信仰と奉仕

ローマ12:3-8

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12:3 私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。
12:4 一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、
12:5 大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。
12:6 私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。
12:7 奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教えなさい。
12:8 勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行なう人は喜んでそれをしなさい。

 私たちが今取り組んでいる「5つの目的」は、五つのキーワードで表わすことができます。それは、「礼拝」、「まじわり」、「弟子訓練」、「奉仕」、そして「伝道」です。この五つがこの順序で並んでいることには意味があります。この順序は、まず、「優先順位」を表わしています。「礼拝」、「まじわり」「弟子訓練」という順序は、神を第一とし、教会を第二にし、自分を第三にすることを、「奉仕」、「伝道」という順序は、まず教会に仕えること、次に社会に仕えることを教えています。また、この順序は、依存関係も表わしています。つまり、神への「礼拝」があってはじめて、教会の「まじわり」が生まれ、教会の「まじわり」の中でこそ「弟子訓練」つまり「信仰の訓練」がなされる、そして「信仰の訓練」に基づいて「奉仕」が、「奉仕」に基づいて「伝道」がなされるのです。「礼拝」の上に「まじわり」、「まじわり」の上に「信仰の訓練」、「信仰の訓練」の上に「奉仕」、「奉仕」の上に「伝道」が来るのです。「伝道しましょう。」「奉仕しましょう。」と掛け声をかけても、それがうまくいかないのは、たいていの場合、それ以前の「礼拝」や「まじわり」、「信仰の訓練」がきちんと理解されていない、また、体験されていないからではないかと思います。今回、「礼拝」から始まって「伝道」にいたるまで、順序を踏んで学んでいるのは、とても幸いなことです。これによって、私たちも、信仰生活において、踏むべき順序をしっかりと踏みしめていきたいと思います。

 今朝は、第4の目的「私は神に仕えるために造られた。」ということ、つまり、奉仕について学びます。奉仕は、先ほど言いましたように、「礼拝」、「まじわり」、「弟子訓練」もしくは「信仰の訓練」に基づいたものですので、今朝は、奉仕がどのように「礼拝」や「まじわり」、また「信仰の訓練」とかかわっているかを学び、奉仕とは何なのかをしっかりと理解しておきたいと思います。

 一、奉仕と礼拝

 まず、奉仕と礼拝について考えてみましょう。ローマ人への手紙は、クリスチャン生活は、神への礼拝から始まると教えています。ローマ12:1-2に「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」とあります。これは、信仰生活とは、神を第一とする生活だということを教えています。『人生を導く5つの目的』の最初にある「人生はあなたが中心ではありません。」というのは、ある人にはショッキングなことばだったと思います。英語では "It's not about you." となっていて、もっと強烈な言い回しになっています。私たちは、クリスチャンになって、神が私の造り主であり、キリストが人生の主であるということを知ったのですが、いつの間にかそれを忘れて、自分の人生は自分のためにあるという考え方に戻ってしまうことがあります。私のためにキリストが死んでくださったことは信じているのですが、私はキリストのために生きるのだという献身に、まだ導かれていないのです。神が私のために存在するのではなく、私が神のために存在するのだということが、本当の意味で理解でないでいるのです。ある人がこう証ししていました。「"It's not about you." ということばを読んで、突然ぶんなぐられたような気持ちになりましたが、その時、私の人生は私のためにあるのでなく、神の目的のためにあるのだと言うことに、気付きました。」そのように、神が第一のお方であり、キリストが私の主であるということを確認し、自分の人生を神に明け渡すことが礼拝なのです。礼拝とは、神に向かって "It's not about me. It's all about you." と言い表わすことなのです。

 奉仕も、礼拝も、英語では共に "service" と言います。奉仕も、礼拝も、同じように、神にささげるもの、神のためになされるものです。ところが、奉仕が礼拝に基づいていないと、それが単なる活動で終わってしまいます。「活動」というのは、それによって、自分を高めたり、生きがいを見出したりするもの、自分のためのものです。ある人は芸術活動に、ある人は教育活動に、ある人は社会福祉の活動に励みます。それぞれに、自分の人生に喜びを与え、また、人にも喜ばれるのでしょうが、神への奉仕、教会での奉仕は、そうした「活動」とは一線を画すものがあります。教会での奉仕は、世の中でさまざまに活動している人が、その活動の場を教会に広げるとか、世の中の活動を教会に移すということではないのです。生きがいの場を教会の活動に見つけるというのでもありません。クリスチャンの生きがいは神ご自身であって、決して教会の活動であってはならないのです。

 以前、ある教会のパーティである人と同じテーブルにすわりました。彼には、ティーンエージャの子どもがいて、そのころ、私の娘たちもそれぞれティーンエージャーだったので、自然と話がこどものことになりました。その時、彼は、こどもにいろんなスポーツや習い事をさせていて、「子どもは忙しくさせておけば悪いことをしないからね。」と話してくれました。私は、それに反論はしませんでしたが、心の中では、「果たしてそうかな?」という疑問を持ちました。後になって、「教会の活動に忙しくしていれば、教会につながっていることができるのだ。」という考え方を聞いて、教会の奉仕とはそういうものだろうか、活動が信仰の成長を妨げ、その忙しさが人々を教会から遠ざけるということもあるのではないかと思うようになりました。世の中では「忙しそうですね。」というのは、ある意味で「誉め言葉」なのかもしれませんが、信仰の世界では、ただ忙しくしている、活動に没頭するということは、決して健全なことではないのです。神は、私たちに「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。」(出エジプト記20:8)と命じておられます。安息日、つまり、礼拝の日は、人間の活動を停止して、神に働いていただく日です。礼拝において、自分の活動、自分のための活動を神にささげてこそ、そこから、神と共に働き、神のために働く、本当の意味での奉仕が生まれてくるのです。私たちの奉仕は、自分を神に明け渡す礼拝から出ているでしょうか。そのことを、もう一度、点検してみましょう。

 二、奉仕とまじわり

 奉仕は、第一に、神のためのですが、第二には、他の兄弟姉妹のために、教会全体のためにするものです。ローマ人への手紙は、奉仕について教える前に、「大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。」(ローマ12:5)と言って、教会がキリストのからだであることを教えています。そして、このキリストのからだである教会のまじわりの中で、奉仕をささげなさいと勧めています。奉仕は、キリストのからだを建てあげるものであり、また、教会のまじわりに仕えるものでなければならないのです。

 しばしば、「奉仕は『賜物によって』なされるのだから、自分の賜物を大いに発揮すればよいのだ。」と言われます。近年、教会で「聖霊の賜物」が強調されていることは、とても良いことですが、それが、正しく理解されないで、「賜物」と「人間の能力」とが混同されることがあるのは、残念です。聖書で「賜物」というのは、聖霊によって与えられる霊的な力のことで、決して生まれつきの能力のことではありません。聖霊が与えてくださったものを、聖霊によって正しく用いるなら、それは、教会を建てあげ、他の人々の祝福になるのですが、もし、賜物を人間的な能力と取り違えてしまうなら、あの人の能力と、この人の能力、あの人がやりたいことと、この人のやりたいことが衝突してしまいます。しばしば私たちは、ある一つの活動やその時のプログラムだけに没頭してしまい、教会全体のことを見失ってしまうことがあります。どんな奉仕も、全体のために役立ってこそ意味があるのですが、全体のことよりも、自分たちの立てた目標を達成することに気をとられてしまうことがあります。しかし、それは、本当の奉仕の姿勢ではありません。

 私がまだ神学校の学生だったころ、宇田 進先生に会うために、先生が牧会しておられた教会に行ったことがあります。宇田 進先生は、今はもうリタイヤしておられますが、そのころ、日本の福音派の中では数少ない神学博士のひとりで、福音主義神学の中心的な存在として活躍しておられました。その日は、その教会の大掃除だったので、先生は、私が行って挨拶するまで、雑巾を握って礼拝堂の座席を磨いていました。それを見たその教会のメンバーは、「先生、先生。そんなことは私たちがします。」と言って、先生の手から雑巾を取り上げましたが、先生はただニコニコしていただけでした。宇田先生には「神学」という素晴らしい賜物が与えられていました。しかし、先生は、「自分は自分の賜物だけを磨けばよい。」とは思っていませんでした。みんなで掃除をする時には、自分もその奉仕に加わりたいと考えていました。先生にとって、自分の賜物、自分の仕事、自分の計画よりも、キリストの教会を建てあげることのほうがもっと大切だったです。リック・ウォレン師は「主イエスはあなたの奉仕を建てあげるとは約束されませんでした。ご自分の教会を建て上げると約束されたのです。」と書いています。自分の「奉仕」の完成が目的ではなく、教会が建てあげられることが、奉仕の目的であるということを心がけて奉仕に励みたいものです。

 三、奉仕と信仰

 第三に、奉仕は信仰に基づいてなされ、信仰の成長のためになされるものです。ローマ人への手紙は、私たちは「賜物に応じて」だけでなく、「信仰の量りに応じて」奉仕すると教えています。3節に「私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。」とあり、6節には「もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。」とあります。ここで言われている「信仰の量り」とは、その人の信仰の成長の度合いを意味します。教会は信仰者のまじわりですから、教会での奉仕のあり方は、この世の他の団体とは違っていますし、違っていなければならないのです。この世の他の団体では、能力のある人が喜ばれ、時間のある人が重宝がられ、進んで「やります。」と名乗り出る人が歓迎されます。しかし、教会では、奉仕をする人にまず求められるのは「信仰」です。初代教会で、やもめへの配給の問題が起こった時、そのための奉仕者を選ぶ時、何を基準にして奉仕者が選ばれたでしょうか。学歴や、職歴、その人がその分野での専門家であるということで選ばれたのではありませんね。使徒たちが奉仕者たちに要求したのは、「御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たち」であり、人々が選んだのは「信仰と聖霊とに満ちた」人々でした(使徒6:1-6)。教会は人々が信仰を育てる場ですから、そこで奉仕する人にまず求められるのは、信仰なのです。一般の活動は、能力があれば出来るのかもしれませんが、奉仕は信仰なしにはできません。一般の活動では能力のある人がリーダーシップをとりますが、教会の奉仕では、信仰の訓練を受けている人が、リーダーシップをとるべきであると、聖書は教えています。奉仕の責任を与えられている人は、それが、どんな種類の奉仕であれ、自分に与えられた奉仕が、神に喜ばれ、また、教会を建てあげる奉仕となるために、みことばの学びに、また祈りに励まなければなりません。自分の奉仕分野での技能を延ばすこと以上に、奉仕者自身の信仰を成長させることが、実りのある奉仕への道です。

 聖書は、教会の指導者はどのような人であるべきかについて、さまざまなことを書いていますが、その中に「また、信者になったばかりの人であってはいけません。高慢になって、悪魔と同じさばきを受けることにならないためです。」(テモテ第一3:6)という警告があります。私も、年若くして牧師になりましたので、このことばの意味が良く分かりました。神は、いつも、私に「思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。」と教えてくださいました。もし、私が自分の信仰がそこまで至っていないのに、大きなことをしようとしたり、自分でも聖書をよく理解していないのに、大説教家を真似て説教していたら、決してその働きに実りはなかったでしょう。私は、神が、奉仕者に求めておられるのは、何よりも、自分の信仰の成長の度合いに応じて主に仕える、謙虚さであることを、身にしみて感じています。

 しかし、「信仰の量りに応じて」ということが、奉仕をしないことの言い訳けになってはいけません。「私の信仰は、まだまだです。ですから、そのような奉仕はできません。」と言ってはいけないのです。私の母教会の牧師は、よく、「それは謙遜的傲慢です。神が、あなたを信頼して、奉仕を任せようとしているのですから、あなたも、神に信頼し、その奉仕によって信仰を成長させなさい。」と教えていました。「信仰の量り」というものは決して固定したものではありません。それは、大きく、豊かにしていかなくてはならないものです。神は、私たちに、「とても出来ない」と思えるような奉仕を与えることがありますが、それは、それによって、私たちに神に頼ることを教え、信仰を成長させ、信仰の量りを大きくしてくださるためなのです。自分の得意なこと、やりたいことだけをしていると、いつしか、神よりも自分の力に頼り、神に仕えることよりも、奉仕を自己実現の手段にしてしまいかねません。神は、私たちに苦手なことや、人間的な能力以上の奉仕を与えることがありますが、それは、信仰を成長させる絶好の機会かです。それを逃してはならないと思います。

 私が日本で、20名ほどの人を株分けして、伝道所を始めた時、伝道所の宣伝を兼ねてトラクトを配る計画を立てました。メンバーが自分の住んでいる地域にトラクトを配ることにし、それぞれが、トラクトの束を持って帰りました。ところが、ひとりの姉妹だけが、「先生、私は、教会のお掃除でも、台所のことでも、何でもしますから、これだけは勘弁してください。『あの人はキリスト教の布教活動をしている。』と、近所の人の噂にされるのが嫌なのです。」といった意味のことを言いました。彼女は、教会のためによく奉仕をする人でしたが、この奉仕は、いろんな意味で、彼女にとってチャレンジだったのでしょう。彼女は、最初ずいぶん頑固にこの奉仕を拒否したのですが、しばらくたってから、神に教えられ、この奉仕を引き受けるようになりました。そして、彼女はそのことによって信仰を成長させ、その後も忠実に伝道所のために働き続けてくれました。リック・ウォレン師は、奉仕を選ぶ時、「自分の心がそこにあるもの」を選べばよいと言っています。それは、ある程度の規模の教会には良いサジェスションですが、小さな規模の教会では、教会を支えるのになくてならない必要がたくさんあり、それすらも満たされていないというのが現状ですから、そのような教会では、自分がしたいと思うことよりも、教会が必要としているところを満たしていく奉仕が求められます。教会の欠けたところを補おうとする教会への愛が求められます。まずは、教会に必要とされている分野に目を留め、そこに自分の心を置いていきましょう。

 聖書は、「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。」(コロサイ3:23)と教えています。これは、一般の仕事においても、「主に対してするように、心から」働くようにとの教えなのですが、一般の仕事においてこう教えられているのなら、教会での奉仕はなおのことです。主のために、教会のために、信仰によって奉仕をささげましょう。もし、成功することが関心事であるなら、それは活動であって、奉仕ではないでしょう。誰も誉めてくれず、感謝もしてくれないというので、止めてしまうなら、それも、活動であって、奉仕ではないでしょう。自分のしたいことをするだけなら、活動であって、奉仕ではないでしょう。コロサイ3:24は「あなたがたは、主から報いとして、御国を相続させていただくことを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです。」と言っています。この報いを信じて、主への奉仕に励み、主キリストに仕えましょう。

 (祈り)

 父なる神さま、私たちの教会には数多くの活動があり、多くの人々がそれに携わっています。人の目には、「活発な教会」として映ることでしょうが、それらが単なる活動で終わっているなら、それは、私たちの益とはなっても、あなたの栄光にはならず、霊的な実を結ぶものとはならないことでしょう。主キリストに仕える奉仕のあり方を、もう一度、私たちに教えてください。あなたが必要としておられることを、あなたに対して忠実に果たす私たちとしてください。すべてのものの主でありながら、私たちのしもべとなって仕えてくださった、イエス・キリストのお名前で祈ります。

2/27/2005