バプテスマの恵み

ローマ6:1-4

オーディオファイルを再生できません
6:1 では、わたしたちは、なんと言おうか。恵みが増し加わるために、罪にとどまるべきであろうか。
6:2 断じてそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なお、その中に生きておれるだろうか。
6:3 それとも、あなたがたは知らないのか。キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。
6:4 すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。

 きょうは主イエスがバプテスマをお受けになったことを記念する日です。それで、きょうは、すでに受けたバプテスマ、あるいはこれから受けるバプテスマについて、その恵みを学びたいと思います。バプテスマの恵みは数多くあって、短い時間ですべてをお話しすることができません。きょうは、その中から三つのことを選んでお話ししたいと思います。

 一、信仰の理解

 第一に、バプテスマは、信仰に理解を与えます。聖書が「聴かれるみことば」と呼ばれるのに対して、バプテスマや主の晩餐は「見えるみことば」と呼ばれてきました。バプテスマは、主の晩餐とともに、イエス・キリストの救いを目に見える形で表わすものです。

 これを一冊の紀行文を載せた書物にたとえていうなら、聖書は文章で、バプテスマは写真のようなものです。文章はその地域の歴史や文化などを詳しく告げてくれます。文章だけでも、その地域の状況が目に浮かんできます。けれども、その本に写真が載っていたなら、それを見てさらに理解が深まります。そのように、バプテスマは、キリストの救いを写真のように描き出してくれるのです。わたしたちは、それによって、いままで聖書で学んできた真理を一枚の写真を見るようにして理解することができるのです。

 活版印刷機が発明されるまでは、書物はとても高価で、今日のように誰もが聖書を手にすることができませんでした。ですから、人々は礼拝で聖書が朗読されるのを聞いて覚え、それを心に蓄えました。また、文字を読めない人も多かったので、教会には、聖書の重要な場面を描いた絵画やステンドグラスが飾られました。それらは、いわば「目で見る聖書」でした。

 昨年11月16日、ハーベスト・アメリカの集まりがあって、Prestonwood Baptist Church に行きました。入り口の広いホールの上部には創世記から黙示録まで、聖書の各書を描いたステンドグラスが並んでいました。とてもよく出来たステンドグラスで、感動してながめていました。しかし、どんなに素晴らしい作品でも、もし、聖書の全巻を読んでいなければ、なぜこんな絵が描かれているのか分からないで終わるでしょう。バプテスマがキリストの救いを目に見える形で描いているといっても、それは、聖書を学んでいればこそ分かるのであって、バプテスマを通してキリストの救いを見るのだから、聖書はいらないということにはなりません。

 逆に、聖書があれば、バプテスマはいらないというわけでもありません。バプテスマは聖書が伝えるもの以外のものを伝えるわけではありませんが、聖書が教えていることを、理解するのに大きな助けになるのです。

 ローマ6:3-4に「キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである」とあります。キリストを信じる者は、キリストとともに死に、キリストとともによみがえったというのです。これはずいぶん神秘的なことで、理解するのに難しいことです。しかし、バプテスマを受ける人が水に浸される時、わたしたちは、古い人が死んだのだということを目で見て理解します。また、その人が再び水から上がるとき、新しい人となって生き返った姿を見るのです。

 ある人がバプテスマを受ける前に言いました。「先生、わたしは罪深い人間ですから、わたしの古い人が完全に死ぬように、長く水につけてください。」もちろん、長く水に浸されたからといって、それで古い人が死に、新しい人になって生き返れるわけではありません。人間には古い自分に死に、新しい者となって生き返ることなどできません。それをなさるのは、神であり、キリストであり、聖霊です。イエス・キリストはわたしたちの罪のために十字架で死んでくださいましたが、そのとき、神は罪あるわたしたちをも、キリストともに十字架につけて死なせてくださったのです。そして、キリストが復活されたとき、わたしたちもまた、キリストの命に生かされる新しい存在になったのです。第二コリント5:17に「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである」とある通りです。

 今まで「聖書が分からない」と言っていた人が、バプテスマを受けたあと、「救われるというのは、こういうことなんですね。バプテスマを受けてはじめて分かりました」と言ってくれたのを覚えています。聖書や信仰を体験的に分からせてくれること、これがバプテスマの恵みです。

 また、バプテスマの恵みは、バプテスマを受ける人だけでなく、バプテスマ式に出るすべての人に、とりわけ、すでにバプテスマを受けた人に与えられます。すでにバプテスマを受けた人は、そのとき自分の受けたバプテスマを思い返します。古いわたしが死に、新しいわたしが生きるために、神が最愛の御子を十字架につけてまで、そのことをしてくださった、その愛を目の当たりにします。わたしたちは、バプテスマに描かれているキリストの救いを見て、信仰を新しくし、初めの愛に立ち返るのです。ですから、すでにバプテスマを受けた者は、自分が受けたバプテスマに表わされているキリストの救いの豊かさをさらに深く理解できるよう、求め続けていきたいと思います。

 二、信仰の確信

 第二に、バプテスマは、信仰に決断を与えます。バプテスマは、キリストの救いを目に見える形で表わすものですが、同時に、わたしたちの信仰をも目に見える形で表わすものです。わたしたちは心にある信仰をバプテスマという目に見える形で表わして、信仰の決断を神にささげるのです。

 聖書は教えています。「すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらえせたと信じるなら、あなたは救われる。なぜなら、人は心で信じて義とされ、口で告白して救われるからである。」(ローマ10:9-10)人は信仰によって救われます。しかし、聖書が教える信仰とは、イエス・キリストの偉大さを認めるとか、キリスト教に好意を寄せるといったものではありません。それは、イエス・キリストがわたしたちの罪のために十字架で死んでくださり、わたしたちを救うために死人の中から復活されたことを知って、信じることです。そして、その信仰を自分の言葉で言い表わし、またその信仰によってその後の人生を歩んでいくことです。心の中にある信仰を言葉で言い表わし、行いによって証しすることが求められています。

 そして、その第一歩がバプテスマなのです。イエス・キリストを信じた人々が最初にしたことはバプテスマを受けるということでした。ペンテコステの日に、ペテロの説教に心を刺された人々は「悔改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい」(使徒2:38)という勧めに従ってバプテスマを受けました。ピリポの伝道によってイエス・キリストを信じたエチオピアの役人は「ここに水があります。わたしがバプテスマを受けるのに、なんのさしつかえがありますか」(使徒8:36)と言って、ピリポにバプテスマを願い出ました。回心したサウロのもとに遣わされたアナニヤはサウロに「今、なんのためらうことがあろうか。すぐ立って、み名をとなえてバプテスマを受け、あなたの罪を洗い落しなさい」(使徒22:16)と言ってバプテスマを授けています。

 このサウロが後に使徒パウロとなりました。パウロがピリピの町でシラスと共に迫害を受けて牢獄につながれていたとき、奇蹟が起こりました。それを見た牢獄の看守は、家族あげていっしょにバプテスマを受けました。聖書はその様子をこのように描いています。「彼は真夜中にもかかわらず、ふたりを引き取って、その打ち傷を洗ってやった。そして、その場で自分も家族も、ひとり残らず、バプテスマを受け、さらにふたりを自分の家に案内して食事のもてなしをし、神を信じる者となったことを、全家族と共に心から喜んだ。」(使徒16:33-34)看守はパウロが迫害によって受けた傷を洗い、パウロが看守とその家族の霊の傷を洗い、癒やしたのです。パウロが彼に語った「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」(使徒16:31)との言葉はその夜成就しました。同じ言葉がわたしたちの間にも成就するのを見たいものです。神の言葉を聞いて家族が救われていく、そんな光景を、わたしたちの間でもっと見たいと思います。

 どの時代の人々も、まごころからキリストを信じた人々は、バプテスマを受けて、その信仰を言い表わしました。心の中にある信仰をバプテスマによって言い表わすなら、今度は、バプテスマが心の中にある信仰を強くし、さらなる確信を与えてくれます。また、「バプテスマを受けた」という事実が、その後の信仰生活を支え、励ましてくれます。ルターは、悪魔の誘惑にあったとき、机の上に "I was baptized." と書いて、それをはねのけたと伝えられています。

 まだバプテスマを受けていない方に「イエス・キリストを信じていますか」と尋ねると、たいていの場合、「信じていますとは、言えませんが、信じたいと思っています」という返事が返ってきます。「信じたい」というのは、「信じます」とほぼ同じです。バプテスマは「信じたい」を「信じます」に変えてくれます。信仰を求めている皆さんにはぜひ、バプテスマへと一歩を踏み出していただきたいと思います。

 三、信仰の整理

 第三に、バプテスマは、信仰の整理を与えてくれます。初代教会からバプテスマを受ける人々のためには準備クラスが持たれてきました。イースターを前にした四十日のレントの期間は、イエス・キリストの十字架を想いみる時ですが、同時に、この期間はイースターにバプテスマを受ける人々の準備期間でした。「使徒信条」がバプテスマ準備会の教材でした。人々は、父なる神、子なるイエス・キリスト、聖霊なる神と教会など、聖書が教える基本的なことを学んでバプテスマに備えました。

 わたしたちの教会でも同じようにしています。バプテスマに至るまで六時間ほどの学びがあります。その学びの間、信仰告白を書き始め、完成させます。バプテスマの当日、その証しを読み、それからプールに入ってバプテスマを受けます。バプテスマの恵みには、その瞬間に与えられるものやその後に与えられるものだけでなく、バプテスマの前に、その準備のときに与えられるものもあるのです。それが、信仰の整理です。いままで疑問だったことも、その間に牧師に尋ねて、答えを得ることができます。誤解や混乱を解くこともできます。

 もちろん、バプテスマの前の僅かな時間に、聖書と信仰生活の学びを全部できるわけではありません。それで多くの教会では、バプテスマ前のクラスとともにバプテスマ後のクラスも設けており、バプテスマを受けたばかりの人は、すくなくとも一年はそこに出席して引き続いて、聖書の基本的な教えを学び、信仰生活の訓練を受けます。わたしは三ヶ月のサバティカルをいただいて様々な教会のリサーチをしましたが、成長している教会、伝道が進んでいる教会は、どこででも、バプテスマ後のクラスがきちんと機能しているということを発見しました。そうした教会では、子どものときにバテスマを受けた若い人たちのためのクラスもあって、成人になる前に、信仰をしっかり建て上げる努力をしていました。ここでもそうしたことができるようにと祈っています。みなさんもお祈りください。そして、先に救われ、長い信仰生活を送ってきたわたしたちも、しっかりとした学びをして、新しいメンバー、若いクリスチャンとともに、主を知ることに成長していきたいと思います。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたは教会に、聖書とともにバプテスマや主の晩餐もお与えくださり、イエス・キリストの救いをそれぞれの方法で伝え、示してくださっています。もっと聖書を学ぶことによって、バプテスマが表わしていることを深く理解できますよう、また、バプテスマによって、聖書が教えていることをしっかりと心に刻むことができますよう助けてください。バプテスマの恵みに感謝して、イエス・キリストのお名前で祈ります。

1/10/2016