神との和解

ローマ5:6-11

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5:6 私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。
5:7 正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。
5:8 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
5:9 ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。
5:10 もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。
5:11 そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。

 “Romans Road to Salvation”(ローマ人への手紙による救いの道)は、ローマ人への手紙の五つの箇所を使ってキリストの救いを説明するものです。その五つの箇所は、3:23、6:23、5:8、10:9-10、10:13で、きょうは三番目のローマ5:8をとりあげます。ここには、「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます」とあって、キリストの救いによって、私たちにもたらされるものが教えられています。それは、「神の愛」、「神との和解」、そして「喜びの生活」です。

 一、神の愛

 イエス・キリストの救いは、私たちに「神の愛」を与えます。私たちは誰もが、誰かに愛され、誰かを愛したいという願いを持っています。それは、人が神によって、神のかたちに、神に似たものに造られたからです。聖書は「神は愛です」(ヨハネ第一4:16)と言っていますが、人が神のかたちであるなら、「人は愛です」と言われてもよいでしょう。愛の神は、人が愛の心を持ち、愛の行いに生きるときに一番幸せになるように人を造られたのです。

 愛といっても、様々な愛があります。親子の愛や兄弟姉妹の愛、男女の愛、夫婦の愛、また、友情などです。けれども、私たちは、神の愛を知るまでは、どの愛にも満足できませんでした。罪のために人間の愛が歪められているからです。本来、愛は無条件なものなのに、人間の愛は条件つきの愛になってしまいました。それは「だから」の愛や「もしも」の愛です。「あなたは素敵だから、賢いから愛する」、「もしも、億万長者だったら、私の言うことを全部聞いてくれたら、愛するのだけれど…」といったふうにです。

 少し前まで、日本の女性は結婚相手の男性に「三高」を求めていました。「高学歴、高収入、高身長」のことです。最近は「三優」だそうです。「家事や育児を分担してくれる家族に優しい人、浮気をしないで自分にだけに優しい人、仕事を頑張って給料を入れてくれる家計に優しい人」のことです。けれども、自分の条件に完全にかなう人などどこにもいないでしょう。また、互いに要求だけを突きつけ合っていたら、夫婦だけでなくどんな人間関係も壊れてしまうでしょう。

 神の愛は、人間の愛と違って無条件の愛です。それは「にもかかわらず」の愛です。人が罪を犯して神に逆らった「にもかかわらず」、神の聖さ、正しさを汚している「にもかかわらず」、臆病で、気まぐれで、疑い深い「にもかかわらず」、神は、人を愛してくださいました。聖書はこう教えています。「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」(6-8節)キリストは正しくもなく、情け深くもない不敬虔な罪人を愛してくださった。「まさか、あんな人が愛されるわけがない」と言われて当然の者を神は愛してくださった。神の愛は「まさか」の愛だと言ってもよいでしょう。

 エペソ3:18-19に「すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように」とあります。「広さ、長さ、高さ、深さ」とあるように、神の愛、また、キリストの愛は「四次元の愛」です。「広さ」は愛の対象を指します。誰ひとり神の愛から漏れる人はないのです。「長さ」は、その愛が永遠のものであり、変わらないものであることを言っています。人の愛は、どんなに完全に近いものでも、永遠ではありません。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した」(エレミヤ31:3)と言われる神の愛の他、世には永遠不変の愛はありません。愛の「高さ」とは、神の愛が純粋で、気高いものであることを言っています。そして、愛の「深さ」とは、ご自分に背く者さえも愛してくださる、無条件の愛を指しています。神の愛は、私たちの罪深さにまさって深く、神から遠く離れた者にまで届くのです。

 私たちはキリストを信じるまで、この愛を知りませんでした。しかし、イエス・キリストを信じた時、この神の愛が分かりました。知識として知ったというのではありません。体験したのです。ローマ5:5に「なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです」とある通りです。私たちは、それによってはじめて、本物の愛、変わらない愛によって愛されたいというたましいの奥底からの願いを満たされました。そして、この愛によって、神と人を愛することができるようになりました。キリストの救いは、私たちに、この神の愛を与えてくれました。

 二、神との和解

 第二に、キリストの救いは、私たちに神との「和解」をもたらしました。神との「和解」なしに、私たちは神のもとに行くことができません。罪が、神の聖さを汚し、神の正義を踏みにじり、私たちと神との関係を壊してしまったからです。

 ほとんどの人が「死んだら天国に行く」と考えていますが、それはそんなに簡単なことではありません。「天国」、それは「天の御国」を短くした言葉で、聖書で「天」は「神」のことですから、「天国」は「神の国」のことです。そこは聖なる神と、罪のない御使いたち、そして聖徒たち、正しい人々だけがいるところ、罪のない場所です。罪を持ったまま誰ひとり天国に行くことはできません。天国に罪があればそこはもはや天国でなくなってしまうからです。神は、罪人をも愛して天国に迎え入れたいと願っておられますが、私たちが持っている罪が処理され、罪によって壊された私たちと神との関係が修復され、回復されなければ、私たちは天国に入れないのです。人々は、自分の罪を処理し、神に近づくために様々な努力をしてきましたが、そのどれも成功しませんでした。しかし、キリストの救いがこの問題を解決しました。しかも、それは、私たちが罪のために失ったものを回復しただけでなく、罪のために壊してしまった神との関係をも回復したのです。

 それは9節と10節に書かれています。「ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。」これはキリストの「贖い」のことを言っています。贖いは redemption と atonement というふたつの言葉で表します。Redemption は、私たちが失ったものが取り戻されること、atonement は、私たちが損ねた神との関係が修復されることを表します。9節の「キリストの血によって義と認められた」は redemption、10節の「御子の死によって神と和解させられた」は atonement のことを言っています。

 もう少し説明しましょう。人は、神に最も近い者として造られ、神の栄光にあずかる者でした。ところが、罪のために、神から与えられた正しさ(聖書では「義」)、聖さ、また、神の前での立場を失ってしまいました。ローマ3:23に「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず」とあるように、神の栄光からほど遠いものとなりました。しかし、イエス・キリストは、私たちが失ったものすべてを、取り戻し、私たちを、義なる者、聖なる者、神の子どもとしてくださいました。ローマ3:24に「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです」とあるとおり、この事はイエスが成し遂げてくださった「贖い」(redemption)によって実現しました。

 しかし、redemption によって、私たちの罪の問題は解決されても、私たちが壊してしまった神との関係はまだ回復されていません。神の正義、神の聖さ、神の栄光が満たされなければならないのです。しかし、罪ある人間には誰一人、そのことが出来ません。それができるのは、イエス・キリストただおひとりです。

 Atonement は旧約でよく使われる言葉で、日本語では「宥め」と訳されます。旧約時代、神との交わりを回復するため、宥めの供え物がささげられ、それは「和解のいけにえ」と呼ばれました。10節で「もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら…」とあるのは、イエスが「宥めの供え物」、また「和解のいけにえ」となってくださったことを言っています。Atonement は at・one・ment と綴ります。one という文字が入っているように、それは、私たちと神とを「ひとつ」にしてくれるものです。キリストは、私たちが損ねた神との関係を回復し、私たちと神とをひとつにするためにご自身を献げてくださいました。それによって、私たちが神のもとに立ち返る道、天への道を切り開いてくださったのです。

 三、喜びの生活

 第三に、キリストの救いは私たちを「喜び」で満たしてくれます。11節に「そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです」とあります。初代のキリスト者の特徴のひとつは「喜び」でした。イエスは「喜びなさい。喜びおどりなさい」(マタイ5:12)と教え、パウロは「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい」(ピリピ4:4)と言い、ペテロも「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています」(ペテロ第一1:8)と書いています。キリストの救いは私たちに、喜びの生活、喜びの人生を与え、天の永遠の喜びへと導いてくれるのです。

 「喜び」の反対は「悲しみ」だと思われていますが、聖書の教えから言えば、「喜び」の反対は「恐れ」です。「悲しみ」はやがて「喜び」に変わりますが、「恐れ」は「喜び」を消し去るからです。罪ある者は聖なる神の前に立つことができません。いつも、罪への罰に恐れていなければなりません。しかし、イエス・キリストは私たちの罪を赦し、義の衣を着せ、神の前に立たせてくださいました。自らが「和解のいけにえ」となって、私たちに神との和解をもたらしてくださいました。もう「恐れ」はありません。困難な状況に直面して、慌てることも、迷うこともあるでしょう。失敗をして、気落ちしてしまうこともあるでしょう。一時的に喜びが消えてしまうようなこともあるでしょう。けれども、キリストがくださる「喜び」は消えません。イエスが「あなたがたにも、今は悲しみがあるが、わたしはもう一度あなたがたに会います。そうすれば、あなたがたの心は喜びに満たされます。そして、その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません」(ヨハネ16:22)と言われたとおりです。

 ヨハネ第一4:10に「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです」とあります。この言葉は、きょうのローマ5:6-11を見事に要約しています。バプテスマのヨハネはイエスを指さして、「見よ。世の罪を取り除く神の子羊」と言いました。イエスは十字架の上でまさになだめの供え物となりました。「ここに愛がある」、イエスの十字架に神の愛があり、神との和解があります。この愛を受け入れましょう。この和解にやすらぎましょう。その時、私たちは「恐れ」を追放し、「思い煩い」を捨て、神との平和に憩うことができ、そこから生まれる「喜び」に生きることができます。救いの道は「喜び」の道です。この道を進み、さらに大きな「喜び」へと導かれていきましょう。

 (祈り)

 父なる神さま、私たちの心は、キリストを信じる前、不安や恐れで一杯でした。表面では強がっていても、内面は、もろく、臆病で、惨めなものでした。しかし、イエス・キリストを信じたとき、あなたの愛が分かり、平安が与えられ、喜びが生まれました。キリストが、私たちの救いに必要なすべてのことをしてくださり、私たちのために、あなたとの完全な「和解」を成立させてくださったからです。様々なことで私たちの心が揺らぐとき、どうぞ、この事実に立ち返らせてください。あらゆることをここから出発することができるようにしてください。そして、日々を信仰の喜びによって歩む者としてください。主イエスのお名前で祈ります。

2/28/2021