最後のアダム

ローマ5:12-15

オーディオファイルを再生できません
5:12 そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、──それというのも全人類が罪を犯したからです。
5:13 というのは、律法が与えられるまでの時期にも罪は世にあったからです。しかし罪は、何かの律法がなければ、認められないものです。
5:14 ところが死は、アダムからモーセまでの間も、アダムの違反と同じようには罪を犯さなかった人々をさえ支配しました。アダムはきたるべき方のひな型です。
5:15 ただし、恵みには違反のばあいとは違う点があります。もしひとりの違反によって多くの人が死んだとすれば、それにもまして、神の恵みとひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、多くの人々に満ちあふれるのです。

 一、中間時代

 旧約は創世記からはじまりマラキ書で終わっています。マラキ書の最後のページを一枚めくれば新約のマタイの福音書になるのですが、実は、マラキ書とマタイの福音書の間にはおよそ400年の「中間時代」と呼ばれる期間があります。

 この期間に世界は大きく動きました。アレキサンダー大王がペルシャを滅ぼし(紀元前330年)、アレキサンダーの帝国は彼の死後分割され、セレウコス朝シリヤが建国されました(紀元前312年)。ユダヤの地はエジプトの支配に置かれていたのですが(紀元前320年)、シリヤの支配のもとに移され(紀元前198年)、アンティオコス王はユダヤの人々を圧迫し、神殿を汚しました(紀元前168年)。これを機にユダヤの人々はシリアに対抗し、ユダ・マカベウスはシリア軍を打ち破りました(紀元前166年)。

 ユダヤの人々は、シリアから独立し、大祭司が王となって治める国となりました(紀元前142年)。しかし、ローマのポンペイウスがエルサレムを攻略し、ユダヤはローマの属国になりました(紀元前64年)。ヘロデはエドム人でしたが、ローマの元老院にとりいって、ユダヤ王の称号を得(紀元前40年)、紀元前37年から4年までユダヤを治めました。マタイの福音書は「イエスがヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになった」(2:1)と書いていますので、イエスの誕生もまた紀元前4年ということになります。

 ヘロデの死後、ヘロデが治めた地域はヘロデの子どもたちが分割して治めました。しかし、皇帝アウグストはヘロデの子アケラオを斥け、ユダヤとサマリヤ、イドマヤ地方を総督が治める「属州」としました(紀元6年)。ガリラヤはローマの属州にはならず、ヘロデ・アンティパスによって治められました。イエスは、このガリラヤ地方で育ち、そこで宣教を始めたのです(マタイ2:22)。

 ローマの属州を治める総督はふつうは元老院のひとりが任命されるのですが、ユダヤ属州は騎士階級から総督が選ばれました。それで、エルサレムをはじめユダヤの各地に数多くのローマ兵が駐屯することになったのです。ローマ帝国のもとでも、ユダヤの人々は、神殿を保ち、自分たちの宗教を守ってきましたが、政治や経済、日常の営みの中で、大国の圧迫を肌で感じながら生活していました。信仰深い人々は、自分たちをそのような苦しみから救ってくれるメシア(ギリシャ語で「キリスト」)を待ち望みました。そして、神は、その約束に答え、救い主イエスを送ってくださり、新約の時代が始まったのです。

 こうした歴史の知識は聖書を読むのに役立ちます。しかし、それを少し長くお話ししたのは、神が、じつに歴史の中に、私たちの現実の中に働いておられることを分かってもらいたかったからです。聖書は人類の歴史や人間の営みからかけ離れた神話やファンタジーではありません。それは、旧約から新約に至る長い時代に、様々な苦しみを背負ってきた人々を救い、慰め、励まし、力づける、現実的な言葉です。ですから、聖書の言葉を信じて従うなら、私たちは聖書が約束する神の恵みと力を受けることができるのです。聖書は単なる精神修養の書物ではありません。私たちの実際の生活の中に働いておられる恵み深い神へと私たちを導くものなのです。私たちは、私たちのうちに働く、神の恵みをすでに体験してきましたが、これからも、さらに体験していきたいと思います。

 二、系図が語るもの

 新約の最初に置かれているマタイの福音書は、イエス・キリストの系図から始まっています。それは、イエスこそが、旧約で預言されていた救い主であることを証明するものです。この系図には「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図」(マタイ1:1)という表題がついています。「ダビデの子」は、救い主を指す言葉でした。救いを求めた人たちはイエスに向かって「ダビデの子よ。私たちをあわれんでください」(マタイ9:27、15:22、20:30-31)と叫びました。また、イエスがエルサレムに入城したとき、人々は「ダビデの子にホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に」(マタイ21:9)とイエスを賛美しました。使徒パウロも「私の福音に言うとおり、ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい」(テモテ第二2:8)と教えています。イエスは「ダビデの子」だと言っているのです。

 「キリスト教」と名乗りながら、聖書に反する勝手なことを教えている宗教がたくさんあります。中には、教祖が「自分こそキリストだ」と言っているものもあります。もし、自分がキリストだと言うのなら、その人はダビデの子孫でなければなりませんし、貧しく育ち、知恵に満ち、柔和であわれみ深く、常に真理を語り、悪霊を追い出し、病人をいやし、死んだ人を生き返らせなければなりません。聖書のあらゆる預言を成就し、十字架で死に、復活しなければならないのです。そんな人は、イエスの他、どこにもいません。「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです」(使徒4:12)とある通りです。マタイの福音書の系図は、イエスがダビデの子、まことの救い主であることを証明しています。

 また、この系図は、救い主が人間の罪と苦しみを引き受け、人々をそこから救うお方だということも、物語っています。「イエス」という名が「ご自分の民をその罪から救ってくださる方」(マタイ1:21)という意味を持っている通りです。

 マタイが書いた系図にはアブラハムからダビデまで14名、ダビデからエコニヤまで14名、エコニヤからイエスまで14名、合計42名の男性の名前が書かれています。それに加え、タマル、ラハブ、ルツ、ウリヤの妻、そしてマリヤと、5人の女性の名前も書かれています。聖書に親しんでいる人なら、こうした人々の名前を聞くだけで、その背後にある物語を思い起こすことでしょう。そこには敬虔な人々の立派な物語ばかりでなく、不信仰や不道徳な物語もあります。救いと祝福の物語もあれば、堕落と滅亡の物語もあります。救い主は、そうした人間の罪と、そこから生まれる苦しみのすべてを引き受けるために世に来られたのです。

 イエスが「ご自分の民をその罪から救ってくださる方」という場合、「ご自分の民」とはユダヤの人々だけなのでしょうか。いいえ、イエスの系図の中には、ラハブやルツなどユダヤ人でない人たちが記されています。また、イエスはローマの百人隊長の信仰を誉め、カナン人の女性がイエスを「ダビデの子よ」と呼んだ信仰にも報いています。新約が言う「神の民」は、生まれや血筋によるものではなく、神とキリストを信じるすべての人のことなのです(ヨハネ1:12-13)。

 ルカはそのことを明らかにするために、マタイとは違った、もうひとつの系図を載せました。それは、ルカ3:23-38にあります。それは、このような言葉で始まっています。「教えを始められたとき、イエスはおよそ三十歳で、人々からヨセフの子と思われていた。このヨセフは、ヘリの子、順次さかのぼって、マタテの子、レビの子、メルキの子、ヤンナイの子、ヨセフの子…。」そして、こう言って終わっています。「エノスの子、セツの子、アダムの子、このアダムは神の子。」マタイのものとの大きな違いは、ルカがアブラハムからさらにさかのぼってアダムにまで至っていることです。ルカは、イエスの系図をユダヤ人の先祖であるアブラハムからさらに全人類の先祖であるアダムにまでさかのぼらせることによってイエスが全人類の救い主であることを明らかにしているのです。

 三、アダムとキリスト

 このアダムとキリストとの関連はとても大切です。私がよく聞く質問に、「ユダヤの人であるイエスがなぜ、全人類の救い主なのですか」「二千年も前に、たったひとりの人がしたことがなぜ、現代の私たちを救うのでしょうか」というものがあります。それに対する答えは、アダムとキリストとの比較、関連の中にあります。

 私たちはみなアダムの子です。誰もがアダムの遺伝子を持ち、その血を受け継いでいます。親がしたことの結果が子に影響を与え、一国の代表者がしたことが国民全体に及ぶように、アダムは全人類の代表者であり、アダムが犯した罪の結果は全人類に及びました。ですから、人類が救われるためには、アダムに代わる新しい代表者が必要となるのです。それが、イエス・キリストです。

 ヨハネ1:12-13にこうあります。「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の望むところでも人の意志によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」神はキリストを信じる者を神の子どもとして生んでくださいました。つまり、キリストを代表とし、キリストから出た「新しい人類」とされたのです。

 ローマ5:12に「ひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がった」とあるように、「アダムの子」は、その親であり代表者であるアダムと同じ罪を繰り返し、死の世界に閉じ込められてきました。神の言葉に従うことをせず、神のみこころに逆らい、自らにその結果を招いてきたのです。しかし、神の子たちの代表者イエスは父なる神のみこころに完全に従い、ご自分のいのちさえも差し出されました。それによって、アダムの違反を贖い、私たちを死からいのちへと救い出してくださったのです。アダムのした違反がその後の全人類に影響を与えたのなら、イエスがしてくださった救いの恵みが、時を越えて、すべての人に、私たちにも及ばないはずがないのです。ローマ5:15が「もしひとりの違反によって多くの人が死んだとすれば、それにもまして、神の恵みとひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、多くの人々に満ちあふれるのです」と言っているのは、そのことです。

 イエス・キリストは私たちの罪の身代わりとなって死なれました。そして、復活して、私たちにいのちを与えるお方となりました。コリント第一15:22には「すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです」とあります。またコリント第一15:45には「聖書に『最初の人アダムは生きた者となった。』と書いてありますが、最後のアダムは、生かす御霊となりました」とあります。アダムは神からいのちを与えられ、「生きた者」となりました。しかし、キリストは、復活によって、私たちを「生かすお方」となってくださいました。

 キリストは「第二のアダム」と呼んでよいのですが、コリント第一15:45では「最後のアダム」と呼ばれています。それは、キリストによる救いは完全なものであって、第三のアダムや第四のアダムが必要ないからです。アダムから始まった罪の影響が今も世界を覆っています。しかし、同時に、キリストが成し遂げてくださった救いの恵みもまた全世界に届いています。誰でも、信じるなら、それを受け取ることができます。アダムはエデンの園を失いましたが、キリストは「死も、悲しみも、叫び声も、苦しみもない」(黙示録21:4)永遠の都に私たちを導き入れてくださるのです。キリストの救いは過去のものではありません。今、働き、永遠までも続く救いです。

 イエスはじつに「私たちをその罪から救うお方」、私たちの救い主です。この救い主をさらに深く知り、このお方にしっかりとつながっていたいと思います。

 (祈り)

 恵み深い神さま。あなたは、アダム以来、あなたから離れている人類を見捨てず、あなたに背いたあなたの民をもあわれみ、時が満ちて、イエス・キリストを「最後のアダム」として世に送ってくださいました。この方の他、救い主はありません。このお方に信頼する私たちに、その確信をさらに強くお与えください。イエス・キリストのお名前で祈ります。

3/1/2020