わたしのささげもの

ローマ12:1

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12:1 兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。

 一、礼拝とささげもの

 わたしがカリフォルニアで奉仕していた教会では、どこででも礼拝後、牧師が礼拝堂の出口に立ってひとりひとりと握手するのが習わしになっていました。ある日曜日、いつものように皆さんと挨拶していましたら、ふだんは礼拝に来ていない人が、いきなりわたしに苦情を言い出しました。「スミスさんはなぜ来ていないんですか。教会に来たら会えるというので来たのに…。」わたしはスミスさんから何も聞いていなかったので、「そうですか。それは残念ですね」と言うしかありませんでした。この人は、礼拝をささげるためというよりは、スミスさんに会うために礼拝に来ていたたのです。そういえば、この人は礼拝中、落ち着かない様子で、あちらこちらを見回していましたが、きっとスミスさんを探していたのでしょう。

 礼拝に来て、久しぶりの人に会ったり、何かを伝えたいと思っていた人に会えたら、それはうれしいことです。多くの兄弟姉妹たちといっしょに礼拝を捧げると、とても励まされます。いつも礼拝に集っている人が休んだときには寂しい気持ちになります。しかし、礼拝は人に会うためだけのものではありません。礼拝は神に会うところなのですから、たとえ、会いたいと思っていた人と会えなかったとしても、礼拝の意味がなくなるわけではありません。礼拝とは何なのか、何のために礼拝に集うのかということが分かれば、わたしたちの礼拝はもっと豊かになると思います。

 では、礼拝とは何なのでしょうか。わたしたちは何のために礼拝に来るのでしょうか。聖書は、礼拝とは「ささげること」であり、わたしたちは「ささげるため」に礼拝に来るのだと教えています。ローマ12:1に「兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である」とあります。ここには「…ささげなさい。それが、…礼拝である」とあって、「ささげること」が礼拝であると教えられています。

 二、こころのささげもの

 では、わたしたちは礼拝で何をささげるのでしょうか。それは賛美であり、感謝です。初代教会の賛美に「栄光の賛歌」があります。今も、多くの教会で歌いつがれています。この賛美は「天のいと高きところには神に栄光、地には善意の人に平和あれ」で始まり、「われら主をほめ、主をたたえ、主を拝み、主をあがめ、主の大いなる栄光のゆえに感謝したてまつる」と続きます。「われら主をほめ、主をたたえ、主を拝み、主をあがめ」という歌詞は、どれも同じようなことを言っているようですが、それぞれに意味が違います。「われら主をほめ」は "I praise you" という意味で、神をほめたたえること、「主をたたえ」は "We bless you" という意味で、神を良きお方として覚えること、「主をおがみ」は "We adore you" という意味で、神を慕う思いをもってあがめ敬うこと、「主をあがめ」は "We glorify you" という意味で、神に栄光をお返しすることです。ひとくちに神を賛美するといっても、このように豊かな意味があるのです。

 神は全能のお方、永遠のお方、聖なるお方、栄光に満ちたお方です。預言者イザヤは神の栄光を幻のうちに見たとき、「わたしは滅びるばかりだ。わたしは汚れたくちびるの者で、汚れたくちびるの民の中に住む者であるのに…」(イザヤ6:5)と叫んだほどです。ほんとうなら、その栄光の前に打ち倒され、消え去っても当然なのに、わたしたちは神に近づき、神を礼拝し、この口で神を賛美することが許されています。皆さんはそのことに驚きませんか。今朝の箇所は「兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める」という言葉で始まっていました。ついさきほど、何かにつぶやいたり、誰かを悪く言ったかもしれない、わたしたちのこの口で神に賛美のささげものをささげることが許されているのは、ほんとうに神のあわれみの他なにものでもありません。神の栄光は特別な栄光です。それは人を退けるものではなく近づけるもの、人を突き刺すものではなく温めるものです。このことを知る者は、「主の大いなる栄光のゆえに感謝」をささげずにはおれないのです。

 神の栄光に感謝をささげながら生きる。それは人間にとって一番幸いな生活なのですが、いつもそのように生きられるとはかぎりません。ときには、自分の惨めさに泣いたり、問題に押しつぶされてしまうこともあります。では、そんなときは、神を礼拝できないのでしょうか。礼拝を休んでしまったほうがよい、主の晩餐にあずからないほうがよいのでしょうか。そうではありません。神は、わたしたちの賛美や感謝とともに、わたしたちの悔い改めや願いをも、わたしたちのささげものとして受け入れてくださるからです。礼拝には賛美や感謝ばかりでなく、悔い改めや願いを持ってきて神にささげて良いのです。

 「悔い改め」というと、よほどひどいことをした人が懺悔することと考えられがちですが、そうではありません。それは、神の栄光を見つめて生きる生き方の中から生まれてくるものです。人とくらべて自分がより優れているとか劣っているとか、世の中の基準で成功したとか失敗したとかではなく、自分が神の前にどのような心を持ち、どのように歩んでいるかを見つめなおすこと、それが悔い改めです。神はそんな悔い改めのささげものを何よりも喜んでくださいます。イエスは言われました。「よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、神の御使たちの前でよろこびがあるであろう。」(ルカ15:10)「パリサイ人と取税人」の話(ルカ18:9-14)では、パリサイ人は、神殿に近づき、天を仰いで「神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています」と祈りました。一方、取税人は、遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら祈りました。「神様、罪人のわたしをおゆるしください。」神は、自分を人と比べてうぬぼれていたパリサイ人の祈りではなく、神の前に出て悔い改めた取税人の祈りを聞いてくだいました。神が一番喜んでくださる祈りは、悔い改めの祈りであることが分かります。

 神を思うことのない人は、苦しみのとき、それを神に持っていくことをしないで、「こうなったのも運命だ」と言ってあきらめ、問題をやり過ごしてしまうでしょう。それは人々からは潔いこと、賢いことと思われるかもしれませんが、本当の問題の解決にはならず、苦しみを通して自分が成長することもないのです。ほんとうに人生を大切にする人は恵まれた日々でも自分を戒め、苦しみの日にはそこから学び、自分を成長させていきます。肉体の成長は二十歳くらいで止まってしまいますが、人格の成長は生涯続きます。内面の成長、それは人間にだけしかできない尊いことなのです。自分の問題に正しく向き合うことは、それをもたらす大きな恵みなのです。

 信仰を持つ者は自分の苦しみを神に訴え続けます。詩篇は祈りや賛美を集めたものですが、その多くは、苦しむ者が神に助けを願う祈りです。中には、「神さま、どうしてわたしを助けてくださらないのですか。なぜ正しい者が苦しみ、悪者が栄えているのですか」などと、神に不満を述べているものさえあります。しかし、たとえ、それが神に向けられたものであるかぎり、そこでは神が意識されています。神が何かをしてくださるとの期待があり、信頼があるのです。神への願いや訴え、叫びもまた信仰の祈りであり、神へのささげものとなるのです。

 それが賛美であれ、感謝であれ、また悔い改めや願いであれ、わたしたちがまごころからささげるささげものを、神は喜び、受け入れてくださいます。

 三、からだのささげもの

 では、礼拝でささげるのは、わたしたちのこころだけなのでしょうか。そうではありません。聖書は、「あなたがたのからだを…ささげなさい」と言っています。「からだ」をささげるといっても、旧約時代の供え物のようにそれをいけにえとしてささげるというのではありません。「生きた、聖なる供え物としてささげなさい」とあるように、からだを生きたまま神にささげるということです。

 「からだをささげる。」分かるようで分からない、理解の難しいことです。それは、手足を使ってする奉仕のことなのでしょうか。それも含まれますが、それだけではありません。「手」や「足」は「からだ」の一部です。「からだ」をささげるとは、「手足」をささげること以上のもっと大きなことをさしています。

 旧約時代には穀物のささげ物もありましたが、穀物のささげ物にも動物のささげ物が伴いました。穀物も家畜も人々の財産でしたから、もし、持ち物の一部をささげるということだけなら、穀物のささげものは動物のささげものと何も変わらないはずです。神が、動物のささげものを求められたのは、命は命によってしか贖われないということを教えるためでした。旧約時代の人々はいけにえとなった動物の血、つまり、その命によって罪の赦しを確認しました。また、動物をささげることは、その命をささげることですから、神が求めておられるのは、自分の持ち物ではなく、自分の命、自分自身だということを悟ったのです。

 ですから、「からだをささげる」とは、自分のすべてをささげるということです。毎日の生活やそれが積み重なって成り立っている人生をささげるということです。それは、学校や仕事をやめて一日中祈りの生活をする、伝道や奉仕の活動をするということではありません。そうではなく、勉強や家事、自分の仕事を神への祈りとし、ささげものとするということです。自分の日常の具体的なこのこと、あのこのことを、神によって、神にふさわしく、神のためにするという決意をもって、それに向かっていくことです。

 礼拝式は日曜日の正午すぎに終わります。しかし、神への礼拝はそこで終わるのではありません。むしろ、日常をささげるという礼拝は礼拝式が終わってから始まるのです。とは言っても、それは息が詰まるような、緊張の連続した生活ではありません。日常をささげ、生活が礼拝になるためには、ある程度の霊的訓練が必要でしょうが、それは、平安と喜びに満ちたものです。なぜなら、それは自分の力ですることではなく、イエス・キリストの恵みによってすることだからです。

 わたしたちの主であるイエス・キリストはご自分のからだを十字架にささげてくださったお方です。イエスは、ご自分のすべてをささげて、わたしたちのために罪の贖いを成就してくださいました。旧約時代、罪が赦されるためには動物の血が流されなければなりませんでしたが、動物の血は人に完全な赦しを与えることはできませんでした。神の御子の血だけが、人を救うことができます。キリストは旧約時代の犠牲が示していたことを、完全なかたちであの十字架で成就してくださったのです。そればかりではなく、キリストは三日目に復活され、わたしたちをその命で活かしていてくださるのです。キリストの死によって、わたしたちは罪から救われました。キリストの命によって新しい人生を生きる者となりました。このキリストの恵みによって、私たちは、自分を「神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物」としてささげることができるようになったのです。キリストがご自身を「神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物」としてささげてくださったことによって、わたしたちも自らを「神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物」とすることができるようになったのです。

 わたしたちは主の晩餐によって、この恵みを覚えようとしています。主の晩餐はわたしのために主がご自身をささげられたことを覚えるためのものです。しかし、それだけでは終わりません。ご自分のからだをささげてくださった主の恵みを覚えるわたしたちもまた、自分のからだをささげるのです。「これはわたしのからだである」と主が言われたパンをわたしたちが受けるとき、わたしたちもまた、自分のからだを、キリストとともに神にささげるのです。

 自らをささげる、すべてをささげるといっても、それは自分でできることではありません。では、できないからしなくていいというものでもありません。自分でできないからこそ、キリストの恵みに信頼するのです。それはまた、一気にできるものではありません。日々のデボーションできょうの一日をささげる。週ごとの礼拝で一週をささげる。月ごとの晩餐式で、その月をささげる。これを繰り返すことによって、ひとつひとつを神にささげ、やがてすべてをささげていくようになるのです。神のあわれみに押し出され、イエス・キリストの恵みに導かれて、日々の生活に送り出されていきましょう。きょうの一日、この一週、この一月は、必ず、今までとは違ったものになることでしょう。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたは主イエス・キリストによって、わたしたちが何をささげるべきかを教えてくださいました。そして、あなたは主の恵みによってそれを実行する力をも備えてくださいました。どうぞ、日々の生活をささげることが、具体的にどうすることなのかを、わたしたちに教え、導いてください。主イエス・キリストによって祈ります。

9/7/2014