生きた供え物

ローマ12:1-2

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12:1 そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。
12:2 この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。

 「目的の四十日」の期間中、5つの目的のそれぞれについて説教することになっています。今日から、5つの目的をひとつづつとりあげることにしました。今朝は、第1の目的の「礼拝」について、ローマ12:1-2より学びます。

 一、応答としての礼拝

 12:1は、「そういうわけですから」という言葉で始まっていますが、「そういうわけ」とはどういうわけなのでしょう。私の母教会の牧師は、いつも、説教でそんなふうに言って、私たちに聖書を注意深く読むように教えてくれました。みなさんは、ローマ12:1の「そういうわけ」というのは、「どういうわけ」なのか、考えてみたことがありますか。この言葉は、いったい、何を指していると思いますか。

 「そういうわけですから」というのは、ローマ人への手紙の1章から11章に書かれてるすべてのことを指しています。ローマ人への手紙は、パウロの他のいくつかの手紙と同じように、まずは、教理的な主題から始まっています。1章から3章は人間の罪について、4章から6章は信仰について、7章と8章は信仰者の苦悩と勝利、そして9章から11章ではユダヤ人に対する神の計画が論じられています。ローマ人への手紙は、11章までは、手紙というよりは、まるで論文のようです。パウロは12章になってはじめて、クリスチャン生活の具体的なあれこれに触れ、ローマ人への手紙は、ようやく、手紙らしくなってきます。

 クリスチャン生活に関する勧めを書くのに、なぜ、こんなに長い前置きがいるのだろうと、不思議に思うかもしれませんが、それは、クリスチャンの生活というのは、キリスト教の伝統や規則を守るものでも、たんに「人に親切にしましょう。」「ものごとに寛容でありましょう。」という徳目に励むというものでもないからです。私たちが、どう生きるべきかということは、私たち自身から出てくることではなく、神が私たちのために何をしてくださったかということから出てくることです。「教理」とは、神がどのようなお方で、私たちのために何をしてくださったかを解き明かすものですが、それがあってはじめて私たちは、私たちが何をすべきかを知ることができるのです。「私たちが何をすべきか」ということを「倫理」と言いますが、クリスチャンの倫理は、先ほど言いましたように、「神が何をしてくださったか」を教える「教理」に基づき、教理から生み出されたものでなければならないのです。

 「十戒」は「倫理の中の倫理」と言ってもよいものですが、十戒もまた、神がどのようなお方であり、私たちのために何をしてくださったかに基づいて、私たちのなすべきことを教えています。十戒は、「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。」という戒めからではなく、「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。」(出エジプト記20:2)という宣言から始まっています。十戒のどの戒めも、主が、私たちの神であり、私たちが神の民であることを覚えるためのものであり、神が、神の民を、かってはエジプトの奴隷から、今は罪の奴隷から救い出してくださったことに応答するためのものなのです。

 ローマ12:1の「そういうわけですから」というのは、このように、神がイエス・キリストによって私たちを罪から救い出してくださったことを指していますが、もう少し具体的に言うなら、それは、神のあわれみを指しています。神が、私たちを救ってくださったのは、私たちに救われるに価するだけのものがあったからでしょうか。決してそうではありませんね。私たちは、みな罪人であり、神の前には、無力なもの、汚れたもの、惨めなものであったばかりか、神に対して逆らうものであったのです。そのような私たちが救われたのは、ただ、神のあわれみによってでした。私たちは、自分の罪のゆえに苦しんでいたのですから、それこそ自業自得なのですが、神はそのような私たちの苦しみをも、まるでそれがご自分の苦しみでもあるかのように、思いやってくださったのです。神の「あわれみ」は、単なる同情やかわいそうに思うこと以上のものです。それは、もっと、深く、高く、大きく、決して変わることのない愛です。

 この箇所のすぐ前の、ローマ9〜11章は、パウロがユダヤ人の救いについて論じているところですが、そこで彼は、神が異邦人をあわれんで救ってくださったのなら、ユダヤ人をもあわれんでくださらないはずがないと、ユダヤ人の救いの根拠を神のあわれみに置いています。ローマ9:16には「したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。」とあり、ローマ11:30-32では「ちょうどあなたがたが、かつては神に不従順であったが、今は、彼らの不従順のゆえに、あわれみを受けているのと同様に、彼らも、今は不従順になっていますが、それは、あなたがたの受けたあわれみによって、今や、彼ら自身もあわれみを受けるためなのです。なぜなら、神は、すべての人をあわれもうとして、すべての人を不従順のうちに閉じ込められたからです。」と書いています。ここで「あなたがた」というのは異邦人クリスチャンのこと、「彼ら」というのは、ユダヤ人のことです。ユダヤ人ばかりでなく、異邦人も、救いは、ただ神のあわれみにかかっていると、聖書は告げています。

 礼拝は、この神の救い、神のあわれみへの応答なのです。それで、パウロは「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」(ローマ12:1新共同訳)と言って、神のあわれみに対して応答しなさいと勧めているのです。クリスチャンの生活は、自分の欲望に支配される我が儘勝手な生き方でも、人の目を気にしながら生きる臆病な生活でもありません。また、それは、規則でがんじがらめに縛られた窮屈な生活でも、義務感に追い立てられ疲れ果ててしまう生活でもありません。トマス・エリクソンという人が「新約の宗教は恵みであり、その倫理は感謝である。」と言っているように、罪から救われた者の生活は、神のあわれみに拠り頼み、神のあわれみに生かされ、神のあわれみに感謝して生きるものなのです。。

 礼拝とは、私たちが神に向かってささげるものですが、それは、私たちが「神を礼拝してあげる。」「神を賛美してあげる。」というものではありません。礼拝は、私たちから始まるのではなく、神が私たちのために成し遂げてくださった救いのみわざから始まるのです。神の救いがあり、神のあわれみがあって、はじめて、私たちは、それに対する応答として神を礼拝することができるのです。私たちは、神のあわれみなしには、神を礼拝することができないのですから、神のあわれみを謙虚に探求し、神のあわれみをもっと多く受けたいと思います。神と神のみわざを知れば知るほど、神のあわれみを受ければ受けるほど、私たちは、それにもっと感謝をもって応答できるからです。神のあわれみに大胆に応答していく礼拝をささげていきましょう。

 二、献身としての礼拝

 ローマ12:1は、次に、礼拝とは「からだ」をささげることであると言っています。「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」という表現は、旧約時代に、祭司たちが神殿で犠牲をささげて礼拝していた様子を思い起こさせます。旧約時代、ささげ物のない礼拝はありえませんでした。人々は、必ず、動物のささげものを携えてきました。貧しくて動物が買えない場合は「家鳩のひな二羽」などが要求されました。穀物のささげ物もありましたが、穀物のささげ物にも動物のささげ物が伴いました。これは、私たちが、神に対して「物」ではなく「命」をささげなければならないということを教えています。神は、私たちの持っている何かではなく、私たち自身を、求めておられるのです。時間や健康、財産や才能などといった、私たちの持っている一部ではなく、私たちのすべて、私たち自身をささげることを神は求めておられるのです。「からだ」をささげるというと、手足を使ってする奉仕活動のことだと考えるかもしれませんが、聖書で使われている「からだ」という言葉には、そういう意味はなく、「全体」という意味があります。ですから、「あなたがたのからだを…ささげなさい。」というのは、私たちの身も心も、私たち自身を、私たちの人生のすべてをまるごと神にささげなさいという意味になります。

 旧約時代には、礼拝では、動物がささげられ、神殿が建てられてからは、礼拝での音楽も盛んになりました。しかし、どんなに多くの犠牲がささげられ、華やかな音楽が奏でられても、人々が自分自身をささげていなければ、それらは、何の意味もなさないと、神は言われます。形式だけで、真実の伴わない礼拝について、神は、「たとい、あなたがたが全焼のいけにえや、穀物のささげ物をわたしにささげても、わたしはこれを喜ばない。あなたがたの肥えた家畜の和解のいけにえにも、目もくれない。あなたがたの歌の騒ぎを、わたしから遠ざけよ。わたしはあなたがたの琴の音を聞きたくない。」(アモス5:22-23)と言っておられます。大変厳しいことばですが、私たちも、私たちがささげているものが、私たち自身や私たちのすべてではなく、私の一部、私の持ち物だけではないだろうかと、問い直したいと思います。リック・ウォレン師は "Worship" という言葉を、「礼拝の音楽」や「礼拝式」という意味ではなく、私たちが神を神としてあがめ、自分をささげる「行為」という意味で使っています。「礼拝式」はあっても「礼拝」がないということにならないようにしたいものです。私たちの礼拝を、本当の意味で神に受け入れられるもの、神を喜ばせ、また私たちも、それによって神を喜ぶものにしていきたいと思います。

 「からだをささげる」ということばは、また、私たちにキリストの十字架を思い起こさせます。「キリスト」という名前には、もともと、神と人との仲立ちをする大祭司という意味があり、イエス・キリストこそ、大祭司にふさわしいお方でした。大祭司は神の代理人として人々の前に立つのですが、イエス・キリストは、代理人どころか、神の御子であって、神そのものでした。また、大祭司は人類の代表者として神の前に立つのですが、イエス・キリストは、神の御子でありながら、同時に、正真正銘の人間となってくださったお方ですから、私たちのために、また、私たちに代わって神の前に立つことができたのです。イエス・キリストは完全な大祭司でした。しかし、完全な大祭司がささげるべき完全なささげものは、この世にはどこにもありませんでした。どんな動物も、どんな人物も、世界中のどんな価値あるものも、人類の罪の代価としては足らず、また、神に受け入れられる聖なるものではありませんでした。そこで、イエス・キリストは、ご自身をささげものとして、神にささげられたのです。イエス・キリストは、「神の子羊」と呼ばれていますが、それは、キリストが大祭司でありながら、同時に、大祭司がささげる犠牲の子羊にもなられたということを意味しています。イエス・キリストは、私たちを罪から救い出すために、あの十字架の上で、ご自分を犠牲の子羊として、神にささげられたのです。私たちは、キリストがご自身をささげられたことによって救われました。

 キリストが十字架の上でご自身をささげられた救いのわざは、キリストだけができる比類のないわざであり、誰も代わることのできないものです。しかし、聖書は、キリストの十字架の道は、ただキリストのためだけのものではなく、キリストに従う者も、キリストが歩まれたように十字架の道を歩むと教えています。キリストがそのからだを神にささげられたように、私たちもまた、そのからだを神にささげるよう求められているのです。そして、それこそが、私たちのなすべき礼拝であることを覚えましょう。

 新改訳聖書で「それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」とあるところは、新共同訳で「これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」と訳されています。もとの言葉は、「霊的な」とも「なすべき」とも訳せる言葉ですので、口語訳は、「それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。」と、両方の意味を重ねて訳しています。私は、ここでは新共同訳が良いと思っています。新共同訳で「なすべき」と訳されている「ロギコス」という言葉は、一般的には、「当然の」「理にかなった」「理性的」という意味で使われ、ここでは、キリストがそのからだをささげられたのなら、クリスチャンもまたそのからだをささげるのは、論理的で、当然のことであるという意味になります。ストア派の哲学者でエピクテタスという人は「ナイチンゲールはナイチンゲールのように歌い、スワンはスワンのように泳ぐ。そのように人間にとって、神をほめたたえるのは当然のこと(ロギコス)である。」と言っています。「からだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげ」るということを当然のこととして認めることができる私たちでありたく思います。

 三、変革としての礼拝

 2節に進みましょう。「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」とあります。ここでは、礼拝は、私たちの内面を変えるものであると教えられています。

 「この世と調子を合わせてはいけません。」というところで使われている「調子を合わせる」という言葉と、「心の一新によって自分を変えなさい。」というところで使われている「変える」という言葉は、それぞれ、別の言葉が使われていますが、どちらにも「形づくる」という意味があります。そして、「調子を合わせる」という方は「外側から形づくる」、「心の一新によって自分を変えなさい。」というところでは、「内側から形づくる」という意味の違いがあります。この世は、私たちを外側から形づくろうとし、神は、私たちを内側から形づくるのです。

 私たちは、それぞれ、自分が生きてきた時代、生活してきた土地の影響を受けます。昨日、笹野兄弟のメモリアル・サービスがあって、彼もまたキャンプに入ったと言われていました。二世の方々はみな苦しい時代を通ってこられましたので、どの方にも、我慢強く、人に優しいという共通した性格が見られます。皆さんも、長くアメリカで生活していますと、自分でも気づかないうちに、アメリカンナイズされしまって、日本に行った時、家族や友だちが、その変化に驚くということあるかもしれません。聖書が「この世と調子を合わせてはいけません。」というのは、その時代の文化や風習を一切拒否しなさいという意味ではありあません。ここでいう「この世」というのは、神に敵対する世界のことを意味しています。神を否定し人間をあがめ、神なしでも幸福な世界を作ることができるとする物の考え方、原理、生き方、価値観、人生観、世界観などといったものをさしています。スーパーマーケットで買い物をする時、ついついテレビのコマーシャルに出ていた商品に、手が出てしまうように、私たちは、知らず知らずのうちに、この世によって形づくられてしい、神から離れた物の考え方と生活に引っ張りこまれてしまうことがあります。ですから、私たちは、日曜日、安息日に今までの生活をいったん中断し、神と神のことばに向かうのです。そして、この世の考え方によって形づくられてきたものを矯正していただき、神が私たちに望んでおられる姿へと造り変えていただくのです。車に定期点検が必要なように、私たちも、一週間ごとの点検が必要です。ある時、ヨーロッパから来たア・カペラのコーラス・グループが歌うのをテレビで見たことがありますが、その時、彼らは、曲と曲の合間に、音叉を使って音を合わせていました。優れた音感を持った専門家であっても、やはり、時々、音叉が出す正確な音に合わせる必要があるのですね。私たちの信仰にも、そのようなチューニングが必要です。そのチューニングの場が礼拝なのです。

 「むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」とありますが、私たちの心をほんとうの意味で新しくしてくださるのは、聖霊です。しかし、聖霊の働きを願い求めるのは、私たちの悔い改めであり、信仰です。「人生の第3の目的」のところで学びますが、私たちには、キリストのようになるという人生の目的が与えられています。聖霊によって、絶えず、私たちが内側から変えられいないと、私たちはキリストの姿を持つことができず、この世に形づくられ、この世の姿に戻ってしまいます。礼拝が、神への真実な応答であり、献身の時であり、私たちが神によって造りかえられる場であるようにと、心から願います。一回、一回の礼拝がそのような礼拝になるように、私たち、ひとりびとりが、この礼拝にただ来てここで一時間を過ごすだけというのでなく、本当に主を礼拝する者となることができるよう、祈ろうではありませんか。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたは、私たちが何をするにもまさって、霊とまことをもってあなたを礼拝することを願っておられます。また、あなたは、私たちの生活のすべてが、礼拝となることを願っておられます。私たちも、心からの礼拝をささげることが出来た時、どんなにか満ち足りた思いになることでしょうか。どうぞ、私たちの礼拝が、あなたに喜ばれ、また、私たちがそれを喜ぶものとなりますよう、導いてください。そのために、私たちひとりびとりが知らなければならないことを学び、実行しなければならないことを実行できるように助けてください。みずからを、聖なる供え物としてあなたにささげ、どのように神を礼拝すべきかを私たちに教えてくださった、主イエス・キリストのお名前で祈ります。

2/6/2005