これ以上の愛はない

ローマ5:6-11

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5:6 私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。
5:7 正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。
5:8 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
5:9 ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。
5:10 もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。
5:11 そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。

 礼拝の締めくくりに宣言される「キリストの恵み」、「神の愛」、「聖霊の交わり」にはどんな意味があるのかを学んでいますが、きょうは、「神の愛」についてご一緒に考えてみましょう。

 一、四種類の愛

 「愛」といっても、さまざまな種類の「愛」があります。ギリシャ語では、「愛」を表すのに4つの言葉が使われます。最初の言葉は、「エロース(ερως)」で、これはギリシャ神話の「愛の神」の名前から来ています。ギリシャ神話によると、人間はかつて頭が2つ、手が4本、足が4本ありました。神々がそれを、真っ二つに裂き、頭が一つ、手足が2つずつの男と女にしました。それで、いずれの半身も他の半身に憧れ、再び一緒になろうとする。その熱情が「愛」(エロース)であるというのです。ギリシャ神話の「愛」は「男女の愛」のことです。現代も多くの人が「愛」と聞くと、まず「恋愛」のことを考えるでしょう。恋愛の物語は、時には美しくありますが、男女の愛は自分を満足させるだけの利己的で醜いものになる場合もあります。それで仏教では「愛」という言葉は「特定のものにこだわること、貪(むさぼ)ること」という意味で使われ、それは「貪愛(どんあい)」と呼ばれ、悟りを妨げるものとされました。聖書では、この言葉は使われません。

 2つ目の言葉は「ストルゲー(στοργη)」です。これは親子や兄弟の間の愛、肉親の愛、家族の愛を意味します。この愛は自然なもので、必要なものです。しかし、血縁が権力と結びつくと、一族以外の民衆が苦しめられます。

 それで、今日では、同じ意見を持つ人たちが政党を作り、民主国家では複数の政党が選挙で競い合って政治をするようになりました。そのように、血縁でなく人々を結びつけるもの、それが「愛」を表す3つ目の言葉、「フィリア(φιλια)」です。「友情」、「友愛」という意味があります。聖書では、動詞の形(φιλεω)で、人が何かを「好む」ことや、人が他の人を「愛する」、「親しくなる」ことを表します。

 「フィリア」は「ストルゲー」よりは広い愛を表しますが、たとえ、血縁でつながっていなくても、仲間内の者だけを信頼したり、かばったりすれば、社会の正義が踏みにじられてしいます。日本では、ある事件があってから「忖度(そんたく)」という言葉が盛んに使われるようになりましたが、「忖度」というのは、「フィリア(友愛)」の名のもとに、権力者に媚びて自分の身を守ることです。それはほんらいの「友愛」から遠く離れたものです。人間の愛は、どれも完全なものではなく、本来は良いものまでが、罪のためにゆがめられてしまっているのです。

 しかし、神の愛は、人間の愛のように不完全なものではありません。この神の「愛」を表すのが、第4番目の「アガペー(αγαπη)」という言葉です。これは、それまであまり使われることがなかったのですが、聖書では、人の愛に優る神の愛を表すために、この言葉が使われるようになりました。それで、神の愛は「アガペーの愛」と呼ばれるようになりました。

 二、四次元の愛

 神の愛、「アガペーの愛」と人の愛、「フィリアの愛」とはまったく接点がないわけではありせん。もし、そうなら私たちは神の愛を知ることができませんし、神を愛することができないわけです。しかし、神の愛と人の愛には4つの面で違いがあります。エペソ3:18-19に「すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように」とありますが、神の愛と人の愛とは、その「広さ」と「長さ」、「高さ」と「深さ」において違いがあるのです。

 では、愛の「広さ」とは何でしょう。それは、愛の対象の広さだと言ってよいでしょう。人の愛の範囲は案外狭いものです。自分の家族、仲間には良くすることはあっても、それ以上の広がりがないのです。イエスは、私たちに「自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか」(マタイ5:46-47)と言われました。私たちは、イエスが言われた通りの、狭い愛しか持っていません。しかし、神は「天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださる」お方です(同45節)。神の愛は民族、国境を越えています。これが神の愛の「広さ」です。

 次に、愛の「長さ」とは、その愛が時間がたっても変わらないことを指しています。私たちの愛は変わりやすい愛です。きのう愛したかと思えばきょうは憎むという場合があります。いや一日のうちでさえ、ころころと変わるかもしれません。しかし、神の愛は永遠に変わらない愛です。エレミヤ31:3で、神はこう言われました。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。」

 人は誰も愛を必要としています。人は誰かに愛されてはじめて生きていくことができ、誰かを愛してはじめて生きる意味を持つことができます。人は愛なしには生きていけませんから、誰かの愛を求めます。とくに苦しみの日にはそれを求めます。しかし、人の愛には限りがあり、すべての愛が純粋ではありません。それがつかの間の愛、不純なものでしかなくても、人はそうしたものにしがみつき、やがてそれが破綻して、大きな苦しみを味わうこともあるのです。

 私は、子どものころ、肉親の死を体験しました。どんなに自分を愛してくれる人がいても、その人はやがて世を去っていく。人の愛は長くは続かない。そんなことを子どもながらにも感じていました。そして、高校生になって聖書を読み、変わらない愛があることを知りました。神を愛して生きることに人生の意味を見出しました。私は神の愛を見出すことができ幸いでした。多くの人にこの幸いを得て欲しいと心から願っています。聖書の真理はとても深いものですが、決して難しいものではありません。子どもたちもサンデースクールで神の言葉を学んで理解することができます。聖書のメッセージを凝縮すれば、「神はあなたを愛しておられる」となります。この愛を知り、伝えたいと思います。

 3番目の愛の「高さ」とは、神の愛の「気高さ」や「純粋さ」のことです。別の言葉で言えば「無条件の愛」ということです。人間の愛は、どこかに条件があります。最近の日本の女性は結婚相手に「高学歴・高収入・高身長」の男性を希望すると聞きました。「あなたは私の条件にかなっているから愛してあげる」というわけです。ある人がこういう愛を「『だから』の愛」と呼びましたが、本当の愛は「『だから』の愛」であってはならないと思います。

 また、「もし、こうだったら愛してあげる」と言って、相手に自分の条件を押し付ける「『もしも』の愛」もあります。もし、親が自分の子どもに、「良い子にしていたら愛してあげる」、「成績が良くなったら愛してあげる」というメッセージを送り続け、親の期待だけを押し付けるなら、子どもは親に受け入れられていないと感じます。親の前では良い子を演じても、実際は、親に反抗し、親の期待を裏切ってしまうことがあります。本当の愛とは、あるがままの相手を受け入れることにあります。そうした愛を受けた人は、大人であっても子どもであっても、必ずその愛によって変えられていきます。

 私たちは、皆、神の無条件の愛で愛されています。神の愛は「『だから』の愛」ではありません。私たちは、神に愛される条件のどれ一つも満たすことができません。なのに、神は私たちをあるがままで受け入れてくださったのです。また、神の愛は「『もしも』の愛」でもありません。たとえ、信仰において成長し、神のために良い働きをしていたとしても、神の目から見れば、まだまだおぼつかない者であり、ほんのわずかなことしかできていないのです。もし神がご自分の基準を厳しく要求されるとしたら、私たちはたちまち、神の愛から除外されても同然です。神は、私たちの成長を期待しておられることは間違いありませんが、それは決して「こうでなければ、お前を愛さない」というものではないのです。条件にかなわない者さえも愛し、私たちがみこころに添えない者であるにもかからず、神は、私たちを受け入れてくだる。私はこれを「『にもかかわらず』の愛」と呼んでいます。この神の愛が、私たちをみこころにかなう者へと変えてくれるのです。

 最後に、愛の「深さ」ですが、これは、神が私たちを愛し、受け入れるために払ってくださった犠牲の大きさのことを指しています。愛は決して言葉だけのものではありません。本物の愛には必ず「犠牲」が伴います。子どもたちは、親が子どもを育てるためにどんなに犠牲を払っているかが分からないので、わがままなことを言いますが、自分が子どもを持つようになれば、きっと、親の苦労が分かるようになるでしょう。誰かを愛するようになれば、その人のために何かを犠牲にしなけれならなくなりますから、愛に犠牲が伴うことが分かるようになるでしょう。

 神は私たちを愛されました。私たちの罪を赦し、ご自分の子どもにしようと願われました。しかし、それは犠牲を必要とします。犠牲なしには罪が赦されることはないからです。しかも、全人類を罪から贖うためには、最高の犠牲が必要です。そして、神は、それを実行なさったのです。ご自分の最愛の御子イエス・キリストを十字架に引き渡されたのです。イエス・キリストもまた、進んでご自分の命を差し出されました。イエスは言われました。「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」(ヨハネ15:13)イエスが「友」と呼んだのは、やがてイエスを裏切り、見捨てるであろう弟子たちのことでした。イエスは彼らの師であり、主であるのに、彼らを「友」と呼んでくださったのです。また、この「友」には、イエスを十字架にかけ、あざけり、ののしった人々も含まれています。彼らはイエスの「敵」でした。「敵を愛せよ」と言われたイエスは、自分を十字架につけた「敵」を、ほんとうに愛し、その愛によって「敵」を「友」に変えてしまわれたのです。

 きょうの箇所の8節にこうあります。「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」また10節では「もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。」神は「罪人」であり、「敵」であったものさえも、最高、最大の愛で愛してくださいました。これほどの愛は、神の愛以外、どこにもありません。そして、この神の愛の届かないところはどこもないのです。

 私は、2009年、長崎に行き、永井隆医師の記念館を訪れました。永井氏は原爆の投下点からわずか700メートルのところで被爆し、自分の身体が放射能で蝕まれているにもかかわらず、他の被爆者の救護にあたった人です。その記念館に、彼が書いた「どん底に大地あり」という色紙がありました。彼ほど、どん底にまで突き落とされた人はいないでしょう。しかし、神を知る彼は、そこにも神の愛が届き、自分を支えてくれている。「どん底に大地あり」の「大地」は、彼にとっては神の愛でした。彼はこの愛を確信して、人々に仕えきって生涯を終えました。

 神は、私たち一人ひとりを愛しておられます。もうこれ以上はないという広く、長く、高く、深い愛で愛しておられます。この愛を受け、この愛に憩う人には、「どん底」はないのです。私たちはどんな中でも、どこまで行っても、神の愛の中で歩み、それによって生きるのです。

 (祈り)

 父なる神さま、私たちがあなたに罪を犯し、あなたに逆らっていた時にさえ、あなたは私たちを愛してくださいました。あなたの愛は、私たちの思いをはるかに超えていますが、あなたはその愛をイエスによって示してくださり、私たちが見て、触れて、体験できるようにしてくださいました。日ごとに、また、礼拝のたびごとに、あなたの大きく高い愛を見上げ、変わらない深い愛に信頼できますよう、導いてください。イエス・キリストのお名前で祈ります。

7/17/2022