キリストによる解放

ローマ6:20-23

オーディオファイルを再生できません
6:20 罪の奴隷であった時は、あなたがたは義については、自由にふるまっていました。
6:21 その当時、今ではあなたがたが恥じているそのようなものから、何か良い実を得たでしょうか。それらのものの行き着く所は死です。
6:22 しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行き着く所は永遠のいのちです。
6:23 罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

 先週の「灰の水曜日」から「レント」が始まりました。「レント」は、御言葉と祈りによってイエスの十字架への足跡をたどり「イースター」を待ち望む期間です。私たちは「ローマ人の手紙による救いの道」(Romans Road to Salvation)を学び初めました。救いの道を学ぶことは、イエスの十字架への足跡をたどることになります。なぜなら、私たちの救いはイエスの十字架によって成し遂げられたからです。

 一、神の基準

 「救いの道」の第一番目の聖句はローマ3:23、「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず」でした。このような箇所を示すと、「私は善良に生きてきたし、私のまわりにも良い人は一杯いる。『罪、罪』なんて言わないでほしい」と言って反発されるかもしれません。確かにほとんどの人は、犯罪に手を染めたことはありませんし、道徳的にもそんなに問題のない生活をしているでしょう。しかし、聖書が「罪」というとき、それは「犯罪」や「不道徳」だけでなく、人の心の中にある罪の性質と、そこから出てくるものの考え方やものごとに対する態度、また生き方のことも指しています。しかも、他の人や社会に対するものだけでなく、神に対する心のあり方、態度、実際の行いが問われるのです。なぜなら、私たちはみな神によって造られた者であり、造り主である神に対して責任があるからです。「すべての人は、罪を犯した」という言葉に「神に対して」という言葉を加えて考えてみれば、「すべて」の中に自分が含まれていることが分かるでしょう。

 「神からの栄誉を受けることができず」という部分は英語では“short of the glory of God” と訳されています。「神の栄光に足らない」、つまり、神が人間に求めておられる基準に届いていないという意味です。神は、私たち人間を、どんなものよりも素晴らしく造ってくださいました。詩篇8:5に「あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました」とあるように、人間は神に最も近い存在なのです。ですから、神は、人にそれにふさわしい基準を求められるのです。

 造り主である神を認めない人々は、人間は進化の過程で、たまたま出現した生物であると言いますが、そうなら、人間は他の動物と何も変わらないものになってしまいます。けれども、誰もが人間は他の動物とは違うということを知っています。人間としての尊厳を守り、人間としての幸福を求めて生活しています。神を信じない人々は、神がお与えくださった基準を引き下げたり、取り払ったりして、罪を罪でなくそうしてきました。そして、罪を罪とは呼ばず、「病気」と呼ぶようになりました。罪を犯しても、それは罪を犯した人に責任はない、DNA がそうさせたのだからと言うのです。神が定めてくださった基準を引き下げたり、それを取り去ったところで、罪が罪でなくなるわけではありません。そうすることは、人間を神の栄光から遠ざけ、自らを卑しめ、人間を人間でなくすことでしかないのです。聖書が「罪」を語るのは、人間が罪から解放されて、神が人間に与えてくださった栄光に立ち返るためなのです。

 二、罪の束縛

 今、「罪から解放されて」と言いましたが、罪は人を束縛するものです。イエスはヨハネ8:34で、「まことに、まことに、あなたがたに告げます。罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です」と言っておられます。

 罪が人を束縛することは、アルコール依存症を例にとってみればよく分かります。アメリカでは1400万人にアルコール依存の問題があり、患者として診断されている人が800万人いると言われています。人がアルコール依存症になるのは、その心に解決されていない不安があるからです。それを正面から解決しようとしないでアルコールによって一時逃れをします。しかし、アルコールは不安を解決するどころか、さらに不安をふくらませます。それで、もっと多くのアルコールを飲むようになり、やがて、アルコールが原因で暴力をふるったり、仕事を休んだりするようになり、身も心も病気になります。

 そんな家庭では、奥さんや子どもが、夫や父親のしたことの後始末をし、夫や父親をかばおうとします。たとえば、暴力をふるわれても我慢する、飲み過ぎて起きられないとき、会社に「きょうは風邪なので休みます」と代わりに電話するなどです。アルコール依存の人の家族は、アルコール依存の人を支えることを「生きがい」にし、アルコール依存の人と同じような考え方や生き方をするようになります。これを「コ・ディペンデンシー」(共依存)と言い、それは「人間関係の依存症」と言ってもよいものです。その結果、家族関係が不健全なものになり、不健全な家族関係が親から子へと引き継がれてしまうのです。

 私は、こうしたことを「アルコール依存症者の家族の会」と一緒に勉強しました。日本語のグループのためにさまざまな資料や、365日のデボーションを翻訳しました。依存症には、他にもギャンブル依存症、買い物依存症、また過食症や拒食症、そして「怒りの依存症」などがあるのですが、そうした依存症の根底には、神を認めず、自分の罪を認めず、神の恵みを受け入れようとしない心や態度、また生き方があることが分かりました。依存症は罪から来ること、罪が人を束縛し、奴隷にするものであることを、改めて確認することができました。

 こんな話があります。あるところに、とても腕のよい職人がいました。彼が作る鉄の鎖はとても丈夫で誰も壊すことができない完璧なものでした。完璧なものを作ることができる人は、他の人が作ったものの欠陥を見破ることができます。それで、彼の手にかかれば、他の人が作った鎖は、すぐに壊されてしまうのでした。ある日、この職人が酔っ払って乱暴を働きました。それで、牢屋に鎖で繋がれました。酔いが覚めて、自分が鎖で繋がれているのを知ったこの職人は、こう言いました。「俺を鎖で繋いだって無駄さ。こんなものはすぐに壊してみせる。」彼は鎖の輪のひとつひとつを指で触って、その欠陥を捜しました。そのうち彼の顔が青ざめてきました。そして、叫びました。「なんてこった。この鎖は壊せない。完璧に作られている。これは、俺が作った鎖だ。」人は、自分が犯している罪によって自分を縛っているのです。自分が作った完璧な鎖で自分を縛っており、自分の力ではそこから逃れることができないのです。

 三、キリストによる解放

 このように罪に束縛された状態を、聖書は「罪の奴隷」と呼んでいます。罪は人を奴隷にします。奴隷には人権がありません。奴隷は死ぬまで働かされます。罪という「主人」に仕えて、いくら働いても、得られる報酬は「死」です。私たちの人生がそのようなものなら、なんと惨めではありませんか。しかし、私たちは「罪の奴隷」でいる必要はないし、「罪の奴隷」のままであってはならないのです。なぜなら、そこからの解放があり、回復があるからです。

 聖書はこのことを早くから預言していました。イスラエルの「出エジプト」は罪からの解放を示すものです。イスラエルはエジプトで奴隷でした。来る日も来る日も炎天下でレンガづくりの重労働に駆り立てられていました。神は、このイスラエルの苦しみをご覧になって、彼らをエジプトの奴隷から解放し、ご自分の民にしようとされました。神はモーセを遣わしましたが、エジプトの王、ファラオはイスラエルを解放しようとはしませんでした。しかし、神は、そのお力によってファラオを懲らしめ、ついにイスラエルは奴隷から解放され、自由な者となりました。自由な民となっただけでなく、神の民、神の選びの民とされたのです。「出エジプト」は、やがて、神が、キリストによって、人を罪の奴隷から解放してくださることを預言し、約束するものだったのです。

 イスラエルの「捕囚からの帰還」は、罪の結果からの回復を示しています。出エジプトによって神の民とされた人々は、神の祝福を受けて、外敵から守られ、繁栄するのですが、やがてその恵みを軽んじ、神に逆らいました。そのため王をはじめ、主だった人々が皆、バビロンに連れ去られ、神殿さえも壊されました。これを「バビロン捕囚」と言います。しかし神は、人々が悔い改めた時、バビロンの捕囚から解放し、人々を自分たちの土地に帰し、神殿を建て直させてくださいました。このことは、回復の時が来るという約束であり、人々に救い主を待ち望ませるものとなりました。

 いったん罪の奴隷となったら、もう自分の力では自分を解放することはできません。しかし、人には出来なくても、神には出来る。キリストと呼ばれる救い主が来て、人々を罪の奴隷から解放し、罪の結果から回復させてくださる。旧約はこのことを預言し、新約は、救い主イエスが来て、私たちに解放と回復を与えてくださったことを告げています。

 「ローマ人への手紙による救いの道」の第二番目の聖句は、6:23ですが、キリストによる解放と回復を教えています。「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」先程、奴隷は死ぬまで働かされると言いました。奴隷の報酬が「死」であるように、罪の報酬も「死」です。「報酬」とあるのは、罪の結果は必ず受け取らなければならないからです。ここで言う「死」は、からだの死だけでなく、たとえからだが生きていても、その霊やたましいが神のいのちから遠く離れ、人生を喜びと平安をもって生きることができないという霊的な死のことでもあるのです。

 しかし、罪の奴隷から解放されたなら、「死」の「報酬」を受ける必要はありません。「永遠のいのち」が「賜物」として与えられるのです。永遠のいのちが「報酬」と言われていないことに注意してください。誰も、どんなものによっても、「永遠のいのち」を勝ち取ることはできないからです。「永遠のいのち」にふさわしい行い、働きなど、罪の奴隷である者にはとうていできません。それは、神がくださる「賜物」、「ギフト」であって、無代価で受け取るべきものです。

 かつて、奴隷は品物のように売り買いされましたから、奴隷には値段がつけられました。それで、奴隷が解放されるためには「贖い金」といって、それぞれの奴隷の価値に似合うものが支払われなければなりませんでした。そして、そのように代価を払って奴隷を自由にすることは「贖い」(redemption)と呼ばれました。この言葉は、聖書では、イエス・キリストの救いを表すのに使われています。キリストが、私たちを贖ってくださったというのは、罪の奴隷である私たちに自由を与えるために、代価を払ってくださったことを意味しています。その代価は、いったいどれほどのものでしょうか。ミリオン・ドラーでしょうか。ビリオン・ドラーでしょうか。いいえ、そんなものではありません。それは、どんな値段もつけることができない、キリストのいのちでした。イエスは「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう」と言われました。私たちひとりひとりは、全世界のあらゆるものよりも価値があるのです。イエスは「そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう」(マタイ16:26)と言われましたが、イエスが、私たちを買い戻すために差し出してくださったのは、ご自分のいのちでした。神は、私たちを、キリストのいのちに等しいほどの価値あるものと認めてくださっているのです。

 「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」このことは、キリストの十字架と復活によって成し遂げられました。イエス・キリストの十字架が私たちを罪から「解放」し、復活が、私たちを罪の結果から「回復」してくれるのです。キリストのいのちという、どんな値段もつけられない価値あるものによって、私たちは、私たちの価値を取り戻します。キリストを信じるとき、そのキリストのいのち、つまり永遠のいのちを受けます。このいのちによって私たちは、罪から解放され続け、罪の結果から回復され続けながら、新しい歩みをすることができるようになるのです。キリストによる、この解放、この回復を、信仰によって受け取り、日々に体験して歩もうではありませんか。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたは、私たちを罪の奴隷から贖い出すために、ご自分の御子さえも惜しまれませんでした。あなたはそれほどに私たちを価値ある者とし、愛してくださいました。イエス・キリストの十字架には、なんと大きな愛が満ちていることでしょうか。レントの四十日、その愛を受けながら日々を過ごすことができるよう、私たちを導いてください。イエス・キリストのお名前で祈ります。

2/21/2021