失くならない希望

ローマ5:1-5

オーディオファイルを再生できません
5:1 ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。
5:2 またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。
5:3 そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、
5:4 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。
5:5 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

 ユダヤの人々がナチスに苦しめられたとき、ある人たちは屋根裏や戸棚の裏に作られた隠れ部屋に籠もって難を逃れようとしました。そんな隠れ家で、ある一家が「過越」を守ろうとしましたが、キャンドルがなかったので、代わりにバターを燃やしました。それを見た子どもはバターを惜しみました。そのとき父親は言いました。「バターが無くても人は生きていける。けれども、救いの希望を失ったら、人は生きていけないのだよ。」父親は、先祖たちが「過越」によってファラオの手から救われたように、自分たちのためにもホロコーストから救てくれる「過越」の時が来るとの希望を子どもに教えたのです。人々はその希望によって、あの苦しみの時を乗り越えたのです。

 コロナ・ウィルスの蔓延から始まって、世界は今、ウクライナでの戦争、インフレーションやリセッション、食糧やエネルギーの危機に見舞われています。アメリカでは不法移民とそれに伴う麻薬や不法な銃器の流入、人身売買、治安の悪化などの問題があります。そうした中で私たちはつい悲観的になりがちですが、信仰を持つ者は希望を失ってはいけないと思います。終わりの時代には困難な時がやって来ます。それは定められたことですが、しかし、その中でも、福音は世界中に宣べ伝えられ、希望を失わない者には救いがもたらされるのです。

 私たちは「祝福宣言」の「キリストの恵み」と「神の愛」についてすでに学び、きょうは「聖霊の交わり」をとりあげますが、じつは、この「聖霊の交わり」が私たちに希望をもたらすのです。そのことをご一緒に考えてみましょう。

 一、神との交わり

 「聖霊の交わり」とは何でしょうか。「聖霊との交わり」であると言う人もあります。もちろん聖霊が私たちの内に住まわれることによって、私たちは聖霊との交わりを持つのですが、イエスが「御霊はわたしの栄光を現わします。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです」(ヨハネ16:14)と言われたように、聖霊はご自分を隠して、父なる神やイエス・キリストの栄光を現そうとされます。私たちをキリストとの交わりに導き、キリストは私たちを神との交わりに導かれるのです。ヨハネ第一1:3に「私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです」とある通りです。「キリストの恵み」が「キリストがくださる恵み」であり、「神の愛」が「神がくださる恵み」であるように、「聖霊の交わり」も「聖霊がくださる交わり」という意味になります。ですから、「聖霊の交わり」は、聖霊がくださる神との交わりのことだと言ってよいでしょう。

 では、聖霊による神との交わりはどのようにして私たちのものとなるのでしょうか。それは「罪の赦し」によってです。「交わり」をギリシャ語で「コイノニア」(κοινωνία)と言いますが、これには「共有」という意味があります。互いに同じものを持つ、シェアし合うということです。しかし、聖なる神と罪深い人間のどこに共有できるもの、共通点があるというのでしょうか。ほんらいは、どこにもないのです。しかし、イエス・キリストが私たちの罪を背負って十字架で死んでくださったことにより、罪の赦しが与えられ、神と人との交わりの接点が、共有点が生まれたのです。

 この罪の赦しを得るためには、まず、自分の罪を認めなければなりません。ヨハネ第一1:6-7に、こう書かれている通りです。「もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行なってはいません。しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」平気で罪を犯し続けている人も、「私には罪なんかない」と自分の罪を認めない人も、神との交わりを持つことができません。神との交わりは自分の罪を認め、それを赦していただくことから始まります。ここに希望への第一歩があります。

 罪の赦しを受けた人は、神との平和を得ます。きょうの箇所に「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています」(1)とあります。この「平和」、「平安」は、たんなる「気休め」でも、見せかけのものでもありません。罪を赦され、神との交わりに入れていただいた、本物のたましいの「安らぎ」です。

 そして、この「平安」から「喜び」が生まれます。2節に「またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます」とある通りです。この喜びは、苦しみの嵐が吹けばすぐに消えてしまうような喜びではありません。いやむしろ、患難さえも喜ぶ、消えることのない喜びです。初代のキリスト者は、正しい生活をし、善い行いに励んだのに、イエスが苦しみを受けたように、その信仰のゆえに苦しめられました。ローマ帝国では三百年にわたる迫害がありましたが、それでキリスト者が減っていき、ついに根絶やしになったのでしょうか。いいえ、逆にどんどん増えていき、福音はローマ帝国の隅々にまで、また、国境を越えて世界にまで届けられました。ローマ皇帝の身近な人々も次々とキリスト者になりました。

 なぜでしょう。それは、信仰者たちが希望を失わなかったからです。ローマ5:3-4にはこうあります。「それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。」ここには

「患難」→「忍耐」→「品性」→「希望」
という法則があります。これは「希望の方程式」と呼ばれています。もし、私たちに罪の赦しに基づいた「神とのまじわり」がなかったら、「平安」も「喜び」もありません。大きな患難が来れば、忍耐を失くし、慎みや品性などを保つことができなくなります。悲観したり、人を恨んだり、批判したり、疑い深くなったりしてしまいます。軽はずみなことをして、さらに悪い結果をもたらしたりします。最後は失望、落胆、絶望で終わるのです。しかし、キリストを信じる者は違います。「患難」から「忍耐」が生まれ、「忍耐」によって「品性」が磨かれ、磨かれた「品性」から「希望」が出てくるのです。「希望の方程式」の通りです。この方程式は、頭の中から出たものではありません。パウロ自身の体験に基づいています。数多くの信仰者によって実証済みです。私たちも、これに従うなら、患難から希望を得ることができるのです。

 この方程式が実現するためには、私たちに信仰が必要です。しかし、患難から希望を得るのは、私たちの力によってではありません。聖霊によってです。5節にこうあります。「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」人間的なものだけの希望は、いつか失望に終わることが多いものです。しかし、聖霊が私たちの心に神の愛を注ぎ続け、生み出してくださる希望は、決して失望に終わりません。ですから、「希望の方程式」は、少し変えて、次のように書くことができます。

「患難」→「忍耐」→「品性」→「希望」∞
「∞」は「無限大」の印です。聖霊の交わりによって生まれる希望は失くならないのですから「無限大」なのです。「キリストの恵み」、「神の愛」、「聖霊の交わり」が宣言されるとき、私たちも信仰をもって「アーメン」と答えたいと思います。

 二、互いの交わり

 聖霊がくださる「交わり」、それは何よりも「神との交わり」ですが、そこには「神との交わり」に基づいた信仰者の互いの交わりも含まれています。ピリピ2:1-2に「こういうわけですから、もしキリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください」とあります。ここでの「御霊の交わり」は、聖霊が生み出してくださる互いの交わりを指しています。

 三、分かち合いの交わり

 聖霊がくださる「交わり」には、さらにもう一つあります。それは、互いに持っているものを分かちあう交わりです。「交わり」と訳されているもとの言葉「コイノニア」は、新約聖書には17の箇所に出てきます。その最初が使徒2:42です。「そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた」とあります。ここでの「交わり」は、信仰者が共に集まり、共に学び、共に祈り、共に働くことと共に、持ち物を分け合うことも意味しています。これに続く箇所に、「信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた」(使徒2:44-45)とある通りです。

 エルサレム教会でのこうした共有生活は、ユダヤ人からの迫害という特別な状況のもとで行われたもので、ずっと続いたわけではありませんが、信仰者が実際的な必要を分かち合い、助け合う、「分かち合いのまじわり」は、「献金」という形で続けられました。実際、聖書では「献金」のことが「コイノニア」と呼ばれています。ローマ15:26に「それは、マケドニヤとアカヤでは、喜んでエルサレムの聖徒たちの中の貧しい人たちのために醵金することにしたからです」とありますが、ここで「醵金」と訳されている言葉は、原語では「コイノニア」です。他に、コリント第二8:4の「聖徒たちをささえる交わりの恵み」、コリント第二9:13の「惜しみなく与えていること」、またヘブル13:16の「持ち物を人に分けること」などといった箇所で「コイノニア」という原語が使われています。

 聖書でいう「交わり」が、「献金」や持ち物の分かち合いを指す言葉として使われているのは、とても興味深いことです。このことは、聖書が教える「交わり」が、言葉だけのものでなく、形となって現れるものであることを教えています。ピリピの教会は、パウロの伝道によって生まれたマケドニヤでの最初の教会でした。パウロとピリピの教会は信仰的な「交わり」を持っていましたが、それが形となって現れ、「分かち合いの交わり」も持っていました。

 ピリピの教会は、パウロがマケドニヤを離れてアカヤに伝道していったときも、パウロを援助し続けました。ピリピ4:14-16で、パウロはこう言って、ピリピの信徒たちに感謝しています。「それにしても、あなたがたは、よく私と困難を分け合ってくれました。ピリピの人たち。あなたがたも知っているとおり、私が福音を宣べ伝え始めたころ、マケドニヤを離れて行ったときには、私の働きのために、物をやり取りしてくれた教会は、あなたがたのほかには一つもありませんでした。テサロニケにいたときでさえ、あなたがたは一度ならず二度までも物を送って、私の乏しさを補ってくれました。」聖霊が私たちに与えてくださる「交わり」は、何よりも「神との交わり」であり、霊的、信仰的なものです。しかし、それは、必要なときには、「分かち合いの交わり」となって、目に見える形で現れ、ピリピの教会がパウロの宣教を支えたように、神の働きのために大きく用いられるのです。

 「イエス・キリストの恵み」、「神の愛」、「聖霊の交わり」。この祝福の宣言を聞くたびに、「イエス・キリストの恵み」によって罪を赦され、救われていることを喜びましょう。限りない「神の愛」を受け、神の子どもとされていることを感謝しましょう。そして、聖霊が、私たちを神とキリストとの交わりに導き、私たちが神の愛のうちに歩み続け、やがての救いに入ることができるという希望を持ち続けましょう。この希望がある限り、この不安な時代にあっても、私たちは支えられ、神からの使命を果たすことができるのです。そのことを信じて、今週も一歩を踏み出しましょう。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたは聖霊によって、私たちをイエス・キリストとの交わりに導き入れ、それによってあふれる恵み、祝福を注いでくださいました。私たちもまた、信仰によって、あなたとの交わりにとどまり、あなたにある交わりを保つことができますよう、助けてください。そして、私たちのあなたとの「交わり」に、また、私たちのあなたにある「交わり」に、さらに多くの人々を加えてください。キリストのお名前で祈ります。

7/24/2022