神との平和

ローマ5:1-5

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5:1 ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。
5:2 またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。
5:3 そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、
5:4 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。
5:5 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

 クリスマスになると思い出すことがあります。それは、ダラスの日本語教会でクリスマスに寸劇をしたことです。広島さんという人が脚本を書きました。「天の法廷」という題で、三人の人が死んで神のもとに行き、天の法廷で、それぞれが地上での生涯の言い開きをするというものでした。最初の二人は、「私はこんなに善良だった。良いことをした。」と主張するのですが、天の門は開かれません。ところが、三人目の人は、ただただ自分の罪を悔い改めるだけでしたが、この人のために天の門が開かれ、この人はパラダイスに迎えられるのです。他の二人が、それは不公平だと、神に訴えるのですが、神は「救われるのは、行いによるのではない。恵みにより、信仰によるのだ。おまえたちは、自分の不十分な行いに頼り、自惚れてきた。罪を悔い改めて、わたしの恵みに信頼しなかった。」と言って最初の二人を退けてしまわれるというストーリーでした。広島さんが演出で、国沢さんの奥さんと私が最初の二人を演じ、国沢さんが三人目を演じ、家内が神の声を担当しました。このストーリーは広島さんが、交通違反をしてしまい、裁判所に出頭しなければならなくなった時の体験から作られたものでした。駐在社員として日本から派遣されていた広島さんにとって、裁判所に、しかもアメリカの裁判所に行かなければならないというのは、まったくはじめてのことでした。裁判所に行ったら、何といえば良いのだろう。判事から何と言われるのだろう。どれぐらい罰金を払わなければならないのだろう。また、このことで会社に迷惑がかからないだろうかと、ずいぶん心配していました。ドキドキしながら裁判所に行ったら、なんと、彼のケースは裁判で取り上げられないことになり、どんな処分も、罰金も無しということになったのです。裁判所に着くまでは心配の連続だった広島さんは、裁判所から帰るときには感謝と平安で満たされていました。自分は交通違反をしたのだから、罰があって当たり前なのに、晴れて無罪となったのです。いつ裁判所から呼び出されるのだろうか、どれだけ罰金を払わなければならないかと、もう心配する必要はなくなったのです。広島さんは、このことから、神がイエス・キリストの十字架によって自分の罪を赦してくださった恵みを深く覚えたのです。「私は、罪のために滅びて当然なのに、神から『無罪』と宣言していただいています。この神の大きな恵みが、このことで、いっそうよく分かりました。」と、広島さんは言っていました。その感動の中から、さきほどの寸劇の脚本が出来たのです。広島さんは、この寸劇によって、罪を赦された者の平安を伝えようとしたのです。

 一、平安を奪うもの

 人の心から平安を奪うもの、それは罪です。犯罪を犯して、日本中を逃げ回っていた男が警察に捕まりました。その時、その男は「これでやっと、ゆっくり眠られる。」と言ったそうです。逃げ回っている時にはいつ捕まるかとビクビクしながら毎日を過ごしており、ゆっくり眠った日は一日もなかったというのです。どんなに健康でも、どんなにお金があっても、罪のあるところに、罪の責めを負っているところに、本当の平安はありません。聖書に「悪者どもには平安がない」(イザヤ48:22、57:21)とあります。

 罪のあるところに平安がないことは、おとなになってやっと分かることではなく、こどもも知っています。こどもは何か悪いことをしたとき、かならずそれが表情や態度に出ます。不安な顔をし、落ち着かない態度を示します。こどもにも罪があります。しかし、こどもは純粋な罪びとで、自分が罪を持っていることを素直に認めます。ところがおとなになると、自分の罪を素直に認めないで、それをカバーアップしようとします。学歴や経歴、能力や財産、地位や業績などといったもので自分を囲い込んで平安を得ようとするのです。しかし、そうしたものは決してほんとうの平安を与えるものではありません。あるアメリカの金持ちが、「私に一時間でも平安をあたえてくれるものがあったら、百万ドルのチェックを書こう。」と言いましたが、平安は決してお金で買えるものではありませんし、力でもぎとることのできるものでもありません。むしろ、神の前に無力になってはじめて、手にすることができるものなのです。

 イスラエルの王の中で最も尊敬されているのはダビデです。ダビデはそれまでばらばらだったイスラエルの十二部族を統一し、イスラエルを圧迫してきた周辺の民族に打ち勝ち、イスラエルを強力な国家に作り上げた人物です。ダビデはあらゆる財宝に恵まれ、一切の権力を手にしていました。しかし、それだけなら、たんなる独裁者に過ぎませんが、ダビデは勇敢で、心温かく、神を恐れる信仰の人でした。それで、ダビデの部下は彼に忠誠を誓い、人民はみな彼に信頼していました。王として申し分のない人物でしたが、彼もまた罪と弱さを持った人間でした。ダビデは、ある時、自分の忠実な部下の妻と姦淫の罪を犯し、しかもそれをカバーするために、その部下を戦場で殺させ、彼の妻を自分のものにしてしまいました。いまから三千年も前の古代では、一国の王にとって、兵士ひとりの命などなんでもないことであり、その妻をわがものとしたからといって、さして非難されることでもありませんでした。このことでもダビデに対する部下の忠誠や人民の信頼はゆるぎませんでした。しかし、この罪を犯してからダビデの心は平安を失いました。ダビデには自分のしたことを忘れさせてくれる忙しい仕事や、あらゆる楽しみがありました。しかし、彼の心は決して晴れることはありませんでした。ダビデはその時のことをこう言っています。

私は黙っていたときには、一日中、うめいて、
私の骨々は疲れ果てました。
それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、
私の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです。(詩篇32:4)
ダビデを責める者が誰もなくても、神が彼の心を責めました。ダビデは罪によって心の平安を失い、それまで持っていた神との平和をなくしてしまったのです。罪は人間から平安を奪います。平安を奪いとり、神との平和をそこなうのは実に、罪なのです。

 二、信仰による平安

 では、ダビデはどのようにして、心の平安をとりもどし、神との平和を回復したのでしょうか。それは、自分の罪を罪として認め、悔い改めて神に赦しを乞うことによってでした。ダビデは心からの悔い改めをし、神に赦しを乞いました。

私は、自分の罪を、あなたに知らせ、
私の咎を隠しませんでした。
私は申しました。
「私のそむきの罪を主に告白しょう。」
すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。(詩篇32:5)
と、ダビデは言っています。どんな罪も権力によっては塗りつぶすことはできないのですが、世の権力者たちは、自分の罪を権力によって塗りつぶそうとします。しかし、ダビデはそのような人物ではありませんでした。ダビデは自分の犯した罪を隠しませんでした。彼はひとりの罪びととして神の前にひれ伏し、悔い改め、赦しの恵みによりすがりました。ダビデは、信仰によって、ただ、神の恵みによって、罪の赦しを得ました。ダビデはその喜びを、同じ詩篇で
幸いなことよ。
そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。
幸いなことよ。
主が、咎をお認めにならない人、
心に欺きのないその人は。(詩篇32:1-2)
と歌っています。

 ローマ人への手紙は、4章で、このダビデの例を引いて、罪の赦しは信仰によって与えられると教えています。ダビデと私たちでは、時代も環境も、立場も地位も何もかも違います。私たちのほとんどはダビデと同じ罪を犯してはいないでしょう。しかし、だから私たちはダビデよりも罪が深くないと言えるでしょうか。ダビデほど深く神を愛した人はいませんから、その愛に劣る私たちは、たとえ、ダビデと同じ罪を犯していなくても、神への愛のなさにおいてどれほど大きな罪を犯しているかわかりません。また、ダビデは選ばれた王だったから罪を赦されたので、私のように何の立場もない者は赦されないのだということもできません。神はたとえ、王であれ、どんなに有力、有能な人物であれ、罪を犯したなら、それを裁き、その人を王座から引き下ろされるお方です。ダビデが罪を赦されたのは、彼の功績によってでなく、信仰によってでした。罪の赦しは、どんな行いや功績によっても勝ち取ることはできません。それれはただ信仰によってだけ得られるものです。聖書は、どの時代のどこの人であっても、信仰によってだけ、罪の赦しを得られるのだと教えています。

 罪の赦しは、法律の言葉では「義認」と言われます。神が与えてくださる罪の赦しは、たんに罪を見逃してもらうといった、あやふやなものではありません。もし、そうであるなら、今回は見逃してもらったが、この次はダメかもしれないということになり、とても、平安など得られるものではありません。神が私たちの罪を赦してくださるとき、神は、神の法廷から、私たちに「無罪」を宣告してくださるだけでなく、神に受け入れられるほどに正しい者であると宣言してくださるのです。「義認」の「義」とは、正しいことや、正しいことの基準を意味します。神ご自身が「義」なるお方で、義なる神は、人間と人間の社会に正しさを求められ、あるべき基準を定められました。ところが、人は誰ひとり神の義に届く者はありません。ローマ3:23に、「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができない」とある通りです。すべての人は、神の「義」という基準から見れば、みな失格者なのです。しかし、神は、そんな人間を憐れんで、ご自分の御子を世に遣わしてくださいました。イエス・キリストは、人として罪のない生涯を送り、神のみこころに完全にかなう人生を生きられました。イエスは神の「義」を満たされたのです。なのに、イエスの生涯の最後は、罪の報いである十字架の死でした。なぜでしょうか。一体何が起こったのでしょうか。イエス・キリストは、あの十字架の上で人類の罪をご自分の身に引き受けられたのです。このことのゆえに、神は、イエス・キリストを信じる者にイエス・キリストの「義」を分け与えて、罪びとの罪を赦し、罪びとを正しい者とし、救ってくださるのです。ローマ4:25に「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」とあるのは、じつに、このことなのです。

 神の法廷に出るとき、人間には神に申し立てることのできる自分の「義」など何ひとつありません。しかし、イエス・キリストを信じ、その「義」をいただくなら、その人は、神の法廷で「無罪」を宣言されるのです。聖書に「わたしは主によって大いに楽しみ、わたしのたましいも、わたしの神によって喜ぶ。主がわたしに、救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせ、花婿のように栄冠をかぶらせ、花嫁のように宝玉で飾ってくださるからだ。」(イザヤ61:10)とあるように、キリストの「義の衣」が私たちをおおってくれるのです。これはなんという平安でしょうか。もし、人が自分の正しさに頼るとしたら、人間の正しさなど、ぼろ布ようなものですから、たえず、不安でいなければなりません。しかし、キリストの「義」によってすっぽりと覆われているなら、もう安心です。「信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」(ローマ5:1)というのは、このような平安をさしています。

 三、平和への招き

 「神との平和」ということばは、罪の赦しによって与えられる平安とともに、罪の赦しによって開かれた神とのまじわりをもさしています。罪の赦しは法廷での無罪宣言だけでは終らないのです。罪を赦され、神の法廷で義と認められた人々は、神の宮廷に招待され、神との親しいまじわりを与えられるのです。神が人の罪を赦されるのは、神がその人とのまじわりを回復するためなのです。神の法廷で「義」と認められたからといって、それですっかり安心しきって、ふたたび自分の古い生活に帰っていったのでは、義と認められたことの意味がなくなってしまいます。義と認められたからこそ、もっと神に近づき、神とまじわることに励む、それが、義と認められた者に求められているのです。

 イエスは罪びとと呼ばれてさげすまれていた人々とよく一緒に食事をされました。この食事は、罪の赦しの後に来る神とのまじわりを表わすものでした。それは、罪赦された者とともに、神が常にともにいてくださるということのしるしでした。コンパニオン(同伴者)ということばがあります。これは、ラテン語の cum panis(「パンを共にする」)ということばから来ています。日本語でも「同じ釜の飯を食う」ということばがあります。「いっしょに食事をする」といっても、レストランで大勢の人がいっしょに食事をするのとは違います。これは、喜びや悲しみ、感謝や苦しみを共有するというもっと人格的なまじわり、心の一致を意味しています。イエスは、私たちの罪を赦すだけでなく、私たちと共に食事をしてくださいます。つまり、私たちのコンパニオンとなってくださいます。イエスは私たちの生涯のコンパニオンです。たとえ、私たちがイエスから離れるようなことがあっても、主は私たちを見捨てることはありません。そして主は、「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」(黙示録3:20)と、私たちに呼びかけておられます。イエスが私の人生の同伴者になってくださったのですから、今度は、私がイエスとともに歩み生きる、イエスの同伴者になるのです。イエスは、私たちにそのことを求めておられます。罪を悔い改め、それを言い表わし、イエス・キリストを心に迎え入れ、イエスとともに歩む、そのとき、あなたに、平安がやってきます。神とのへだてのないまじわりが与えられます。

 ある人が「ほんとうにそれだけで、心の平安を、神との平和を得られるのでしょうか。なんだか話がうますぎると思います。」と言いましたが、では、私たちは何かをして、心の平安を得、神との平和を勝ち取ることができるのでしょうか。修業を積み重ねれば心の平安に至るのでしょうか。良い行いを積み重ねれば、神との平和がやってくるのでしょうか。いいえ、平安は罪の赦しからだけしか来ません。そして、罪の赦しは神から恵みによって与えられるものであって、人間の努力で勝ち取ることができるものではありません。罪の赦しのために、神との平和のために必要なことはイエス・キリストがすべてしてくださいました。私たちにできることはただそれを受け取ることだけです。その恵みの中に生きることだけです。確かに話がうますぎます。だからこそ、これは「福音」(グッド・ニュース)なのです。

 ダラスの教会で演じた寸劇の脚本を書いた広島さんは、アメリカに来て、この福音を聞き、罪の赦しから来る平安、平和を体験しました。彼は、日本に帰ってから神学校に行き、今は牧師として、この福音を伝えています。その寸劇の中で、悔い改めて神の赦しを受けた男の役をした国沢さんも牧師となり、テキサスで働いています。ふたりとも、福音によって生かされ、そして、福音のために生きるものとなったのです。すべての人が牧師、伝道者、宣教師に召されるわけではありませんが、すべてのクリスチャンは、この福音のあかしびととして召されています。いわゆる「立派な」クリスチャンでなければ福音をあかしできない、多くの人に名が知られているようなクリスチャンだけがあかしをすれば良いというのではありません。ほんとうに罪の赦しの恵みに生かされているクリスチャン、神との平和の中にいるクリスチャンなら、誰でも、このグッド・ニュースをあかしすることができるし、しなければならないのです。このクリスマスのシーズンに、この平和の福音に生き、これをあかししていく私たちでありたいと願います。

 (祈り)

 父なる神さま、最初のクリスマスに、天使たちは「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」と歌いました。あなたは、御子イエスの十字架と復活によって、私たちにあなたとの平和を与えてくださいました。それで私たちは「神は世人と和らぎませば、栄えあれよとみ使い歌う」とあなたを賛美しています。罪の赦しによって与えられる神との平和。この大きな賜物を感謝します。ひとりでも多くの人がこの平和を受け取ることができるよう、私たちのあかしを用いてください。主の御名で祈ります。

12/9/2007