バプテスマを受けるまで

ローマ10:9-10

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10:9 なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。
10:10 人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。

 一、バプテスマの形式

 今週は、これからバプテスマを受けたいと願っている方や、バプテスマという言葉をはじめて聞く方のことを思いながら、メッセージを準備しました。もちろん、すでにバプテスマを受けている方にも役に立つお話しをしたいと思います。

 バプテスマというのは、イエス・キリストへの信仰を言い表わし、教会の正式のメンバーとして受け入れられるときに行われるものです。バプテスマを受ける人は水着を着け、その上からバプテスマ用の白いガウンを着ます。そして、プールに入り、牧師から全身を水に浸けてもらいます。教会に設備のないときは、家庭のプールや川、湖、海など自然の中でバプテスマ式をすることもあります。私が日本におりましたときは、教会のすぐ近くに信濃川という大きな川がありました。一年を通してそこでバプテスマ式をしていました。11月ごろ、その川で、3人の青年たちにバプテスマを授けることになりました。水は凍えるように冷たく、三人がバプテスマを受ける間ずっと水の中にいて、からだが冷えきってしまいました。それで、年配の方がバプテスマを受けるときや大雨で川に入れないときのことを考えて、ポータブルのバプテスマ・プールを買いました。と言ってもバプテスマ専用のものではなく、グラスファイバー製の魚の飼育槽でした。アメリカにはバプテスマ専用のものがありますし、折りたたむと長さがわずか4フィートになるというものもあります。そういうものがあると、礼拝の中でバプテスマ式ができるので、良いかなと思います。

 「バプテスマ」という言葉にはもともと「水に浸す」という意味があって、初代教会では、バプテスマを受ける人は全身を水に浸されました。聖書にこうあります。

そこでピリポは口を開き、この聖句から説き起して、イエスのことを宣べ伝えた。道を進んで行くうちに、水のある所にきたので、宦官が言った、「ここに水があります。わたしがバプテスマを受けるのに、なんのさしつかえがありますか」。〔これに対して、ピリポは、「あなたがまごころから信じるなら、受けてさしつかえはありません」と言った。すると、彼は「わたしは、イエス・キリストを神の子と信じます」と答えた。〕そこで車をとめさせ、ピリポと宦官と、ふたりとも、水の中に降りて行き、ピリポが宦官にバプテスマを授けた。ふたりが水から上がると、主の霊がピリポをさらって行ったので、宦官はもう彼を見ることができなかった。宦官はよろこびながら旅をつづけた。(使徒行伝8:25-39)
これはピリポがエチオピアの役人にバプテスマを授けたときの様子を描いたものです。ピリポと役人のふたりが水の中に降りて行き、水から上がりました。これは全身を水に浸すバプテスマのことを指しています。

 紀元200年ころに書かれた「使徒的伝承」(Apostlic Tradition)という書物の中にはバプテスマの様子が次のように描かれています。

バプテスマを受ける者が水中におり立った時、バプテスマをほどこす者は、手を彼において、次のように言う。
「あなたは、全能の父なる神を信じますか。」
パプテスマを受ける者は答える。
「信じます。」
バプテスマをほどこす者は、彼の頭に手をおき、彼を一度水に浸して、次のように言う。
「あなたは、神の子、キリスト・イエスを信じますか。…」
彼はもう一度水に浸される。バプテスマをほどこす者はかさねてたずねる。
「あなたは聖霊と聖なる教会、そしてからだのよみがえりを信じますか。」
バプテスマを受ける者は、「信じます」と答え、もう一度水に浸される…
バプテスマは初代教会の時代、それを受ける人を水に浸すという方式で行われていました。

 二、バプテスマの意味

 では、このバプテスマの形式は何を意味しているのでしょうか。

 それは、第一に、罪の赦しを意味しています。日本の宗教にも、神事を行うときに滝に打たれたりして身を清める「みそぎ」というものがあります。神社の境内には参拝者が手を洗う「手水舎」(「てみずや」あるいは「ちょうずや」)と呼ばれるものがあって、そこで手を洗うのは「みそぎ」の一種です。それによって汚れを払うことができると信じられています。しかし、人に、本物の罪の赦しを与えるのは、バプテスマの他ありません。ペンテコステの日に、「(救われるためには)どうしたら良いのでしょうか」尋ねた人々に、ペテロは、「悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい」(使徒2:38)と答えています。ダマスコ教会のアナニアは、後にパウロと呼ばれるようになったサウロを導き、「そこで今、なんのためらうことがあろうか。すぐ立って、み名をとなえてバプテスマを受け、あなたの罪を洗い落しなさい」(使徒22:16)と言いました。バプテスマの水は、たんに人の外面を洗い清めるだけではなく、内面をきよめるものなのです。

 バプテスマは第二に、生まれ変わりを意味しています。聖書にこう書かれています。

それとも、あなたがたは知らないのか。キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。(ローマ6:3-4)
バプテスマは、バプテスマを受けた者がキリストと共に死に、生まれ変わって新しい人となり、神の子としての身分と性質を与えられることを意味しています。水に浸されるとき、古い人はバプテスマの水に溺れて死に、水から上がるとき、生まれ変わって新しい人となるのです。バプテスマの水は新しい人の産湯のようなものだと言えるでしょう。

 ある人がバプテスマを受ける前に牧師に頼みました。「わたしは、まだまだ古い人に死にきれていませんから、先生、私の古い性質が完全に死ぬように他の人より長く、水に入れたままにしてください。」牧師が答えました。「そうですか。では5分ぐらいはどうでしょうか。」その人は驚いて言いました。「えーっ、そんなに長いと、新しい人まで死んでしまいますよ。」ふたりは大笑いしました。水の中で息を止めていられるのは、ふつうの人で1分ぐらい、訓練した人でも3分ぐらいだと言われています。それ以上になると気を失ってしまうそうです。最後に牧師が言いました。「私たちは自分の力で古い人に死に、新しい人に生まれ変わるのではないのです。それはイエス・キリストの十字架と復活の力によるのです。神は私たちを瞬間に生まれ変わらせることがおできになるのですから、水に浸されるのは1秒で十分でしょう。」それを聞いて、この人は安心してバプテスマを受けたということです。

 バプテスマは第三に、教会に属することを意味しています。さきほど引用した聖書の言葉に「キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたち」(ローマ6:3)という表現がありました。これは英語では "all of us who have been baptized into Christ Jesus"(ESV) と訳されており、これはキリストから遠く離れていた者がキリストにつながることを意味しています。主イエスは言われました。

わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう。枝がぶどうの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしにつながっていなければ実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。(ヨハネ15:4-5)
この言葉どおり、私たちはキリストにつながることによって、はじめてキリストの命で生かされ、キリストに似た者へと変えられていくのです。バプテスマは私たちとキリストとを結びつけるものです。それで、新共同訳では、「キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたち」というところを「キリスト・イエスに結ばれるために洗礼(バプテスマ)を受けたわたしたち」と訳しています。

 聖書は教会を「キリストのからだ」と呼んでいます。教会はキリストのからだであり、キリストは教会のかしらです。私たちはバプテスマによってキリストと結ばれ、「キリストのからだ」である教会につながるのです。キリストのからだの一部となること無しにキリストにつながることはできませんし、キリストにつながっている者がキリストのからだにつながっていないということもありません。ぶどうの枝がその木から切り離されたなら命を失うように、からだのどの部分も、そこから切り離されたら死んでしまいます。バプテスマによってキリストのからだである教会に属することはじつに大切なことです。古代から「信じることは属すること」("To believe is to belong.")と言われてきましたが、それは真実なことです。

 三、バプテスマと信仰

 では、バプテスマが、そんなに素晴らしく、力あるものなら、教会に大きなプールを作って、誰でも彼でもどんどん水に浸したらいいのではありませんか。大通りに「5分で受けられるクイック・バプテスマ」という看板を出して、来る人誰にでもバプテスマを授けてしまうというのは、どうでしょうか。もし、バプテスマ・プールに張った水そのものに不思議な力があって、人の罪を赦し、人を生まれ変わらせ、人をキリストに結びつけることができるのなら、そうすれば良いのかもしれません。しかし、バプテスマ・プールの水はダラス水道局から供給されている普通の水にすぎません。水そのものにそんな力があるわけではありません。聖書が「悔い改めなさい。そして、…バプテスマを受けなさい」(使徒2:38)、「信じてバプテスマを受ける者は救われる」(マルコ16:16)と言うように、バプテスマを受ける人には神に対する悔い改めとキリストへの信仰が求められています。バプテスマに悔い改めや信仰が伴わなければ、それは意味を失くしてしまいます。バプテスマの儀式を形どおり行えばそれで人が救われるというのではありません。

 では、悔い改めと信仰があれば、バプテスマを受けなくても良いのでしょうか。いいえ、本当に悔い改め、本気でキリストを信じる人が、キリストが命じておられるバプテスマを受けないで済ませることはないでしょう。キリストを信じる信仰の中には、その信仰をバプテスマによって公に言い表わすことが含まれているのです。

 ローマ10:9-10は口で言い表わすことと心で信じることとは、コインの表と裏のように一体になっていると教えています。

なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。
すべての人の心を見通しておられる神は、信じてもいないことをどんなに口で語ったとしても、それを見抜かれます。私たちが信仰を言い表わすとき、その言葉はまごころから出たものでなければなりません。また、もし、まごころから信じているなら、そのことは、心の中だけにしまい込まれたままではなく、言葉と行いによって、神と人の前で言い表わすことができるはずです。そうした信仰の告白の第一歩がバプテスマです。心で信じ、口で言い表わして救われるとあるように、イエス・キリストをまごころら受け入れたなら、次は、その信仰をバプテスマによって表わすのです。信じた人が「バプテスマを受けたい」という願いに導かれていくのは自然なことです。

 バプテスマを受けたいという願いがあっても、「バプテスマを受けたいと言ったら、家族に反対されるかもしれない」「バプテスマを受けても、ちゃんとしたクリスチャンになれるかどうか心配だ」「わたしは聖書のことをほとんど知らないから、まだバプテスマを受ける資格がない」など、いろんな思いが心に起こってくるでしょう。私は、数多くの人々にバプテスマを授けてきましたが、教会に来て間もなくバプテスマを受けた人もあれば、何年もかかった人もありました。けれども、バプテスマを受けるときに心配したことは、すべて見事に解決されてきました。夫に反対されるのではと思ったら、かえってとても喜んでくれ、ご主人もバプテスマ式にも来てくれたなどといったこともありました。バプテスマはわたしたちから神への信仰告白ですが、同時に、バプテスマは神から私たちへの恵みのギフトです。たとえ私たちの信仰が弱く、小さなものであったとしても、それが真実なものであれば、神はバプテスマによって私たちの信仰に確信を与え、それを強めてくださるのです。

 ある人が牧師からバプテスマを勧められたびに、さまざまな理由をあげて、「まだその時ではありません」と言ってバプテスマを断わり続けてました。その人の弁解をじっと聞いていた牧師は、最後に口を開いて、「バプテスマは自分が受けるとか受けないとか言うものではなく、神が授けてくださるものなのですよ」と語りました。その夜、その人の心に、「バプテスマは授けていただくもの」という言葉が響きました。そして、その人は、自分のような者をバプテスマに招いてくださっている神の愛と恵みに気付いて、さっそく、牧師に電話をかけました。「先生、わたしはバプテスマを受けます。いいえ、わたしにバプテスマを授けてください」と。

 信仰を求めて礼拝に集っているおひとりびとりが一日も早くバプテスマの恵みを受けられるようにと、心から願っています。すでにバプテスマを受け、バプテスマの恵みを体験している者は、その恵みを改めて感謝し、夫や妻、子どもたち、また親や兄弟姉妹がその恵みを受けられるよう、祈りに励みたいと思います。

 (祈り)

 父なる神さま、今朝、まだバプテスマを受けていない方々に、バプテスマのことを真剣に考える機会を与えてくださったことを感謝します。すでにバプテスマを受けた者たちも、自分たちが受けたバプテスマの意味を確認することができました。イエス・キリストを信じ、バプテスマを願う人々を数多く起こしてください。そうした方々のために祈り、良く導くことができる私たちとしてください。家族の救いのために祈り続けている方々を励まし、家族そろってバプテスマを受ける喜びの日が早く来ますように。主キリストのお名前で祈ります。

8/18/2013