神を喜ぶ

ローマ5:1-5

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5:1 ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。
5:2 またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。
5:3 そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、
5:4 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。
5:5 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

 アドベントには四本のキャンドルを順に灯していきます。最初のキャンドルは「希望」、二本目は「平和」、三本目が「喜び」、四本目が「愛」を表わします。クリスマスには真ん中に白い大きなキャンドルを置き、五本すべてに灯をともします。真ん中のキャンドルは「キリストのキャンドル」と呼ばれ、世の光であるキリストを表わします。しかし、よく考えてみると、「キリストのキャンドル」だけがキリストを表わすのでなく、四本のキャンドルすべてが、キリストを表わしていることが分かります。と言うのは、キリストが私たちの希望、私たちの平和、私たちの喜び、また愛だからです。この世のどんなものも、私たちにほんとうの希望を、ほんとうの平和を、ほんとうの喜びを、そして、ほんとうの愛を与えることはできません。それができるのはキリストだけです。クリスマスというと、ショッピング、ギフト、パーティ、デナー、エンターテーメントなどを楽しむことだと思われ、実際、多くの人が「忙しい。忙しい。」と言いながら過ごしています。しかし、ほんとうのクリスマスは、アドベント・キャンドルを灯しながら、私たちの希望であるキリスト、平和であるキリスト、喜びであるキリスト、愛であるキリストを思いみながら過ごすことではないかと思います。クリスチャンは「ほんとうのクリスマス」を人々に知らせたい、また「クリスマスの喜び」を伝えたいと願っていますが、もしクリスチャンや教会が、イベントやアクティビティだけに忙しくしていて、ほんとうのクリスマスを見失っていたら、どうやって他の人々にそれを伝えることができるのでしょうか。クリスチャンが、まず、クリスマスの意味と喜びを深く体験していたいと思います。

 一、キリストによる喜び

 では、クリスマスの喜びとは何でしょうか。それは、キリストが与えてくださる救いの喜びです。ローマ5:1-2には、キリストを信じる者に与えられる、神からの素晴らしいギフトが三つ記されています。「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。」この聖句から三つのものを見つけることができましたか。第一は、「義と認められた」こと、第二は、神との「平和」、そして、第三は、神の「栄光」です。キリストの救いによって私たちは罪を赦され、神とまじわることができ、そして、神の栄光にあずかることができます。私たちは、この世には決してない、キリストの救いのギフトを喜ぶのです。

 罪の赦しは、救いのギフトの中で第一のものです。罪の赦しがなければ、他のどんなものを手に入れたとしても、そこには喜びはありません。ある時、イエスは七十人の人々に、悪霊を追い出し、病気をいやす権威を与えて、町々、村々に遣わし福音を宣べ伝えさせました。彼らが、町々、村々を巡って、帰ってきたとき、弟子たちは興奮してこう言いました。「主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。」しかし、そのときイエスは、彼らに「悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」と言われました(ルカ10:17-20)。悪霊さえも服従するというイエスの権威を目の当たりにして興奮していた弟子たちに、そのことよりももっと大切なことがあると、主イエスは教えられたのです。ほんとうは神のさばきを受けなければならなかった者たちが、罪を赦され、さばきに会うことなく、天の御国に入るのにふさわしいと認めていただいている、そのことを喜びなさいと、主は教えておられるのです。主イエスはルカ15章で「ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。」(ルカ15:10)と言っておられます。神がもっとも喜んでくださるのは、私たちが罪を悔い改め、イエス・キリストを信じて罪の赦しをいただくときです。神ご自身が、これにまさる喜びは天にはないと言っておられるのですから、私たちも、キリストの救い、キリストによる罪の赦しを大いに喜ぶのです。

 救いは罪の赦しだけで終わりません。罪赦された者は、神とのまじわりに召されています。そして、神とのまじわりの中に生きる者は、やがて現れる栄光を受けるのです。ローマ5:1-2には救いの過去と現在と将来がすべて書かれています。私たちは、イエス・キリストの身代わりの十字架によって罪を赦され、罪のさばきから救われています。これが救いの過去です。私たちはなお、罪の世の中に住み、自分自身の中にも罪が残っています。しかし、神とのまじわりの中に生きるなら、聖霊によって罪の力から守られるのです。これが救いの現在です。そして、イエス・キリストが、再び来て、すべてのものを新しくしてくださるとき、私たちは罪の存在からも救われます。これが救いの将来です。キリストを信じる者は、すでに救われており、今、救われ続け、そしてやがて完全に救われるのです。キリストの救いはいたれりつくせりの救いです。私たちは、こんなに素晴らしい救いをいただいていながら、もし喜びのない生活をしているとしたら、それは、自分たちが持っている救いの宝を見失っているからではないでしょうか。キリストの救いは、キリストの死によって勝ち取られました。いわば「遺産」のようなものです。喜びのないクリスチャンは、何ミリオンドラーもの遺産が自分のアカウントに振り込まれているのに、それを知らないで、「お金が無い。困った。困った。」と心配している人のようなものです。あなたの聖書には、あなたの天のアカウントが記されています。このクリスマスにキリストが与えてくださった救いのギフトを再発見しましょう。そして、キリストによって与えられている喜びを大いに喜ぼうではありませんか。

二、キリストにある喜び

 神が私たちに与えてくださった喜び、それは、第二に、キリストにある喜びです。「キリストにある喜び」というのは、「キリストによる喜び」とは少し違います。「キリストによる」というのは、キリストが私たちに喜びとなるものを与えてくださることを意味します。さきほど見たように、キリストはどんなに喜んでも喜びたりないほどのものを与えてくださっています。主は求める者や飢え渇く者を良いもので満たしてくださるお方です。しかし主は、しばしば苦しみや悲しみ、困難をもお与えになります。それは私たちを訓練し、きよめるためのものです。そんな時、私たちは苦しみます。泣きます。うめきます。叫び求めます。しかし、しばしば、そうした苦しみの中でも不思議な平安や喜びを感じます。なぜでしょうか。どんな苦しみや悲しみ、困難がやってきても、それは、主のお許しなしには起こらないことを知っているからです。イエスは「二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。」と言っておられます。たとえ、なぜこの試練があるのかをすぐには理解できなかったとしても、主の大きな愛の目が自分の上に注がれていることを、私たちは知っています。主は苦しみや悲しみ、また困難の中に私を投げ込んで、知らん顔をしておられるのではありません。聖書に「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの右の手で、あなたを守る。」(イザヤ41:10)とあるように、私を見守り、その手で私を支え、導いてくださっているのです。目にしていること、起こっていることは、決して喜べるようなことではくても、主の手の中に支えられていることを喜び、そのゆえに苦しみや困難をも喜ぶことができるのです。これが「キリストにある喜び」です。

 ピリピ人への手紙で使徒パウロは「喜びなさい。」と言っています。このとき、パウロは迫害を受けて牢につながれていました。偽使徒たちが信者たちを食い物にしようとしていました。教会内ではふたりの女性ユウオデヤとスントケが一致できないでいました。なのにパウロは「喜びなさい。」と教えているのです。普通では喜べないことを、どうやって喜ぶのでしょうか。それは「主にあって」です。パウロはただ「喜びなさい。」と言ったのでなく、「主にあって喜びなさい。」(ピリピ3:1)と言っています。「主にあって」ということばを外してしまうと、クリスチャンの喜びが、何事もニコニコしていれば良いとか、ものごとを深く考えないで笑ってやりすごせば良いといったものになってしまいます。そうしたものはほんとうの喜びとはほど遠いものであり、かえって、ほんとうの喜びを奪い取ってしまいます。ほんとうなら、喜べないようなことも、それが主にあって目的があり、主にあって益になり、善に変わると信じて、それを喜ぶ。それが「主にあって」の喜びです。「患難をも喜ぶ」(ローマ5:3)ことができる喜びは、「主にあって」の喜びです。キリストを知る者たちは「キリストによって喜ぶ」ことともに、「主にあって喜ぶ」ことをも知っている者たちなのです。

 三、キリストを喜ぶ

 私たちは今朝、まず「キリストによって喜ぶ」こと、次に「キリストにあって喜ぶ」ことを学びましたが、さらに「キリストを喜ぶ」ということに進みたいと思います。これこそ究極の喜びです。神は、このクリスマスに、この喜びを体験するようにと、私たちを招いておられると思います。

 「キリストを喜ぶ」というのは、キリストがくださる良いものを喜ぶというのでも、今は苦しく、つらいこともやがてそれが良いものに変わると信じて喜ぶというのでもなく、キリストご自身を喜ぶことです。私のこどもがまだ小さかったころ、私たちは新潟にいました。そのころ教団や宣教団体の理事、聖書学校の教師をしていましたので、会議や講義のために東京に行くことが多くありました。仕事が終わって帰ってくると、こどもたちが迎えてくれるのですが、「ただいま。」と言って返ってくる返事が「おかえりなさい。」ではなく、「おみやげは?」ということがときどきありました。私は、そのことを思い出しながら、私の父なる神に対する態度はどうだっただろうかと反省しました。神ご自身よりも、神が与えてくださるものを求めてはいなかっただろうかと考えてみました。クリスチャンが神ご自身を求めず、神が与えてくださるものだけを求めるとしたら、それは「ご利益宗教」になってしまわないだろうかと思ったのです。人々が教会に来るようになるきっかけ、信仰を求めはじめた動機はさまざまで、中には何かのベネフィットを求めるということもあったかもしれません。しかし、キリストを信じて、信仰が成長してくると、神の与えてくださるベネフィットよりも、与え主である神を愛し、喜ぶというところに導かれていきます。

 新聖歌346に「かつてはわれ良きものを、求めて主を忘れたり。賜物より、癒しより、与え主ぞ、さらに良き。」という賛美があります。コリント第一12:8-10にある「知恵、知識、信仰、いやし、奇蹟、預言、霊を見分けること、異言、異言を解き明かすこと」という九つの聖霊の「賜物」はどれも素晴らしいものです。しかし、同時にガラテヤ5:22-23にある「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」という九つの御霊の「実」がなければ、「賜物」も間違って使われてしまい、神の栄光を妨げることもあるのです。聖書で「賜物」というのは「霊的賜物」をさすのですが、最近それが誤解され、生まれつきの才能までも「賜物」と呼ばれるようになったのは、残念です。クリスチャンの間でも、人をその能力や外側のものだけで評価し、何か特別なことができる人は重んじられ、目立たない人は軽んじられるといったことがあるとしたら、それは聖書に反することです。こういうのを professionalism というのですが、それはジェームス・ヒューストン先生が『喜びの旅路』の中でも警告していることです。私の知っている宣教師は、何かというと「主ご自身」ということばを使い、いつも「主ご自身に心が向けられますように。」と祈っていました。あまりにも、賜物だけに心を向けられてしまうと、主ご自身が忘れられます。自分自身の人格的な成長がなくなります。そして、信仰のまじわりを損ないます。

 聖書は、悪や不正を行う者によって苦しめられている信仰者に、「主に信頼して善を行なえ。地に住み、誠実を養え。主をおのれの喜びとせよ。」(詩37:3-4)と教えています。悪と不正が横行する中で、腹立たしく思うことはたやすく、喜ぶことは困難なことです。しかし、そんなときも、主ご自身を喜ぶ訓練を受けたいと思います。その訓練は、決して簡単なものではありません。この世のあらゆるもの、自分の願い、自分の計画などをいったん神にささげ、神の前で時を過ごす必要があるからです。それは、かならずしも喜ばしい訓練ではありませんが、この訓練を受けて、神ご自身を喜ぶ喜びに達したいと心から願います。そしてローマ5:10にあるように「神を大いに喜ぶ」ものとなりたいと祈っています。

 今年は大きなポインセチアが寄贈され、礼拝堂を飾っています。ポインセチアの赤い部分は花ではなく、草かんむりに「包」という字を書いて「苞」(ほう)と呼ばれるもので、花そのものはその先に小さいものがついています。この赤い「苞」は、イエス・キリストが十字架で流された血を表わし、緑の部分は、キリストがその死によって私たちのために勝ち取ってくださった永遠の命を表わしています。この礼拝堂はほとんど光が入らないので、礼拝が終わるとポインセチアは陽のあたるところに置かれ手入れされています。ポインセチアは挿し木をして増やせるそうで、ある人がそうやって自分でポインセチアを育てました。昼間は窓際に置いて十分に陽をあて、夜は、窓際が寒くなるので、部屋の真ん中に置いて、それは大切に育てたのです。ポインセチアはすくすく育ちました。ところが、クリスマスが近づいても「苞」の部分、赤いところが現われません。全部緑のままなのです。どうしてかと思って調べてみたら、冬になり夜が13時間以上にならないと赤い部分が現われないということがわかりました。家の中で照明があり、夜も明るかったので「苞」ができなかったのです。そんなときは袋などをかぶせて光をさえぎる必要があったのです。私は、このポインセチアの話を聞いて、ほんとうの喜びが花開くには、私たちにも、暗い冬に似た訓練の時が必要なのだということが、あらためて分かりました。

 このクリスマス、キリストが与えてくださった救いの恵みを喜びましょう。キリストにあって、喜ぶことを学びましょう。そして、詩篇に「私たちのたましいは主を待ち望む。主は、われらの助け、われらの盾。まことに私たちの心は主を喜ぶ。」(詩33:20-21)とあるように、神を、キリストを、主ご自身を喜ぶことへと導かれていきましょう。

 (祈り)

 神さま、あなたは私たちを罪から救い、永遠の命を与え、神のこどもとしてくださいました。あなたは私たちの人生の意味となり、目的となり、力となっていてくださり、私たちに必要なすべてのものを与えてくださっています。私たちは、このうえ何を、あなたに求め願う必要があるでしょうか。もしあるとすれば、それは私たちがもっとあなたご自身を喜ぶことができるようにということです。私たちをあなたの臨在のもとに導き、それを喜ぶものとしてください。そして、あなたご自身を喜ぶ者たちがともに喜びあうことのできる教会としてください。御子イエスのお名前で祈ります。

12/16/2007