 二、否定の力

 ところが、自分の問題を素直に認めることは、簡単なように見えて大変難しいのです。というのは、私たちは誰も、心理学的な自己防衛機能(Defense Mechanisms)を持っていて、自分の不利になると思えることから自分を守ろうとするからです。心理学者は40もの自己防衛機能があると言っており、それらすべてをあげることはできませんので、主なものだけをあげてみたいと思います。

 第一は「否定」(Denial)です。私たちの心には、潜在意識といって、過去の記憶や思考、感情、動機などが蓄えられている場所がありますが、「否定」というのは、問題をこの潜在意識に押し込め、隠してしまうことを言います。アルコール症の人が酔っ払っているのに「おれは酔っていない。」というようなあからさまな否定もあれば、本人も問題を「否定」しているということに気がつかないでいる、隠れた否定もあります。キャロルというある女性は、父親からいじめられて育ちました。しかし、彼女はよくそれに耐えました。彼女は、父親からいじめられたことが心の傷とはなっていないと、長い間思い込んでいました。しかし、別のことで心理学的なカウンセリグを受けたとき、彼女は自分が父親のアビュースによる影響を否定し続けていたことに気がつきました。それを認めると、父親のことを人に悪く言うことになるという心配がキャロルにはあったからです。これは「父親への気遣い」で良いことのように見えますが、実際はキャロルが自分の本当の問題から逃げる口実になっていたのです。自分の問題の原因がそこにあったのに、彼女は長い間それを否定していたことに気付きました。そして、それに気付いたときから回復がはじまりました。

 自己防衛機能の第二は「抑圧」(Repression)です。「否定」が問題を無意識の世界に追いやるのに対して、抑圧は、問題を意識しながら、感情を押し殺し、無理矢理に見て見ぬふりをすることです。これはかなりの苦痛を伴います。

 第三は「先延ばし」(Suppression)です。問題を認めながらも、それを解決しようとせずに、後回しを続けることです。夫婦で対立したとき、とことん話し合うよりは、たいていは夫が「おれは仕事で忙しいんだ。このことはひとまず置いておこう。」と言って、そうなる場合が多いと思います。「ひとまず置いておくこと」は悪いことではありませんし、冷却期間は時には必要です。しかし、後できちんとした解決をしないままにしておくと、それは問題の否定になります。妻には「ごまかされた。逃げられた。騙された。」という気持ちだけが残るのです。

 第四は「言い訳け」(Rationalization)です。トムは、学生会の委員長に立候補しましたが、選挙で負けてしまいました。ほんとうは悔しくてたまらないのですが、トムは「毎月委員会に出なくて済むし、最後の学生生活を楽しめるから、これでいいんだ。」という言い分けて、自分の感情を否定してしまいました。そのために、彼は非常に屈折した行動をするようになりました。本当は自分が委員長になりたかったがなれなかったという現実を受け入れ、そこから次のステップに踏み出さなかったからです。

 第五は「理論化」(Intellectualization)です。これは、セルフエスティームの低い人が自分の劣等感を隠すためによく使う方法で、やたらと学問的、哲学的なことばを使って、問題を隠してしまうことを言います。そのために、まわりの人は、その人の本当の問題に気がつかず、その人に対して正しく対応することができなくなってしまうのです。

 第六は「投影」(Projection)です。これは自分の問題を他の人にあてはめるものです。なんらかの問題を持っている人は、他の人の中にある、自分と同じ問題や傾向に敏感になります。「あの人はお金に汚い。」「彼女は男性にだらしがない。」などと、他の人を批判している人が同じ問題を持っていることが多くあります。自分と同じ問題を持っている人を見ると自分の姿を見ているようでつらいので、かえってその人を批判するのです。

 第七は「一般化」です。これは、「誰だってドランク・ドライブをした経験がある。他の人も同じ事をしている。自分のしていることはたいして悪いことじゃない。」と問題を一般化することによって、問題を否定することです。

 自己防衛機構には、上司から叱られた腹いせに家に帰ってから妻や子に怒りちらす「八つ当たり」、まだ小さいこどもが、弟や妹が生まれたとき、両親の自分への愛が奪われるのではないかと感じて「赤ちゃん返り」をすること、「逃避」や「偽善」など、さまざまなものがあります。神を知らない人の多くは、自分の問題をいろんなものにすりかえたり、上手にごまかしたり、うわべを繕ったり、ひたすら我慢したりしながら生きています。そこには何の満足も喜びもありません。それは神を知る者たちの生き方ではないはずです。神を知る者は、否定の壁を乗り越え問題の解決に進むことができます。それは自分の力では不可能です。しかし、神の力によっては可能です。神にはできないことはないからです。では、この神の力をどうしたら手に入れることができるのでしょうか。

 三、キリストの力

 そのためには、まず、「良い人」であることをやめることです。大変逆説的な言い方ですが、家族の問題は、「悪い人」によってでなく「良い人」によって引き起こされます。たとえば、アルコール症の人がいる家庭では、「良い」親が子供の始末をし、「良い」妻が旦那さんの始末をみんなしてやるのです。誰かが我慢し、犠牲を払っています。アルコールのため無駄な出費がかさみますが、奥さんが働いたり、家計をやりくりして穴埋めをします。子どもは、父親が酔っ払って乱暴なことをしてもじっと耐えます。そうして問題をカバーするのです。しかし、夫や父親が酔っ払って家族に迷惑をかけているという現実は少しも解決していないのです。このようなことは、あちらこちらに見られる現実ですね。私はこのような実例を、日本でも、アメリカでも数多く見てきました。教会に限らず、いろんな団体には、必ずといってよいほど、ルールを無視する困った人がいるものですが、「良い」クリスチャンばかりの教会、ジェントルマンばかりの団体では、なぜかそういう人を大目に見て、ほとんど苦情を言わないのです。結局、そのしわよせは特定の立場の人が吸収しなければならなくなり、その結果、それに耐えている人は疲れ果て、身体をこわしたり、こころの病にかかったりすることがよくあります。健全な家庭、健全な団体はみんなが犠牲を払い合います。しかし不健全な家庭には「スーパーヒーロー」の役割をする人、またその役割を期待される人がいて、一手に犠牲を引き受けたり、引き受けさせられたりします。けれどもスーパーヒーローは物語やムービーの世界だけのもので、誰もスーパーヒーローにはなれません。家族の問題を一手に引き受けて、それをカバーしていると、いつか身も心もボロボロになってしまいます。さきにお話ししましたキャロルのように、父親をかばうために自分が受けた父親からのアビュースを否定し、それに耐えたからといって、解決はないのです。「良い人」をやめ、問題を背負い込むことをやめ、自分に押しかかっている問題に自分が無力であることを素直に認めようではありませんか。

 今朝の聖書で「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。…私は、善をしたいと願っているのですが、…私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」という悲鳴をあげているのは、使徒パウロです。使徒パウロは、厳格なユダヤ人家庭に生まれ、子どものころから宗教上の義務をみな守り、道徳的な生活をしてきました。彼は、ユダヤ教のパリサイ派に属するエリートの中のエリートでした。彼は常に自分が正しいという確信に満ち溢れていました。しかし、イエス・キリストに出会い、神のことばによって心を照らされたとき、彼は、自分の内面には神に喜んでいただけるものが何一つないことに気付いたのです。彼は、その時、他のパリサイ人のように「良い子ぶること」「良い人を演じること」を止め、素直に神の前に出ました。 そしてパウロは、イエス・キリストを仰ぎみました。ローマ7:24でパウロは「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」と言いましたが、そのすぐ後に「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。」(ローマ7:25)と言っています。彼は、自分の現実を見つめました。しかし、それだけなら、解決はありません。パウロは自分の現実を見るとともに、その上にいてくださるイエス・キリストを見上げたのです。そして、パウロはイエス・キリストがパウロと彼の問題の上にいてくださるということを発見しました。自分の問題は、自分には手におえないものでも、主イエスはその上にいてそれを支配しておられる。そのことのゆえに「主イエス・キリストのゆえに神に感謝!」と、喜びの叫び声を上げているのです。

 自然界に「熱力学の第二法則」というのがあります。この法則によれば、世界は無秩序の方向に進んでいます。それは自然界だけでなく、霊的な世界にも当てはまります。この世界は罪によっ秩序を失いました。罪は次の罪を生み出し、世の中はどんどん悪くなり、ますます問題が増えていきます。それは私たちの内面も同じです。ある問題をごまかしていると、それをカバーするために次の問題が起こります。悪循環が起こり、そこから抜け出せなくなるのです。この悪循環を転換できるものは、私たちのうちにはありません。自分の靴紐を引っ張ったからといって、自分の身体を空中に引っ張りあげることができないように、私たちは自分の問題に対して無力な存在です。私たち以外の世界から、私たち以上の力が働かないかぎり、本当の解決はやってこないのです。

 しかし、神に感謝すべきことに、神は、イエス・キリストを私たちの救いのために、私たちのところに遣わしてくださいました。神の御子、イエス・キリストは私たちと同じ人間になり、私たちの苦しみのすべて味わってくださいました。そして、私たちをあらゆる罪から解放するために、十字架の上で死に、復活し、今、神の右の座についておられます。キリストはそこから手をさし伸ばして、罪の中に沈んでいく私たちを引き上げてくださるのです。使徒パウロは、ダマスコの町に向かう道で、このイエス・キリストに出会い、イエス・キリストを見上げました。その時以来、彼は常にイエス・キリストを見上げ続けました。

 問題を持ったままの私たちが何かをしようとしても、正しく事を行うことができません。その場かぎりの埋め合わせで終わってしまったり、頑張れば頑張るほど、問題が複雑になっていくことがあります。皆さんにもそういう経験がありませんでしたか。ある工場で、機械が壊れました。その機械を使っていたテクニシャンは一所懸命それを修理しようとしましたが、できなかったので、エンジニアを呼びました。エンジニアが、いつ壊れたのかと訊いたので、テクニシャンは「2時間前です。」と答えました。エンジニアが「2時間も何をしていたのか。」と言うので、テクニシャンは、不満げに「修理しょうとしていたのです。最善をつくしたのですよ。」と答えました。するとエンジニアは、そのテクニシャンに言いました。「あなたの最善は、私を呼ぶことです。」このエンジニアの言葉は、私たちにも当てはまりますね。問題に苦しむときに、私たちのできる最善は、イエス・キリストを呼ぶことです。そのとき、否定のかべが打ち破られ、「私たちは、自分の依存症(問題)にたいして無力であることと、自分の生活が自分の手に負えないものになってしまっていることを認めました。」と言うことができるようになるのです。そして「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。」と言うことができ、「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。」という、罪からの解放、問題からの解放の宣言を聞くことができるのです。

 (祈り)

 主なる神さま、あなたは「苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出し、あなたはわたしをあがめる。」(詩50:15)と言われました。どうぞ私たちに自分の問題をまっすぐ見つめる勇気と、私たちを問題の中から救い出してくださるあなたを見上げる信仰とを与えてください。ひとつひとつの問題をあなたに委ね、そこから解放され、あなたの救いを喜び祝う私たちとしてください。私たちを救うため、私たちの苦しみのすべてを味わってくださったイエス・キリストを通して祈ります。

9/9/2007